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演歌とカントリーと仲間達 その2

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 3月27日(金)08時00分30秒
返信・引用
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            演歌とカントリーと仲間達 その2   2010-2013


         
                    2011.2.5  佐高11期新年会


2010年 万華鏡(旧称 落書き帳)

見えない糸   ウ・ドンコ投稿日:2010年 1月18日(月)13時30分
 昨日はマツヤ、熊井、オガワとの4人でバンドの練習をして恒例の飲み会へ。
練習に来たマツヤが笠井紀美子(斜光14号に関連投稿)のLPを見つけて「あれ、このアルバムをオレ持ってる」と。19か20歳の頃、好きな歌手だったので買ったとの事。
偶然とはいえ驚いた。
 飲み会でも昔の音楽の話になって、もっと驚いた偶然どころではない我々の見えない糸で繋がっていたことがわかってビックイ。
 当時、ヤマハ主催の世界歌謡祭という世界的な大きなフェスティバルがあって当時のポピュラ-界の注目をあびていた。世界歌謡祭の前段階としてLM(ライトミュージック)コンテスト、POP CON.(ポピュラーソングコンテスト)という全国規模の音楽コンテストが当時の若者の関心をあつめていた。
 この両コンテストから上条恒彦と六文銭(旅立ちの歌)、世良公規(あんたのバラード)、中島みゆき(時代)、小坂明子(あなた)、、円広司(まどかひろし/とんでとんでとんでまわってまわってまわってエ~)など数多くのアーティストが世界歌謡祭に出場して世に出たのでした。(抜粋)



明日の同級生ライブ  ウ・ドンコ 2010年 2月 5日(金)14時37分
昨日はいよいよ明日に控えた11期生関東同好会新年会でのライブのオサライを18:30から全員揃って両国のリハーサルスタジオを借りてやり、課題を残しながらも飲み会へと。
 私達のバンドもちょうど3年前のこの会に出たのが人前で演奏したはじまりでした。
この時はまだバンドとしては4,5曲しかレパートリーがなくアンコールにも応えることができなかったのです。そして3年ぶりに皆さんへの感謝と報告として、明日午後2:30より、与えられた1時間・10数曲を披露しようと思ってます。
 前回はまだナオちゃんがいませんでしたが、明日はシッカリ私の横でバンジョウ、マンドリン、ギター、コーラスと全面サポートしてくれることになってます。これもお楽しみになれるかもしれません。
 まだまだ発展途上のバンドですが精一杯感謝の気持ちをお届けしようと思ってます。
なかでも同級生の熊井君の成長ぶりを是非ご覧いただけたらと思っています。
はたしてどんな曲が飛び出すやら…。 (抜粋)



ウの週末 ウ・ドンコ 2010年 3月 7日(日)10時58分
 昨日は久しぶりにメイッパイ楽しい一日を過ごしました。
 毎月第一土曜の夜は銀座のカントリー専門の老舗ハウス・ナッシュビル(銀座)へ可能な限り行く事にしています。
1月はバンドのメンバーと、先月は関東同窓会二次会後に同級生5人(私と熊井君も含めて)で、そして今月はバンド練習後に熊井君、モンニョちゃん、MIOちゃん先生(カントリーダンスの先生)と行きました。
 昨夜はめずらしくお馴染みも含めてお客がいっぱいでした。
熊井君はお酒が飲めない(飲まない?)ので私と女性二人でバーボンをホボ1本空け、ステージへ向けて大声援を送ってきました。
ディッキー自身、いつもより楽しそうに、嬉しそうにいい演奏をしてくれました。
おまけに昨夜は久しぶりにJ.J嬢もばっちりとカントリースタイルで決めこんで現れ、おたがいに久しぶりの対面に、なつかしさのあまりに人前もはばからずに熱い抱擁をかわして喜んだのでした。
MIOちゃん先生も相当にお酒が強いようでサホド酔った様子もなく帰宅。来月の来店も約束(一応)したのでした。
 さすがプロ(あったりまえだよ!)歌も演奏も選曲もトークも素晴らしく全員大満足。久しぶりにスカーットしたひと時を過ごせました(モンニョちゃん、感想があったら何か言ってみてヨ)。(抜粋)



オワッタ! ウ・ドンコ2010年 8月30日(月)19時55分
8月にライブをやろうと言い始めて三ヶ月間、メンバー一同時間のやり繰りのなかで練習を重ね、昨日ナントカ上野アメ横でのライブを終えたのでした。
イメージだけはドンドン成長していくものの実力はなかなか思うようには追いつかないなかでのライブだったと思います。
ただ多くの人が「タノシカッタ」と言ってくれました。
 思わぬ同窓、同級の仲間も来てくれました。ホントニありがとうでした。
写真を撮ってくれた人からぼつぼつメールで写真を送ってくれてます。ビデオもなんとか映ってました。そんななかから私と熊井君のショットがありましたのでご覧ください。
 今回はいつもより新曲を多く用意しました。熊井君も新曲「I'm So Lonesome I Could Cry(泣きたいほど淋しさ)」と言う曲を引っさげてのライブでした。
もともとはハンク・ウイリアムスの作詞・作曲の歌ですが、後年プレスリーが歌ったバージョンで熊井君はバッチシ歌いました。
 よろしければ聞いてください。カントリーの中でもブルーラブソングの代表曲と言われる曲です。

       




2011年

午後のおしゃべり/この一週間のコト ウ・ドンコ 2011年 2月 8日(火)14時07分
 今年のサークル新年会の余興には私と熊井君のカントリー(各2曲づつ)の他に日高嬢のフラがありました。
「フラを踊るので伴奏と歌をやってみない?」と言われイチモニモナク「やります。やらせてください」と言ったものの、送られてきた楽譜を見てビックイ。楽譜は問題なかったものの、歌う歌詞が日本語でもなければ英語でもなく、ハワイの原語だった。
しかも4番まである(ワケモワカラン原語の)歌詞に同じところがなくミンナチゴタとよ。練習したくとも充分な時間がなくアセリました。(抜粋)

     


オハヨウ! ウ・ドンコ 2011年12月10日(土)05時33分
昨年(一昨年?)、カントリーシンガーをテーマにした映画「Crazy Heart」という映画が封切られてカントリーファンを喜ばせてくれました。そしてアカデミー作品賞を受賞した地味ながらいい作品でした。見終わった時にはアワテテ涙を拭ったもんでした。
つい最近ですが、珍しく同じようにカントリーシンガーをテーマにした映画がレンタルビデオで新作として貸し出されました。「American Strong」というタイトルです。今回のは全編に渡ってフンダンにライブシーンが出てきます。
嬉しかったのは始まったトタンにマール・ハガードの「Silver Wing」が出てきます。この歌は私も、バンドを結成する以前に覚えていた曲だけに嬉しかったです。私たちのバンド「勝どき浮人会」で今は熊井君が歌って、私がハーモニーを付けています。
レンタルビデオの新作で借りる事ができますのでおすすめします。(抜粋)




2012年

ライブ余話 ウ・ドンコ 2012年 1月23日(月)14時25分
当日は終日ミゾレまじりの寒い一日でした。
にもかかわらず7、当初想定していた以上の70数名が一丸となって熱気にあふれた一夜を過ごしました。
実を言うとバンドの重要なパートを受け持つナオちゃんが数日前より来年の大河ドラマの打ち合わせに福島に出張していたのです。ヒョットすると本番に間に合わない可能性が充分にあると聞かされヒヤヒヤしていたのです。
朝から何度も携帯に電話してみても通ぜずに様子がつかめない、会津若松を2時の新幹線に乗らないと絶対に間に合わないことになっていたのです。
結果はセーフ。そのかわり衣装もゴム靴もそのままのイデタチでの登場となりました。楽器とハットだけは私が会場に運び込んでいたのでカロウジテ事なきを得ました。



ライブ余話-2 今多迷道 2012年 1月23日(月)17時54分
本当にあの日のライブは、お客とバンドが一体となって盛り上がりましたねぇ。もともと60名が目標でチケット販売を分担しましたが、横須賀からわざわざ東京まで聴きにこようなんていう殊勝な奴は居ないんです。バンマスに「何とかそちらで売ってくれないか?」と泣きついたら「今回はこちらも厳しい、そちらで何とか頑張れ!」とのこと。結局は会社の若い衆に業務命令で行かせました。ところが結果は70数名の大盛況。狭いところでケツ(尻)と足をぶつけあいながらの歌え踊れになりました。どうもありがとうございました。
新風児さんには「いやぁ!実に楽しく聴かしてもらってます」と言ってもらったし、伊藤さんには「私は楽しむという余裕はなく、胸をドキドキさせています」。彼女はどうも我々の演奏を、発表会で歌っている幼稚園のわが子を見ているような気持で聴いてくれていたらしい。そういう身内のような気持ちで聴いていてくれていたというのは、本当に嬉しかったですねぇ。そう言えば我々の最初のライブはひどかったからねぇ。あの印象が未だに彼女に残っているのかもしれないねぇ。最初のライブは僕がバンドに入って半年かそころらの時期で僕と小川ちゃんはまだギターのコードもちゃんと抑えられなくて、大休止と小休止の連続でしたからねぇ。会場の後ろで、突然あの背の高い緒方君が立ち上がった。そしてズカズカと近づいてきて、僕の目の前で耳を傾けてきた。後で僕は質問をした。「あの時何しに出てきたんだ?」「お前のギターは全く聞こえないので、本当に弾いているのか確認に行ったんだ!」 確かにあの時は僕はお休み中だった。



2013年

2013年サークル合同新年会  幹事 2013年 2月 4日(月)19時46分
昨日の2月3日(日)に恒例になっている2013年のサークル合同新年会を銀座のライオンで開催したところ四十数名の方にご参加いただきました。
伊藤洋子さんの絶妙な司会で進行してあっという間の楽しいひと時でした。初めに各サークルの昨年の活動状況と今年の計画が「歩くハイマー」から順に報告されました。そして食事を一段落したところで(近藤さん、熊井さん)の二人に特別ゲストで近藤さんの現在の歌のパートナーであるジェネットさんが加わり(アメリカ人)三人によるカントリーミュージックの素晴らしいライブを楽しませていただきました。プロも顔負けの演奏と歌でした。最後に江島さんより今年の秋開催の同窓会の案内がありそこで再開することを約束し散会しました。その後有志十数名で近くのカラオケ店にくり出し自慢の歌で再度盛り上がりました。サークル合同新年会は今後も皆様の御協力で出来る限り続けていきたく思っておりますのでよろしくお願いいたします。

    


ボイトレ>今多迷道 2013年 9月30日(月)10時36分
 鳥星さん! 腰の痛みはやっかいですからねぇ。 今度は完全に治してから出てきてくださいよ。
 旅人Mさん! 津軽の旅は無事終えたようで、御苦労さまでした。しかし我々の年代、特に70を越してからは、筋力の衰えの早いこと早いこと。 Mさんもそろそろ あまり無理をしない方がよろしいのでは?

私事です。バンバンドのライブの時、自分の声が全く聞こえないということがたびたびあって、自分の声量の無さは何とかならないかなぁと思っていました。 たまたま家の近くにボイストレーニングをやっている音楽事務所を見つけ相談に行きました。「70を過ぎてまだ声がでるようになりますかね?」「大丈夫ですよ」と言われボイトレを始めたわけです。
リップサービスかもしれませんが「熊井さんは上達早いですよ」とか何とか言われて、今もまだ続けています。先日先生に「生徒さん達の発表会をやります。熊井さんも出てみなさい」と言われ、独唱で「出船」を歌いました。ピアノ伴奏だけでマイクも何も無し、中ホールの客席に向かって一人で歌うのですが、自分の声は出て行ったまま帰ってきません。
幸か不幸か?その日は台風18号が関東に接近した16日でした。客席はガラガラ、大体家のカミさんにも「台風がくるから聴きにいくの止めた!」と言われたくらいです。どこの家族も敬遠してくれたようで、お陰であまりあがることもなく何とか歌い終えたわけです。
 そして昨日29日は「安田宗弘と門下生のジョイントコンサート」が開かれ、先生とその門下生10人がナポリ民謡と日本歌曲を歌いました。もちろん我々の発表会は無料でしたが、こちらの方は有料¥1500を取ります。それでもホールはほぼ満席でした。
先生奥田宗弘は昭和16年生まれだそうですから、偶然にも我々と同級生ということです。
武蔵野音大声楽科二期会会員。イタリア留学時はオペラなどに出演、向こうでも活躍したそうです。 先生の歌は素晴らしかったですねぇ! 声の迫力・伸び・歌の説得力は圧倒的でした。その門下生も実力は十分、プロに殆ど遜色なし、その美声はホール中に響き渡りました。後で僕はその門下生に聞きました「貴方はどのくらいやっとられますか?」「僕は大体20年ぐらいになります」「えっ!20年!、そりゃー駄目だ! 俺はそのころには既にあの世に行っている!」。 

412

 
 

演歌とカントリーと仲間達1

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 3月21日(土)08時29分8秒
返信・引用
                    
            演歌とカントリーと仲間達 その1 2002-2004


         
                  2013.2.3  佐高11期 新年会



2002年 落書き帳(佐高11期電子掲示板)


YOKOSUKA JAZ DREAMS 2002 今多 迷道    7月30日(火)11時24分
先日28日(日)横須賀芸術劇場(横須賀にもこういうハイカラなものがあるんです!)にて、YOKOSUKA JAZ DREAMS 2002 という催しがあり、久しぶりに音の世界に遊んできました。
第一部、小曾根 真(ピアノ)と GARY BURTON (ビブラフォン)との二重奏。小曾根のピアノのテクニックはそれはすばらしいものでした。第二部、原 信夫とシャ-プ&フラッツ、17名のビッグバンドの猛獣達の咆哮の様な迫力を満喫。ここにジョ-ジ川口が特別参加!彼は75歳の高齢・原 信夫も恐らく70台?シャ-プ&フラッツの3分の1は若いが あとは高齢者ばかり、まるで敬老会の様な組み合わせでしたが。ジョ-ジ川口、一頃の汗を滴らせてのエネルギッシュなドラムではありませんでしたが、チンドンヤみたいに派手な背広に身を包み、終始にこやかに、楽しそうにやっていました。好々爺。最後は渡辺 貞夫と彼のグル-プ。そこにアフリカン・パ-カッションの
N'GOMAMAKAMBA というグル-プが合流。重層の 打楽器だけの叩きつける様なアフリカのリズムは
陽気・激しい情熱の中に鬱積した怒りも混入しているように感じた。そこに渡辺貞夫の 澄んだフル-ト?が加わると、奥底のほうに 深い悲しみが漂う・・・・・。
一転してブル-ス調の静かな曲に変わると、哀調を帯びたサックスが やさしくゆりかごを揺らす。それにしても渡辺貞夫の 円熟し達観した境地、仲間達とのハ-モニ-を 自由にのびのびと楽しむ姿・挙措が非常に印象的であった。アンコ-ルがまた圧巻、全出演者が揃っての舞台は、一流どころがうち揃っての豪華も豪華!極めてゴ-ジャスなフィナ-レでした。(小話の箱)



「ライフルと愛馬」今多 迷道   9月11日(水)10時30分
近藤君にオ-ルディ-ズ・ヒットパレ-ドというCDを貰った。約40年前・高校から大学時代にかけて、毎週聴いていた「今週のヒットパレ-ド・ベスト10」等の番組で、ベストワンの曲が軒並み網羅されている。
私達が高校2年の時・学校での音楽の時間、オンボロ教室ではあったが、佐賀県に一台か二台しかないだろうと言われたビッグなステレオがあり、音楽鑑賞ということでクラシックを聴かせてくれた。そのすばらしい音色と迫力に感動したものである。ところが我々は曲が始まってしばらくすると、皆机にうつ伏せになって”グ-グ-・ピ-ピ-”。曲が終わる頃にパッと目が醒めるという状態であった。私はどの曲も 出だしと終わりしか聴いてないから、はたして途中がどういう曲だったか ひとつも憶えていない。先生の名前は忘れてしまったが、我々がそんな状態でも 何度も聴かしてくれた。当時としては非常にゴ-ジャスな時間を持たせてくれた訳で、佐高にも粋な先生も居たもんだな-と思うのである。
ある日の放課後のこと、誰がいたずらしているのか?そのビッグなステレオのボリュ-ムをいっぱいにあげて「ダイアナ」の曲が校庭に響き渡った。それが又陽気で、リズミックで、とても楽しくて ウキウキと心が躍ってくるのである。それまで聴いていた演歌とは全く違っていたのである。
私は一遍にポピュラ-党に変わってしまった。それからは毎週毎週ポピュラ-番組をよく聴いた。
浪花節党の親父に「なんじゃ-そりゃ-、騒がしかばっかりじゃなかか!」と言われながら。
ところが何回聴いても英語では何を言ってるのかさっぱりわからない。が どうしても憶えたいと思って歌えるようになったのが、最初の衝撃の「ダイアナ」と西部劇「リオ・ブラボ-」の主題歌「ライフルと愛馬」である。悪徳牧場主が荒くれ牧童と大挙して襲ってくるという緊張した場面、嵐の前の静かな一時、ディ-ン・マ-チンとリッキ-・ネルソンがギタ-を弾きながら掛け合いで歌ったのがこの曲である。その何とも言えない雰囲気に痺れてしまったのである。
「ダイアナ」はスナックやカラオケ・ボックスで時々歌っているが、「ライフルと愛馬」は曲が無い。CDやカセットを探してももう廃盤になっていて、どうしても見つからなかった。ところがこの曲が、近藤君のCDにちゃんと収まっていたのである。車を走らせながら 今おもいっきり歌っている。一人で口をパクパクやってると、行き違う対向車の運転手に怪訝な顔をされているが! (小話の箱)



演歌回帰  今多 迷道  投稿日: 9月11日(水)14時37分
僕も今は演歌です。最近の息子達が聴いている歌はもうひとつ心に響きません。我が社には3人の年寄りとあとは20台30台の若い者ばかりですが、カラオケ・ボックスに行っても若い者には付いていけず、苦痛になってきます。会社の中では 仕事は楽しくやろうと、有線でミュウジックを流していますが、以前はジャズ・クラシック・ポピュラ-・カンツォ-ネ・ハワイアン色々流していました。ところが部屋の中が年寄りだけになると、いつの間にやら演歌に変わっています。
結局演歌が一番落ち着くんです。頭の中の配線は 若いうちは柔軟に新しいものに対応して切り替え可能ですが、年を取ってくるとそれが段々難しくなり、結局若い頃から永い間 馴れ親しんだものに回帰していくのだと思っています。




2004年 落書き帳

蘇るム-ド歌謡 今多 迷道   3月 1日(月)12時13分
昨日は題名のとうり、「ザ・マヒナスタ-ズ」と「ロス・プリモス」のジョイント・コンサ-トを観てきた。観客は我々の歳プラス・マイナス10歳というところ。今回はこの前のピンクレディ-と大違い、皆さんマナ-も良く他人の迷惑も考えず立ち上がるような人は一人も無い。充分に楽しんできました。先日和田弘が亡くなってどうなるのかな?と思っていたら、スチ-ルギタ-はずっと若返った痩せた人に交代、「和田弘とマヒナ・スタ-ズ」から「ザ・マヒナ・スタ-ズ」になっています。マヒナ・スタ-ズが、日本で初めてム-ド歌謡コ-ラス・グル-プとしてデビュ-したのが、昭和33年だそうです。我々が高校1年生の時です。それからず-と歌い続けて、今では和田弘が亡くなり、バンドメンバ-には日本に初めてハワイアンを流行らせたバッキ-白片の長男と次男及び
ハワイから駆けつけたというハ-フの姪が加わっているという。勿論バッキ-白片も亡くなっています。遠くから見ると若々しい田代美代子もちょっと声がかすれぎみ。何か遥かな越しかたを思わせる懐かしさに包まれたひと時でした。
6月には和太鼓の「鼓童」を観る予定である。



トントン、入っていいですか? ローズ・マリー   3月 2日(火)03時25分
はじめまして、ローズ・マリーです。
HPを楽しむのがやっとの生活からなんとか脱して、書いてみようかな、という心のゆとりが出てきました。
人生ここに来て、遊びをせんとや生まれけんというより、生きてるうちに、動けるうちに楽しもう今日という日を大切にと思う事しきりです。
今田迷道さんのコンサート歴、楽しいですね。私も様々なジャンルの音楽が好きですが、限られた予算内では無難にクラシックコンサートを選びがちでした。ところが最近仕事や趣味関係で音楽以外のタダ券も手に入るようになって、観ねば損々と東奔西走しています。
去年の12月はゴスペルコンサートに、アーチストから促されるのをいい事に立ち上がり、手を振り、おシリまで振ってきました。
1月は和太鼓を二つ、「鼓童」と「大阪打打打団天鼓」前者は逞しさや求道的なものを感じ、しっとりとした味もあり観客は年配層が多かった。後者はエネルギッシュでスピーディな展開、子供から大人まで楽しめるものでした。2月はこんにゃく座オペラ「ラ・マンチャの男、あるいはドン・キホーテ」、新国立劇場オペラ研修生による喜歌劇「こうもり」のゲネプロ。(抜粋)



トリオ・リオ・ロス・ディアマンテス 今多 迷道   7月19日(月)10時16分
teaに関わる人が3名も居たとは知りませんでした。多分あれはあの人だろうと推測をしていたのが、お陰でさっぱり分からなくなりましたよ。
先日横浜に出た折に、買い物をするために上大岡に寄った。雑踏する駅の夕暮れ時、突然陽気な軽快な演奏が流れだした。その歯切れの良いリズムに引かれて「ちょっと聴いてみようかな!」という気分になって見に行った。殆どの人が足早に通り過ぎる中で,4~5人が立ち止まっている。
多分ペル-の演奏家、ちょっと名前が出てこない、あの南米のホラ貝に似た笛とギタ-とパ-カッションのトリオ演奏である。粗末な服、日焼けした肌、永年の強制労働に少しゆがんだような身体。しかし陽気に身体をゆすっている。そのうちに、一人が演奏を止めて CD をどうですか?と売り歩きだした。僕のところにも持ってきたので、いくらだと聞くと¥3000円という。あまり期待できないが、わざわざ遠くからやって来たんだからと買って帰った。
ところがこれがなかなか良いんである。運転中の車の中はいつもカラオケ・ボックスになるが、今はもっぱらこの陽気な演奏を楽しんでいる。そうすると今度はトリオ・ロス・ディアマンテスのあの甘いハ-モニ-を聴いてみたくなった。レコ-ド店に行って捜したが無いんである。今は演歌やオ-ルディ-ズはもうレコ-ド店の中でも片隅に追いやられて、小さくなっている。どなたかもし見つけたら教えてほしいものである。



言葉集め星創り 投稿者:今多 迷道  投稿日:10月12日(火)16時33分
車を運転しながらいつものように演歌を聞いていた。五木ひろしの「横浜たそがれ」に変わった。
横浜 たそがれ ホテルの小部屋、 口付け 残り香 タバコの煙。ブル-ス 口笛 女の涙
「あっ!そうだ!」北君の「言葉集め星創り」と同じ方法・構成ではないのか?
述語を使わず、言葉を並べていって、そこからイメ-ジを作らせていく手法は全く同じではないのか?と思いついたのである。
北君は斜光のパイロット版より「言葉集め星創り」を連載しているが、俺にはよく分からなかったのである。「そうだ!言葉一語一語の前後の意味にあまり拘らず、言葉の集合としてイメ-ジを膨らませれば理解できるかもしれない」。早速家に帰ってパイロット版を引き出した。何と無く分かったような気になった。創刊号を引き出した。これも分かったような気になった。第2号を引き出した。辞書 掛かる 自転車 職人 とおせんぼ 一緒 混ぜる 牛乳 抱える 沼 やどかり。
やっぱり我輩の貧困な想像力では理解不可能である。
塩野七生が言っていた。凡人は天才を理解できない。秀才は天才を理解できる。しかし自分にそれほどの能力が無いことも知っているので、しばしば悩んだり、嫉妬したりということがある。
どうもこの件、この凡人と天才の関係みたいである。どなたか秀才さん、解説してくれませんかね?



郷愁 今多 迷道  12月 6日(月)17時56分
先日グレンミラ-オ-ケストラの演奏をかぶり付きで観て来た。昔よく聴いたスタイルをそのまま受継いでおり、そろいの服、そろいのネクタイで真面目な紳士揃いの豪華なビッグバンドであった。
ある時は、指揮者のラリ-オブライエンが大きなジェスチャ-で耳を塞げという。何事か?と思うと
トランペッタ-が5人も舞台の前面に並んだ。舞台から速射砲のように噴出される音の矢は会場中に乱反射し反響した。またある時は、夕焼けに染まった空を背景にした黒いシルエットの摩天楼街。甘-いメロディ-が夕闇迫る街角に流れ渡る。トロンボ-ンがあんなにソフトで繊細で暖かい音色を出すとは?初めて知ったのである。

自分の部屋にはもう新しい本を入れる余裕が無い。それじゃ-買うのを止めて、昔読んだ本を引っ張り出して再読することにしよう。と思って藤沢周平の「蝉しぐれ」を読み直した。
藤沢作品というのはやはり、馴染んだ服のように自分にしっくりくるのである。何故だろうか?
例えば自然とか季節の描写。昔九州の田舎で見た、思い出のある自然が描写されている。日本的な人間の内部に抱いている自然である。描かれる淡い恋や友情も、かって自分もどこかで経験したことがあったような気がする。
その潤い・情緒・暖かさが懐かしく郷愁を誘うのであろうか。

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今多迷道 VS 仮面ライター

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 1月17日(土)15時54分51秒
返信・引用
  今多迷道 VS 仮面ライター


◆異風物(者)氏に変わって登場したのが今多氏である。
  激高し持論を述べ続ける仮面ライター氏に対し、異風者氏同様冷静沈着に説明と投げか
 けをするが、相手には通じないように見える。

◆他のペンネームを使用し「なりすまし」で巧み?に論点をはぐらかしたり、賛同者が他
 にもいるように見せかける手法は、異風者氏の時とまったく変わらない。今多氏もまた、
 これでは議論にならないと筆を置いた。

クリック参考 『異風者VS仮面ライター』



2002年 落書き帳  -2002.10月 拉致被害者帰国(小泉内閣)

異風物氏、さらにやさしく丁寧に荒ぶる魂仮面ライターに語りかける。

(無題) 投稿者:異風物  投稿日:11月11日(月)22時19分26秒
人は平穏無事にすごすことがなによりです。争いごとないに限ります。だけど必ず争いごとはおこります。それは自分と他人は違うということです。それが争いのはじめです。全てのひとが宗教者のいうように右の頬をたたかれたら左の頬を出すなら全て問題解決です。しかし人間そうではありませんそれは歴史が示しています。人間の荒ぶる魂これがこの世界を引きずっているような気がします。これを否定することができた暁にはじめて反戦、平和、護憲などと誇りをもっていえるでしょう。
最近の韓国、中共、北朝のにおける執拗な日本の内政干渉などに日本国内においても内応する意見もあるようですが、そこには日本が過去それらの地域において悪し行いをしたとの反省があるとおもいます。それはそれで自制し宗教てきな反省するのは悪いとはおもいませんが、政治的世界および現実生きている世界においてはあまりもナイーブで無責任な話です。なんで日本の首相が敗戦の日に日本のために無くなった方々のために哀悼の意を表するのがいけないのですか。なんで我々がいつまでもあやならなければならないのですか。日本人もっと誇りをもって生きていかねばと思っています。さらに新たな世界に向かって革新をしなければ、そのうち地球のお荷物になりかねません。還暦を過ぎ隠居しようと思わずこれからも思いついたことどもトンドン発言しようではありませんか。



そこにもう一人の冷静にものを考える人今多氏が姿を現しました。

超タカ派? 投稿者:今多 迷道  投稿日:11月14日(木)18時06分23秒
非武装中立論を唱える党があります。「非武装中立」何と甘い魅惑的な言葉でしょう。
しかしこの論はどの国にも偏らず、武器さえ持っていなければ、どこの国も侵略などしてこないという前提に立っています。100%の性善説です。本当にそうでしょうか?「社会に悪人など居ない、従って警察など不要である」という論理と同等の性善説です。人間はそれほど信頼してよいでしょうか?人類は物質文明は発達させてきました。それは先人の遺産を子孫に残せたからです。しかし人間性は5000年前から進歩したんでしょうか?人格者の子供は必ず人格者になりますか?親の人格は遺産としては残せない、世代が代わる度にゼロからの出発です。そして人類は何度も戦いを繰り返してきました。
かってイラクはクエ-トを併呑しようとしました。クエ-トは武装化を怠っていた為に、イラクは
簡単に踏み潰せると考えたのです。クエ-トがイラクにそう決断させる程の隙を見せたから起こった戦争です。もしクエ-トが「へんに手を出したら痛い目にあうぜ!」という程の軍備を持っていたら、イラクはそんな決断は出来なかったはずです。
今の北朝鮮、もし日本が武装もせずアメリカの後ろ盾もなければ、これだけ豊かな日本を前にして
黙って見ているだけでしょうか?拉致問題だってそうです。日本がもっと早く、領海侵犯した不審船に対し武力行使できるよう法律改定していたら、このように大量の拉致者は出していないはずです。スパイ法も持ってない日本が、北朝鮮の跳梁を許したのは、それだけの隙をみせていたからであって、当然の結果を招いただけの話です。いわば自業自得であって、今頃大騒ぎするのはおかしいと思います。鎧兜で固めた国々に取り囲まれている現在、軍事バランスを取っていないと、反って戦争を招く結果となるというのが現実であって、変な理想主義は反って危ないし、国民をそういう危険に晒してはならないと思います。
地政学的にも、日本はアメリカとロシア・中国という大国の真ん中に位置しています。もし日本が非武装中立であったとして、例えばロシアが北海道を取った場合、アメリカと中国はそんなことは止めとけ!というでしょうか?同盟国でもなんでも無いわけですから、「それじゃ-俺達も取っておかなくちゃ-損だ!」と考えて日本は草刈り場になるのが落ちです。そんな考え方はほんの100年もしない前、世界の常識だった訳ですから。中立なんて日本はできません。旗色は鮮明にしておく必要があります。それじゃ-どのグル-プにつくか?と言ったら、ぼくは一も二もなくアメリカです。アメリカにとって日本はロシア・中国に対する盾に過ぎません。どこについても同じですから、くやしいけどその地位に甘んじるしかありません。それが厭だったらまわりの大国と同等以上の軍備をもたなければなりません。その時だけ中立が保てます。いずれにしてもそれは非現実的ですから日本はアメリカグル-プとして旗色を鮮明にしておく必要があります。
それじゃ-アメリカは日本が危ない時、本当に血を流してまで助けてくれるでしょうか?疑問です。が日本には米軍基地がいくつかあります。そしてそこには数万人のアメリカ人がいます。彼らはいわば日本の人質です。人質がおれば助けにくるでしょう。それで僕は基地を早く返せ返せというのも考えものだと思っています。しかしいつまでもこの状態が続くとも思えません。アメリカは世界の至る所に軍事力を展開していますが、永久にこの軍事力を維持することは不可能です。もうその兆候は出てきていると思われますが、盛者必衰の理なり。アメリカが日本からも軍事力を引き上げ、日本は自らの力で自分を守ってくれ!となった時、バランスを取る為、日本も核武装するのか否か?冷静に慎重に判断する必要があります。いずれにしてもその時の状況による訳で、核武装の権利は保留しておくべきだと思っています。僕も出来たらそうしたくない。
しかし僅かに希望があると思っています。グロ-バル化と言われて世界の貿易量は飛躍的に増大し
資本も互いに投下しあって、経済の網の目は世界中に張り巡らされ且つ太くなっています。その結果、国と国が争う事はあまりにも失うことが多すぎると言うことになれば、核や軍事力をバランスを取りながらレベルダウンしようという方向にいく可能性はあると思います。そうなることを心から願っています。こんな事を言う僕は超タカ派と言われています。この大人しい気の弱いこの僕が超タカ派のはずがないではないですか?異風物さんと同じく現実派だと思っています。



第二の登場人物今多氏にまたかみつく荒ぶる魂  荒れすぎて名前を間違える。

また言わせてもらいます 投稿者:仮面ライター 投稿日:11月17日(日)08時40分14秒
「拉致問題」について少々むきになって書いてしまって、せっかくの落書き帳をつまらなくしてしまったようで、しばらくは遠慮しようと思ってました。しかし今さんの日本の武装化うんぬんとかの文章読んだらまたムラムラと書きたくなって・・・・・スンマヘンネ。
「非武装中立」とかの言葉、そういえば昔の社会党がよくいってたことですナ。しかしこれも「村山」のオッサンが首相になったとたん、自衛隊の合憲を認めてしまうぐらい、路線転換してしまった。現在こういうこと言う政党などいないじゃないの?共産党は戦術的に柔軟路線をとろうとしてるけど、共産主義をテーゼにしているかぎり、中立なんてありえないしね。それよりか中米に「コスタリカ」という国があるのご存知だろうか。そうまったく軍隊をもたない国。それも日本をとりまく環境と比べれば比較にならないくらい、まわりの国々は内乱や政変が続発している。いつなんどき侵攻されてもおかしくないくらい政情が不安定な国々に取り囲まれている。ニカラグア、ガテマラ、ホンジュラス、ヴェネズエラ、コロンビア・・・・などなど。もちろん日米安保みたいな軍事条約などどことも結んでないので、アメリカが助けてくれるなんて期待できない。ただこの国も15年ぐらい前までは、周囲の国々同様、内乱や政変が続出し、国力をすり減らしてしまった。その反省のもとにある時期、民意で選ばれた大統領が(すでに故人であるが、この人が偉かった)思い切って軍隊をなくし軍事予算をなくして(教育水準が低いと言うこともあり)、教育や福祉の方に向けてしまった。現在、中米では最も平和な安定した国でもある。羽仁進の孫娘だったかな2年ぐらいコスタリカに住み込んで「軍隊を持たない国」というドキュウメンタリー映画を作っていた。これみたら、日本の豊かさや便利さとは比べ物にもならないが、人々は貧しいながらも生き生きとしている。そして平和ボケしていながら、物騒なこという日本人と比べたら、何よりも「平和」の素晴らしさを大切にしている。
 ところで日本国憲法で武装化しないと言ってるのに、日本の軍事予算(防衛予算)はどのくらいあるか知っていますか。約6兆円、これは米国についで世界第二位の大きさでもある。昔の冷戦時代ならともかく、10年以上続く経済不況だというに、それに700兆円という天文学的な借金財政なのに、この防衛予算だけは減らそうともしない。あたしらに関係深い年金や医療の予算は先細りになるのは確実なのに。(*以下略)


続けてまた仮面を付け替えて二回も登場だ。ハト派、タカ派にも言い訳がましくふれている。

今月の書評 投稿者:読書人  投稿日:11月20日(水)16時04分43秒
私が推奨する(書評する)今月の本は「公益法人」です。私も今年6月退職するまでは、ある「社団法人」に出向してました。勤務していた民間会社からの天下りみないな存在だったから、あまり生意気なことはいえないけど、旧運輸省から天下った会長以下の経営陣の経営センスのなさ、経営に関しての緊張感のなさ、政策や人間関係についての旧態然としたやり方には、ことあるごとにケチつけてました。(おかげでそれまでの前任者たちは、60歳以降も2,3年はこの法人のプロパーとして雇われてたけど、私は定年月の3ヵ月後の総会で、お払い箱になってしまった) (*以下略)


寒くなりましたね 投稿者:読書人  投稿日:11月20日(水)16時22分13秒
同世代の方たちの色んな意見、様々だなーと感じてます。ただ社会問題などで右とか左とか、ハトとかタカとかの先入観で人を見るのあまり好きでありません。人それぞれ意見や見方が違うのは当然だし、またそれらを変えることも自由だしね。だからあるケースではハト的見方をしても、別のケースではタカ派的コメントが出てくるかもしれない。
 ただ今の時代状況や社会の現実見れば、常に批判的な精神を(balance of powerから言っても)持ち続けることは大事かも・・・・・・と思ってます。



荒ぶる魂ライターに落ち着いて対応する、今多氏

仮面ライタ-さんへ 投稿者:今多 迷道  投稿日:11月21日(木)15時51分53秒
コスタリカの話。極めて勇気のある事だと思います。しかしその平和がどれほど続くかと疑問に思わざるをえません。コスタリカは軍備への金を民生に使って豊かになったとします。周りの国は相変わらず内戦ばかりで貧乏だったとしたら、コスタリカは頻々と略奪にあうという形にならないでしょうか?泥棒・強盗というのは貧乏な家には開けっ放しでも入りません。入るのは金持ちだけです。それも鍵さえも掛けていなかったらそれこそ据膳ものです。最低でも50年以上軍備なしでやっていけたら僕も考えなおします。
仮面ライタ-さんの説を伺っていると、アメリカは駄目、自衛隊に金を回すのも駄目ということは非武装・中立論そのものに聞こえるんですが?それとも野党的立場で気に食わないものに文句を言ってるだけなんですか?
仮面ライタ-さんが列挙したアメリカのやっている事については僕も事実だと思います。どこの国も国益優先の我利我利ですから。それでもアメリカの方がまだ良いと思っています。なぜなら日本はアメリカに付いてきて、ちゃんと繁栄してきたし、言論の自由もある。この実績があるからです。ロシヤ・中国に付いていて現在の日本になっていたとはとうてい思えません。とにかく日本は既に金持ちです。財産もあるし、高い技術者や専門家も沢山います。大国の真ん中にある日本が軍事的エアポケットとなったら、大国の政治力に翻弄されること必定だとおもいます。さらに食うにさえ困っている国からは、倭寇の如き窃盗団の略奪、拉致を受けることになると思います。
今でも外国から日本にきて仕事にありつけば大いに稼げる、もし仕事がなければ、泥棒・強盗をやる。もし捕まっても刑務所に入れば冷暖房の付いた家に住まえ、三食とも食える。国に居るよりかずっと良い。それも全部税金で!これじゃ-困るよな!

まだこんな事を言ってるのは 青いのかな!シャラクセ-!どうせ俺が生きているうちは何とかなるだろう!皆さんもこんな固い話飽きちゃったようだから、次ぎからは元に戻します。



2003年

前年11月今多氏の投稿の後姿をけしていた仮面氏が、3ヶ月ぶりで姿を現した。

お久しぶりでやんす 投稿者:仮面ライター  投稿日: 2月21日(金)16時33分46秒
(*前略)経済の低迷が続く中、次々公約違反の小泉無責任内閣。1000兆ともいわれる国の借金は未来の日本人へ丸投げ、15年度予算も国債が44%を占めてるし、この先日本はどうなるんでしょうね。苑上、拉致問題は硬直化、イージス艦派遣、米国に追随しながら、イラクへの戦争を後押しするようなあたしらの政府とくれば、なにやら時代がプレイバックしたようなきな臭さ、最近はブッシュの暴君ぶりもすっかり板についた感じがあり、プレアや小泉のプードル犬そっくりの尻尾をふる姿は情けないやら、あわれやら。シラクやプーチンなどが(いままで大して評価されるべき政治家とは思っていなかったけど)だんだん知的な気骨のある紳士に見えてきちゃたりして、ネ。
いやーそれにしても。今の日本の労働運動や学生運動はどうなってるのかね。すくなくともあたしらの学生時代は安保闘争の終焉のあとでも、ソ連の水爆実験反対とか日韓会談反対とかで、時の政治課題にはすぐに反応してデモなど組織化できてたのに。世界的にイラク戦争への反対運動が高まっているというのに、日本ではさして盛り上がりが感じられない。経済の閉塞感が、時代への問題意識まで閉じ込めてしまったのかな・・・・・・・・



同じパターンで読書人に姿を変えて続ける。

今月の書評 投稿者:月刊読書人  投稿日: 3月29日(土)12時20分37秒
相変わらずテレビは米英の対イラク戦争のニュースが中心。見るのもいやだけど、更にイヤだなーと思うのは、戦争になれば出てくる軍事評論家という人物。なんだかJ1のサッカー試合を解説してるようで、”戦争とはゲームではないぞ”と言いたくなる。更に更にイヤだと思ったのは、(この戦争が始まる前に)日本の外務省が、国連の非常任理事国へODA(開発途上国援助)をエサにして、アメリカを支持するように働きかけていたこと。(結局は失敗したけど)これって地方選挙などの選挙運動で、金をやるからこの人に投票してくれというやり方と同じじゃないの。ODAというのは税金からでるわけだから、外務省のこんなやり方はゆるされるのだろうか。情けないのは川口順子大臣、あれほどの問題起こした外務官僚のいいなりで、自分の言葉でまったくしゃべれないこと。前の真紀子大臣だったら、少なくとも”そんなみっともないことやめなさい”といったはずだけど。前置きがながくなったけど、イヤな感じのする世の中、今月の私の推奨する本は”いとおしみ”や”懐かしみ”を思い出してみて”童謡”についての本です。(*以下略)



久々に現れた仮面ライターの文章を読み、今多氏が登場

もう一言! 投稿者:今多 迷道 投稿日: 3月30日(日)18時07分55秒
このところ非常に忙しくて、もう一言言いたいと思っていたのが のびのびとなってしまいました。墨田公園のさくらの写真も春うららの様子で、「もう止めとくか!」とも思ったんですが、すばらしい反論が貰えるかもしれないという期待で、もう一言言うことにしました。
仮面ライタ-さんは戦争の悲惨さを直視する視点が欠けていると言われますが、私も「戦争はいかなる理由があっても犯罪行為である」と認識しています。しかし犯罪者と言われようと人非人と言われようと それは覚悟のうえで容認論を唱えているわけで、視点が欠けている訳ではありません。今球場で野球をやっているとします。プレ-ヤ-はブッシュや小泉さんたちで現実の政治の当事者で、それぞれの国の現在と将来を背負って日々政策決断をしています。われわれは観客席に居ます。あなた達戦争反対論者は、外野席に居て 裁判官よろしくプレ-ヤ-のやっていることに判定をくわえ、クソミソに批判している、責任を取る必要も無くヒュ-マニストでいられる いわば安全な場所にいる評論家にしか見えないんです。しかし我々は内野席に居ます。グランドの近くに居て、目前のプレ-ヤ-の目線でものを考えようとしています。われわれ日本人は日米同盟のもと、経済優先で現在の繁栄を享受してきました。その現実のもとで今回、米国について容認論をとるか?反対論を取るか?選択を迫られたわけです。非核宣言をした日本が 何でもありの金正日政権を目の前にして、日米同盟重視の選択を取るのは、日本の将来に責任をもつものとして当然の選択だと思うからです。フセイン政権も金正日政権も力だけが生き残りの為の手段です、核兵器を持ちたいという衝動を強烈に持っています。経済力は貧弱でも 一発でも核爆弾を持てば 強力な脅迫手段となります。そうなればこの二つの政権を押えることは非常に困難となります。フセインも金も「やるならやってみろ!どうせ生きながらえられないなら、死なばもろとも、お前ら全部道ずれにしてやるぜ!」という奴だとうことは 今までやってきたことを見れば自明の理でしょう。
普通の神経を持っていれば、一般民衆は戦闘場所から避難させるものです、ところが、フセインはバクダッドから民衆が避難するのを阻止し、軍隊を民衆の中に移動させて、人間を楯にし、イライラ戦争の時なんか、先ず子供たちを先に歩かせて地雷を爆破させ その後を安全に軍隊を通すということを平気でやった人間です。
こんな男が話し合いをやったって約束を守りますか?今回の国連監視団の査察だって、アメリカが数十万の軍隊を実際にイラク近辺に展開してはじめて認めたものでしょう。ここまでやらなければ言う事をきかないんです。こんなことはアメリカが圧倒的な軍事力を持っているから出来たことではないですか?フセインも金もまったく異質の政権です、いわば癌です、癌は早期発見早期摘出をしないと全身に転移します。アメリカさんがそれをやってやろうというんですから、アメリカ様様ではないですか?テロを覚悟してでもアメリカを支え、応援するのが日本の国益にかなう選択です。絶対にフセインにも金にも核を持たせることは阻止しなくてはなりません。
どうか仮面ライタ-さん内野席に下りてきてください。内野席の議論とはこういうことです。
フセイン政権も金正日政権も平和勢力で、話は通じるし、約束もちゃんと守るというなら、それを証明してください。戦争という腕力を使わずとも押さえ込めるというなら、その手立てと手順及びそれを実行するのは誰かを論証して下さい。なるほどそんな手があるのか!という説得力ある説明がなされたら私はすぐに転向します。むしろそのように論破されることを期待しています。



仮面ライター氏、拉致問題の時と同様、二度に分けてまた演説。外野と内野の意味もわかっていないようだ。

(無題) 投稿者:仮面ライター  投稿日: 3月31日(月)22時52分07秒
日本の経済の繁栄と平和の安定は“アメリカ様様”であるともあなたはおっしゃる。そしてそれは日米安保条約がベースになっていると。なんだか現自民党政府の押し売りみたいな言葉だけど、私は決してそうは思わない。このことについて反論すればまた長くなりやめるが、ただ今回の日本政府の戦争支持は日本国憲法の精神に違反しているし、あなたが共鳴される日米安保条約にも抵触している。学生時代、いくらか安保反対デモに参加し、その条文の勉強会もやった記憶としてあるのは、武力行為は“国連の承認を得て”という文言でなければ“国連重視”の文言がかならず入っているはずだ。そのことでも、今回の日本政府のとった支持は安保条約の理念にも逸脱しているのである。
あなたは私が外野席の安全な場所で、反戦を叫んで、責任も取れないヒューマニストぶっているといわれる。そして内野席に下りてこいとおっしゃる。その内野席とか外野席という意味がよく分からないが現実論と理想論というフィールドで話しているという意味ならば、現に起こっている戦争をなんとかやめさせるためには、ささやかではあるが反戦の意志表示をして反戦のウエーブを起こさせたいと願うことは現実的であるはずだ。たしかに私のやれることは反戦集会やデモに参加したり、著名したりすることしか出来ない(あなたの論法でいけば、あなたは戦争の前線にたたねばなるまい)。
先に紹介した朝日歌壇の別の投稿者の一句、“迷わずにイラクの子らの盾にとてひとりの教師日本を発つ”「人間の盾」としてイラクに発ったひとりの教師に心を繋ぎ嗟嘆していることを詠んだ歌である。これほどのことは出来ない私ではあるが、「ボウリング・フォー・コロンバイン」でアカデミー賞(長編ドキューメンタリー部門)を受賞したマイケル・ムーア監督が授賞式で“くそブッシュ、恥をしれ”と挨拶したとか・・・・これくらいの言葉でもって私も外野席でやじりたくなる。
叫んだところで、何も変わらないのだが、そこには命があり、そこにはそれぞれの、かけがえのない人生があるという、当たりまえの重い事実は、狭義のイデオロギーを越えて、なによりも強く確かなものであるはずだ。
こうして書いている間にも、どれほどの人命が危機に瀕し、奪われようとしているか。その事実から遊離した、いかなる「論」も、私には空疎に響く。そしてわたしもまた、安全園で反戦を叫ぶひとりでしかない。
なぜ反戦なのか。ひとがひとを殺していい「正義」などないからだ。
イラクに生きるひとたちは、自分の意志を表明することもできないキワで、脅えと憎悪だけを増幅しながらも、いまを生きている。次の瞬間の命の保証は奪われたまま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

それでは反論しましょう 投稿者:仮面ライター  投稿日: 3月31日(月)22時54分42秒
今多氏は反論を期待されているようだから、敢えて書きましょう。
“自らは戦場に征かぬ人々が攻撃煽って戦が進む”
これは「朝日歌壇」(31日の朝日新聞)に載った福岡県の一主婦の歌です。ブッシュやラムズフエルドなどアメリカの戦争指導者だけをいっているだけでなく、日本の一部の為政者のことも含まれていると解釈しています。その意味でも、あなたの武力攻撃積極論(前回ではあえて容認論と私は書きましたが、最初のあなたの文章は、まさに積極的に今回のアメリカの武力攻撃を支持するという論調でした)は、戦場というフィールドでなく内野席にいるからこそ、やはり私にとっては完膚なきまでに論破されるべき相手です。何度でも言いますが、あなたには、今回のアメリカの武力行使が人倫の根源に背くものであるという自覚が希薄である。いうなればイラク国民の人権への、戦争への、平和への、想像力が貧困である。
当初戦争を罪悪といいながらも、“フセインを倒すためなら戦争という腕力を使っても仕方がない”と簡単におっしゃる。今回のアメリカの戦争行為がいかに根拠も大義もなく、国際的な合意を取るためのプロセスも経てないという事実を理解されているのだろうか?
続けて“戦争以外の方法があれば教えてほしい”とも言われる。これに対しては“かりにフセインがどんなに圧制者、独裁者であろうと、イラクという国はひとつの独立国家であり、主権国家である。他の国がその主権を侵す戦争行為で、それもその国に多大の犠牲を伴う武力行使で為政者を抹殺することは許されない。そして宗教も文化も違う国を、アメリカが好きなように変えるとは越権行為以外の何物でもない”また“大量破壊兵器については、国連の中心的な論調であった査察行為を最大限の専門官を動員して、精密に広範囲に続けていく以外に無い。少なくともひとつひとつ大量破壊兵器を除去していく間には、核を開発することも、アメリカが言う「アメリカの将来にとって危険な国」とはならないはずである。更に付け加えるのなら、フセインや金正日と同じような人民を圧制の下に統治している独裁者は沢山いる。(*以下略)



異風物氏の時と同じパターンだ。「ライターさんに怒られるかな?」と自分に語りかける。

今度は演劇の薦め 投稿者:月刊読書人  投稿日: 4月 1日(火)00時23分34秒
思想や信条は別にして、米英の対イラク戦争については、人の顔が各々違うように、違った意見があっていいかもしれません(こんなこと言うとライターさんに怒られるかな?)。もっとも私も基本的には今回の米国のやりかたには反対です。だからでもないけど、80年代に駐在した米国での私の思いや経験を(米国人に対しての)再点検するためにも、米国に関する本を読んでいます。例えば米国人ジャーナリスト(マーク・ハーツカード)が書いた“だからアメリカは嫌われる”という本、タイトルは刺激的だけど誠実なルポでなかなか面白い。あとひとつ、さきのライターさんが述べていたアカデミー賞監督、やはり米国人、マイケルムーアの“アホでマヌケなアメリカ白人”これも刺激的なタイトルだけど事実を知るだけでも勉強になる。(こんな本ばかり読んでると、今度は今多さんには偏りすぎていると批判されるかも?)。さて私がちょっと書きたいと思って、このページを開いたのは以下のことです。それは最近観賞した舞台のこと。(*以下略)



今多氏、異風物氏と同じく「何を話しても、説明しても無駄」の境地か。これ以降仮面ライターに語りかけることを止める。、

小話の箱 投稿者:今多 迷道  投稿日: 4月 2日(水)17時23分47秒

イラク戦争の件では僕が聞きたいと思っている論点については、仮面ライタ-さんのみならず、新聞・ラジオ・テレビ上の反対論者からも 説得力のある議論を殆ど聞いていない。
これ以上続けてもすれ違いばかりで、水掛け論となるばかりなので、もう止めます。
結局は読書人さんが言う通り、色んな考えの人が居るんだということを、認めなきゃならんということでしょう。これで元に戻ります。

先週ラジオで聞いた話 (心のスケッチブック)
私は小さい頃 世田谷に住んでいました。その頃の世田谷は今では想像も出来ないくらい田舎でした。田んぼや畑ばかりだったんです。私のうちも大根や白菜などを作って、毎朝洗って市場に出していました。冬のある寒い朝のことです。朝ご飯を炊く為 米をとごうとしたおふくろが「ウッ 」と言って顔をしかめました。見ると母親の手の指は「あかぎれ」で赤い割れ目が沢山出来ていました。私は見るにみかねて「かあちゃん 俺が手伝うから とぎかたを教えてくれよ!」と言いました。私はその朝あまり出来のよくないご飯を初めてたきました。その日の晩のことです。おふくろは 膏薬をあかぎれの中にすり込み、真っ赤に熱したヒバシをその傷に当てていました。
明くる日からは毎朝ご飯を炊くのは私の日課となりました。「ありがとうね!お前が炊いてくれたご飯 本当においしいよ!」私は 寒い冬の朝、あの晩の お袋の姿を よく思い出します。

そう言えば昔 俺のお袋もあかぎれだらけだった。そのお袋は今は動けなくなって 九州の老人ホ-ムで寝たきりである。「東京に出てこいよ!」と言っても、「そんな友達も居ないような遠くへは行きとう無か!」と言う。俺は高校卒業後 九州を出たまま、息子らしいことを何もやっていない。

327

 

友、遠方より来たる

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 1月 1日(木)01時09分53秒
返信・引用
  .


                      特集原稿
           友、遠方より来たる




   古武士のような一徹さ、頑固さ、忍耐強さを持つ「日本の男」の顔とは別に
   親父の顔、料理音痴の顔、親爺の悲哀もチラリ。それを逆手にとって結構楽
   しんでいるようだ。バンドを組んで音楽も…、それでこそ男の中の男。(編集部)




 私は現在、我が家の近くのマンションに一人で住んでいる。このマンション、実は長男
のものである。彼は四十歳近くなっても未だに独身、結婚はまだまだ先の話になりそうで
ある。
 カミサンが何度か見合い写真を持ち込んだことがある。しかし彼は見向きもしなかった。
 そこで私達は、彼を我が家から追い出し、一人住まいさせたら少しは考え方も変わるだ
ろうと、無理にマンションを買わせ独立させたのである。
 ところがこの長男、暫くは一人で暮らしていたが、そのうちに我が家に立ち寄り、夕食
を食べて帰るようになった。暫くすると「ああ! これからマンションまで帰るのは面倒
くさいなあ!」とか言って、いつの間にやら泊っていくようになった。彼と私とは生活の
時間帯が全く異なる。朝も晩も顔を合わせてないので、暫く私はそのことに気付かなかっ
た。
 私か気付いた時には、彼はもう我が家に居続け状態。我が家で飯を食い、我が家から会
社に通っていたのである。私はカミサンに「お前が甘い顔するからだ、叩き出せ!・」と
言ったが「一人だと緑なもの食べてないみたいよ。かわいそうで見ていられないのよ!」
とのたまう。カミサンの扱いは、私と長男とでは全然違うのである。こうしていつの間に
やら既成事実が作られてしまった。
 ちょうどその頃、私はバンバンド(勝どき浮人会) への入りたての頃で、よく家の中
でギターと歌の練習をやっていた。しかし我が家では、これが非常に評判が悪いのである。
息子達には「うるせえなあ!」と敬遠されるし、カミサンには「表からよく聞こえるわよ!」
「もうちょっと遠慮したら!」と言われる。隣の奥さんには「熊井さんは色々と趣味が多
くて、よろしいですねえ!」と言われたことがある。あの言葉、「煩いからいい加減に止
めてくれ!」ということか? それとも素直に褒められたと取っていいのか? どちらに
取ったら良いのか頭を捻らざるを得ない。いずれにしても我が家での練習は、非常に肩身
が狭かったのである。
 そこで私は、これはチャンスと。計を案じた。「あのマンションを空けたままにしてお
くのは勿体ない。あそこの部屋はアルミサッシで防音効果が良いから、ギターの練習にち
ょうど良い。俺が代わりにマンションに入る」と言って、上手く私が入り込んだのである。
 実を言うと「小うるさいカミサンから離れて、また独身生活を楽しむことが出来る」。
どちらかというと、こちらの方が本音である。敵もそう思っていたに違いなく、私は何の
抵抗も無く入り込めたのである。
 こうして私はマンションでの一人暮らしを始め、現在ものびのびと羽を伸ばして暮らし
ている。
 朝食は毎日自分で作り、昼食は会社、夕食は外食するか又は我が家に食べに行く。私は
こういう日々をもう数年続けている。
 去年の九月、大学時代の友人が四人、九州と京都からやってきた。我々は五年毎に集ま
る約束になっていて、順番にホスト役を交代してプランを作り、皆で二、三泊の旅行をす
るのである。今回は私がホスト役ということで、横浜・鎌倉・横須賀を巡るコースプラン
を作り、皆を関東に招いたのである。今回は一泊目を横浜のホテルに、二泊目を我がマン
ションにした。皆はもう年金生活、はるばるやってきた友達の懐具合を考慮したのである。
 二日目の夕食はカミサンの知り合いがやっているレストランで宴会をしていた。大変盛
り上がったところで、私は翌日のスケジュールを説明した。「明日の朝食は我がマンショ
ンで取っていただく。パンとコーヒーに俺の手作りのサラダ、簡単なものだがそれで我慢
していただきたい」。
 私はこの提案には何の問題もなく、直ぐに皆が賛同してくれるものとばかり思っていた。
ところがすかさず「えっ!君がサラダ作るの?」「俺は熊井君が作ったサラダなんか食べ
たくないなあ!」なんていう奴が居たのである。見回すと皆同感という顔をしている。
 「何を言うか! 俺のサラダは旨いんだぞ。俺は毎朝同じサラダを作り、そのサラダを
この数年ずーっと食い続けているが、未だに飽きが来ない。それほど俺のサラダは旨いん
だ!」。
 こういうことをバンド仲間やMB会仲間に言われるのならまだ分かる。私が料理が全く
出来ないということはもう知れ渡っているからである。「料理を手伝ってくれ」なんて、
これらの仲間からは決して言われないだろう。私に出来ることは、お皿を運ぶことと食べ
ることだけである。バンドでは仲間内で手料理を作って食べる機会が非常に多かった。そ
ういう時、近藤君は実に手慣れているし、松谷兄弟などは、NHKのロケであっちこっち
と出回って、野外で食事を作る機会も多かったのであろう、実に腕が良いのである。
 それに比べて私は「何事も餅は餅屋・上手い人に任せる」という主義で、殆ど自分でや
ったことがない。従って私は料理・パソコン・機械いじりなどがどうも苦手である。
 ある日のバンド練習の後、「今日は鍋を作ろう」となった。「こういう時は率先して料
理を作るというのがバンドボーイの仕事。熊さんもたまには鍋作りを手伝え!」と言われ
て、包丁を持って野菜を切っていた。すると忽ち「あー見ちゃーおられん!」「やっぱり
俺がやる!」と言って、直ぐに包丁を取り上げられてしまった。
 我々の学生時代はまだまだ世の中貧乏で、食事は非常に貧弱だった。寮の飯は特にまず
かった。味噌汁といえば、それこそ味噌味の付いた汁ばかり。具といえば小さな豆腐のカ
ケラが浮いているだけ、箸で掻きまわすと薄いワカメが一枚絡みついてきた、そんな代物
ばかりであった。下宿をしても我々学生達は皆、安い食堂での外食であった。深夜に腹が
減って眠れない時、たまに行く屋台のおでんが唯一の贅沢だった。バーベキューなどとい
う洒落た習慣はなく、野外に出て料理を作るということなど、一度としてなかった。
 従って我々の仲間内では、お互いに誰の料理の腕も分かっていなかったはずである。そ
もそも皆が料理などやったこともなかったはずである。従って私の手作り料理に、皆が一
致して反対する理由など、全く思い当たらないのである。それなのにあの時、皆がどうし
て私の料理の腕をあんなに疑ったのか? これは甚だ心外な事であり、且つ不可思議な話
である。
                (了)

    (斜光18号 2013)

    
                          

317

 

大川組交遊録

 投稿者:編集部  投稿日:2014年12月30日(火)10時28分52秒
返信・引用
  .


             特集原稿
      写真に添えて(大川組交遊録)




    高校時代の仲間「大川組」のひとりひとりの持ち味を著者らしい目線で
        丁寧に優しくつづっている。友人たちとの関わりを自分の人生にとって
        かけがいのない宝物として育んできたことがよく判る作品です。(編集部)






 この写真は永い間実家に眠っていたアルバムの中から見つけたものである。多分これは
佐賀高校入学当初、大川から佐高に通った仲間達で、天山に登った時の写真である。メン
バーは(写真A)左から武藤泰文・熊井浩二・徳永哲民・金子征彦君である。この時木原
公生君も居たはずだから、多分彼は写真のシヤター係だったのだろう。木原君は、この写
真にも写っていないが、現在も不在である。彼は既に三途の川を渡って、さっさと彼岸へ
行ってしまっているからである。

    

 佐賀高校入学時、大川組の我々にとって、県庁の所在地である佐賀の街は、華の大都会
であった。我々は街の賑やかな雑踏を縫って歩く時、何か胸をわくわくさせるような新鮮
な喜びを感じていたものである。入学当初、我々は皆嬉々として新築の北校舎まで通った。
大川から佐賀線に乗り込み、昇開橋の架かる筑後川を渡って県境を越える。佐賀駅に着く
とそれからは徒歩である。雨の日も風の日も、毎日毎日よく歩いたものである。
 当時の佐賀線は一時間に一本ぐらいしか走っていなかった。電車の時刻に寸秒を合わせ
た登下校が、当時の日課であった。時間がなく汗だくになって駅に駆け込んだものの数秒
の差で電車の後姿を見送ったことなど、しばしばであった。
 あるのどかな小春日和の日だった。授業が終わっていつものように、一緒に帰るべく仲
間達で待ち合わせをしていた時、誰かが提案した。「線路沿いに帰れば相当近道になるん
じゃないか?」「そうだな、行ってみよう!」話は直ぐに決まった。
 北校舎のすぐ近くを長崎本線が走っていて、我々は始終教室の窓から汽車の走る姿を見
ていた。大きく迂回した道路を歩いて帰るより、かなり近道になるのは間違いない。
 我々はだべったり、レールに乗ってバランスを取ったり、木から枕木への伝え跳びをし
たり、皆思い思いに歩いていた。すると後ろの方で汽車の警笛がなった。「ビーピーッ!」
当然それは我々への警告である。他の友達は、直ぐに田んぼの畦道に下りて避難したが、
先頭を歩いていた僕は、目の前の堀を渡りきってからでも、充分に余裕があると判断した。
僕は足下の堀の水を見ながら枕木を飛び渡り、田んぼの脇に退避した。私は当然、汽車は
そのまま通り過ぎるものとばかり思っていたら、案に反して次第しだいに速度を緩めてく
る。「あれあれ!」。そして機関車は白い水蒸気を吐いて最後の停止ブレーキをかけた。
それは二十数輌の貨物車を従えた長い貨物列車で、その太い逞しい胴体を横たえるように
目の前に止まった。
 機関手が顔を出した。「おいっ! ちょっと来い!」私に向かって手招きをする。結局
私はその機関手から長々とお説教を喰らうことになったのである。
 それにしても汽車を止めて説教するなんて、よくもそんな時間があったものだと今更な
がら感心するのである。「あの頃は本当に長閑で良い時代だったのだなぁ!」とつくづく
思うのである。


    武藤泰文君

 私は小学校五年生の初めに、隣村の木室村から大川町に引した。従って大川では、小学
校の五・六年と中学校時代を、このメンバーと一緒に過ごしたことになる。しかし同じク
ラスになった者は 小学校五・六年の時の武藤君だけである。
 武藤君とは、特に小・中・高の時代に深い付き合いをさせてもらった。とくに中学・高
校時代には、しょっちゅう彼の家に遊びに行ったものである。彼のみならず、彼の両親や
兄弟達・一家全員に、常に暖かく歓待してもらった。その居心地の良さに引かれて、私は
年中彼の家に遊びに行くようになったのである。
 というのは中学時代、私がいわゆる反抗期に入る頃から親父が嫌でたまらなくなった。
親父は食料品の商売をしていたが、仕事はいつも早めに切り上げて、夕方明るいうちから
毎日酒を飲んだ。毎晩のように酔っ払い、くどくどと説教をたれ、愚痴を言い、そして他
人に絡むのである。そして我々家族に対しては 何だか自分ひとりが苦労して家族を食わ
せてやっている、そんな恩着せがましいことを言うのである。私に言わせると一生懸命頑
張っているのは、親父ではなく「おふくろ」の方であった。朝私が目を覚ますと、お袋は
既に起きていて、朝ごはんや店の準備などで忙しく動き回っている。夜は夜で、親父は酒
を飲んでいるのに、自分は店のお客の対応をしながら、洗濯したり掃除したり後片付けし
たり、自分の夕食も後回しにして一口中動き回っていたのである。私は中学時代、お袋の
寝姿を一度も見ていない。「お袋は一体何寝ているのだろうか?」それは永い間の疑問で
あった。そんなお袋と比べて、毎晩酒ばかり喰らっている親父は、私の「男の基準」から
すると、まさにその対極にあった。私は親父の顔を見るのも嫌で、親父が酒を飲み始める
と、さっさと夕食を済まして二階に逃れるか、外へ遊びに出た。親父の近くにひと時も居
たくなかったのである。
 そういう時よく行ったのが武藤君の家である。武藤君の家には、いつも笑い声があり、
明るくて暖かい理想の家庭があった。彼の家は当時、私の逃避先になっていたのである。
 武藤君の親父さんは、時々こんなもん描いてみたんだけど、見てくれんね!」と水彩画
や習字を広げて見せてくれた。それに比べて我が親父には、そんな高尚な趣味はない。私
は暇さえあれば酒を飲んでいる、そんな親父の姿しか見ていない。
私は「俺は絶対親父のようにはならんぞ!」と心に誓ったものである。私が今でも酒が飲
めないのは、この事がかなり影響しているのかもしれない。私は当時、そのように親父の
何もかもを嫌っていたのであるが、最近ふとした拍子に「あれ! これは親父がよくやっ
てたな!」。私は知らず知らずのうちに、親父と同じ事をやっている自分を発見して愕然
となる。そういうことが最近頓に増えてきたのは、こりゃまたどうしたことであろうか?
 武藤君にはひとつ鮮明な思い出がある。小学校六年生の時、修学旅行が雲仙に決まった。
我々は皆、この初の大旅行を「今か今か!」と待っていた。いよいよ当日の朝、私はまだ
暗いうちにお袋に起こされ、眠い目をこすりながら起き上がった。その時「トントン」「ト
ントン」と表の戸をたたく音がする。「こんな早くいったい誰なんだ?」。戸を開けてみ
ると、まだ明けやらぬ暗がりの中に武藤君が目をきらきら輝かせて立っている。一緒に行
こうと思って呼びに来た!」。大川小学校は彼の家と我が家の丁度真ん中ぐらいの位置に
あり、その距離は夫々かなりのものがある。彼はその学校を通り越し、普段の倍近くの距
離を歩いてはるばる私を呼びに来てくれたのである。私はその時、そこまでしてくれた友
の行為に驚き、そして深く感動していたのである。

    


    徳永哲民君

 徳永君との付き合いが始まったのは、やはり高校に入って一緒に佐賀に通うようになっ
てからである。彼は非常に親しみやすい性格で、彼の家には何度か遊びに行ったことがあ
る。
 この話はそういう時、彼の家で起こった出来事である。
 この事は絶対口外すまいと、永い間胸に秘めてきた事であるが、時はあれから五十年以
上経過した。そろそろ時効として扱ってもよろしいのでは? との思いで、初めて打ち明
けるものである。
 あれは高校一年の中頃だったろう、私は彼の家に遊びに行った。二人で話をしていると
隣の部屋から声が聞えてくる。数人の訪問者があって、彼の親父さんに相談事を持ってき
ているらしかった。突然、襖を通して親父さんの大きな声が聞えてきた。彼の親父さんは
髭を蓄え、背が高く、身体のがっしりした偉丈夫である。剣道の高段者で市会議員やPT
A会長もやられている、いわば町の有力者であった。更に豪快な性格らしく大声で話され
るので、その野太い声は隣の我々にもはっきりと聞えてきた。「それじや-そいつを買収
しなさい!」「えっ! そんな事をして良いでしょうか?」「こうなったら もうそれし
か方法はなかろ!」。
 それを聞いた瞬間、徳永君の顔が大きく歪んだ。親父のその言葉は彼に大きな衝撃を与
えたようだった。私はその時、大人の世界の裏側を覗いたような気がすると同時に、徳永
君のためにこの事は一切口外してはならないと思った。
 その後 徳永君は次第に我々仲間に距離を置くようになり、暫くすると完全に我々との
接触を絶ってしまった。現在に至るも彼の消息は全く掴めない。
 しかしあの時、我々仲間から彼の足を遠ざけた原因というのは、きっとあの出来事だっ
たに違いないと私は今でも思っている。


    木原公生君

 私が学校を卒業して今の会社に入り、約半年程の研修を受けて横須賀に配属されたのは
昭和三十九年も暮れようとする頃だった。昭和三十九年と言えば、東京オリンピックの年
で、新幹線が操業を開始し、高速道路が走り、カラーテレビが馬鹿売れした年である。
 私が横須賀工場勤務を命じられ、本社のあった神戸を出発したのが、私の新幹線初乗り
の日である。私が興味津々で駅を見回しながら新神戸駅のホームに上がった時、見たこと
のある洒落た女性がこちらに歩いてくる。直ぐに思い出せず「誰だったかな?」と彼女を
凝視していたら、彼女は私に向かって「ピッ」とウィンクして通り過ぎて行った。俳優の
乙羽信子であった。
 しばらくは横須賀で忙しく働いていたが、東京に営業所があったということもあり、次
第に東京に出ることが増えてきた。そういう時、電話一本で示し合わせ、金子・木原両君
とよく会うようになった。
 木原君は早稲田を卒業後、商社に就職。そこで海外勤務などを経験した後、誰も引き受
け手のなかった倒産寸前の関連会社の社長を引き受けています。彼は一切愚痴めいたこと
は言いませんでしたが、一度だけ「あの頃は本当に大変だった」と話してくれた事があり
ます。自分の金は勿論、奥さんの貯金も全部吐き出させ、それこそ一家の全財産を注ぎ込
んでやっと乗り越えたそうです。三人で会うようになった頃には既に彼の事業も安定して
いて、そういう様子は一切見せませんでしたが、彼が相当の苦労人であったことは間違い
ないことです。
 彼はいつも豪快に笑い、豪快に飲みました。会うと彼は「二次会は私が知ってる店に行
きましょう」と言って、よく奢ってくれました。あまり友達に借りを作るのは嫌なので、
自分で払おうとすると「よかよか! ここは俺のツケの利く店じやけん払わんちゃよか!」
と言って払わせてくれないのです。実に気前の良い男でした。
 彼は体力も抜群でした。彼は六十近くなって山登りに凝りだしましたが、彼の山登りは
単独登山でした。武藤君の山歩きは、ゆっくりとマイペースを保つ歩き方ですが、木原君
のそれは、スピードに乗ってぐんぐん前を追い抜いていく。我々ではとてもじゃないが付
いていけません。それだけではない。「目的の山に登って下りてきたら、まだ時間があっ
たので、ついでに隣の山にも登ってきた!」なんてことをさらり言ってのけていました。
 その頑健な彼が発病して半年ほどで、それこそ「あっ!」という間に亡くなってしまい
ました。人生は本当に分からないものです。彼の葬儀の時、退社してから既に数十年も経
過しているにも関わらず、元商社時代の同僚・後輩が沢山応援に来てくれていました。
 これはその中の一人に聞いた話です。「木原さんはとても面倒見のよい人でした。それ
で彼の周りにはいつも沢山の人が集まっていました。社内ではその人達の事を木原組と呼
んでいました。彼が退社した後も彼を慕う人達が沢山居て、その付き合いは今迄続いてい
たんです」。
 私はその話を聞いて、改めて彼の人物の大きさに感心したものです。本当に惜しい友達
を亡くしました。その後、彼の会社は彼の娘さんが後を継ぎました。そしてその若い女性
社長のサポートを、あの木原組の一人が今でも務めています。


    金子征彦君

 金子君とも親しく付き合うようになったのは高校に入ってからである。特に三年の時に
同じクラスになったということと、同じ関東に住んだということもあり、ずいぶん永い付
き合いが続いている。
 金子君は私と性格が良く似ていて、何となく馬が合う。お互いが空気のような存在で、
別に口に出さなくても分かっているという関係である。こういう関係というのは、一般に
は夫婦関係において言われることではあるが、本当に彼とは今まで一度も言い争った覚え
がない。
 彼は昔からハンサムボーイであった。従って女性にはモテモテのはずであるが、意外と
彼には艶聞が少ない。彼は女性に関しては特に消極的で受身、自分から働きかけるという
ことがないので、結果そういう事になるのであろう。それでも艶聞が全くないと言ったら
嘘になる。だからこの際「その事をここで御披露しましょう」とは行きません。友達とし
て、その話は今暫く控えておきましょう。
 いずれにしても彼は非常に付き合いのいい男で、我がバンドのコンサートも殆ど欠かさ
ず聴きに来てくれている。コンサートの時には、夫々のバンドメンバーにチケットの販売
枚数が割り当てられる。しかし私の場合、横須賀から東京までわざわざ出てきて聴いてや
ろうという奇特な人はなかなか見つからないのです。そういう時、彼のように無理してで
も来てくれるような人は非常に有難いのです。彼もそろそろ飽きがきた頃であろうが、そ
れでもよく付き合ってくれている。やはり古い友達は大変貴重である。


 大川組にはもう一人、高木省三君が加わっている。彼は昔から友達と群れるのが嫌いな
のか? 殆ど我々の仲間に加わることがなかった。昔はよく自分の家の屋根に登って、一
人瞑想や思索に耽っていたそうである。どんな高尚なことを考えていたのかは分からない
が、とにかく昔は一風変わった人物であった。ところが就職してから永年たって会ってみ
ると、さすがに角が取れてすっかり丸くなり。社交性豊かな人物に変身していた。今では
毎年数回、彼のホームコースに呼んでもらって、一緒にゴルフを楽しんでいる。

 その他大川組には大川出身以外の人が数名居らっしやる。「私は旧姓が大川だ!」「私
は大川家具をよく買いに行ったものだ!」「自分の家の前の堀が、廻りまわって筑後川に
注いでいる。従って自分も大いに大川に関係がある!」とか何とか、夫々解ったような解
らないような理屈をつけて入ってきた人達である。

 いずれにしても余命幾ばくもない我々、後何年生きられるか分からない。それだけにこ
のような楽しいグループとのお付き合い、そして全国あちこちに居る友達との交遊をも、
今まで以上に大事にしていきたいと思っている。
                      (以 上)

(斜光17号 2012)

※関連記事
 11期掲示板投稿集「大川組」(←クリック)にもお立ち寄りください。

314

 

(無題)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年12月21日(日)12時04分39秒
返信・引用
  .

          東日本大震災に思う



     著者は勇気ある人だ。震災のこの年、世の中は反原発で一色に染まる。
     そんな中一人考える。 原子力は多くの科学者が苦労に苦労を重ねて
     人類が手に入れたエネルギーではないか、それを全否定するような世
     間の風潮はいかがなものか。もっと良い方向で生かす方法を考えれば
     いい。それが人類の叡智というものではないか。犠牲者に報いるため、
     また技術を未来の子孫に繋げていくためにも―。
     そんな意見を堂々と言える人だ。 (編集部)




 平成二十三年三月十一日。この日は我々の生涯の中でも特筆すべき特別な日となった。
 この日、千年に一度と言われる史上最大の地震と津波に襲われた東日本は、その災害の
恐るべき規模と、その後の原発被災の恐怖とで、日本は言うに及ばず世界中を震撼させた。
 そして地震と大津波の襲撃で損壊した福島第一原発では、放射性物質が空中に飛散し、
太平洋にも流れ込んでいる。被爆の恐怖と背中合わせの現場では、関係者の不眠不休の作
業がまだ続いている。世界中が戦々恐々とする中で、「原子力を人間のコントロール下に
置く事自体、不可能ではないのか?」と言う疑問も強く、世は原発反対一色である。
 このように、世の中が熱に浮かされたように、ある意味一色になっている時、「何か違
うのじゃないかなぁ?」と思うのはどうも私の性癖のようである。

 学生時代の安保騒動の時もそうであった。自民党が新安保議案を強硬に単独採決した時、
「カッ」となった私は、他の学生と同様「岸内閣を倒せ!」というデモの列に加わった。
 当初私は、毎日繰り返されるデモ隊の中に混じって、怒号とシュプレヒコールが飛び交
う熱気の中に酔いしれていた。しかし日が経つにつれて、主導するリーダーのコールが、
次第に共産革命を呼ぶアジに変わって行く。私は知らず知らずのうちに何処かへ誘導され
ていくような感覚に捕らわれた。そして次第に「何か変だなぁ?」という思いが強くなっ
ていったのである。
 私はそれほど勉強したわけではないが、確かにマルクス理論はすばらしいと思う。しか
しながら、ソ連・中国・北朝鮮などの、革命なった社会主義国の実態を聞くにつけ、まる
で理論とは違う社会がつくられていくようであった。マルクス理論には人間の本性から遊
離した理想の前提がいくつかある。そのような人間の本性から離れた人間社会を実現する
のは、非常に難しいことではないのか? その頃の私には、共産主義に対するそういう漠
然とした疑問が芽生えていたのである。
 少し冷静になった私は、ある全体集会で発言した。「日本にとっては、どう見ても旧安
保より新安保の方が有利である。聞くところによると、岸首相はなかなかの人物だという
評価も結構多い。ここはひとつ、岸という政治家を信用してみてはどうか?」と言ったの
である。今から考えると、高揚した意見一色の熱気の中で、よくもまぁ(!)あんな場違
いな発言をしたものである。そして、それこそ絨毯爆撃の如き猛烈な集中砲火を浴びた私
は、その後活動から遠ざかっていったのである。今回もそういう非難を受けるであろう、
その覚悟の上で、少数意見を述べる。

 現在地球上では、人口爆発と言われるほど人間ばかりが増え続けている。現在の世界人
口は六十九億。二十一世紀の後半、二O五O年には九十一・五億ぐらいになるだろうと予
測されている。あと四十年もしたら、中国が二つ出来るくらいの人間が増えるわけである。
地球上で、一体どのくらいの人間が棲息できるのか? それは分からないが、近々世界の
食糧危機が起こるであろうと危惧されている。

 エネルギーについても同様であろう。これから四十年もすれば、三Oパーセント以上も
の人口が増えるというこの地球上で、そのエネルギー需要は一体どれほどの数字に上るの
であろうか?
 十三億もの人口を持つ中国経済が、現在テイクオフして爆発的な膨張を続けている。中
国のGDPは既に日本を抜いて世界第二位となっている。その中国は、今後いくらかの成
長ダウンを図るとはいえ、毎年一Oパーセント弱の成長を目論んでいる。そしてその目的
達成の為、中国は世界中に手を広げて、石油・石炭・天然ガス等の化石燃料資源獲得に猛
進している。現在の中国で、既に豊かな生活を享受している割合は、まだまだ全人口の内
の、ほんの一部だそうである。生活レベルが向上すれば、一人当たりのエネルギー消費量
はその数倍にはなる。そうするとこれからの中国は、一体どれほどの資源を飲み込み続け
ることになるのだろうか? 中国の後には、まだインド、ブラジル、そして東南アジア諸
国が控えている。世界のエネルギー需要が、今後飛躍的に増え続けるだろうことは明々白
々である。

 ある識者によると、二十世紀は化石燃料の時代。二十一世紀の後半からは、自然エネル
ギーの時代に入るだろう。その間を繋ぐのは原子力である。地球の温暖化を防ぎつつ、将
来的なエネルギーの安全保障のためには、今原子力の技術を放棄することは難しいと言っ
ている。

 二十一世紀に入っても、まだ化石燃料の激しい獲得競争が続いている。地球上の燃料資
源枯渇という事態も、そう遠いことではないだろう。そういう流れで見ると、地球温暖化
防止という環境対策も待ったなしの現在、原子力発電という技術が、今こそ世界で最も必
要とされ注目されている。
 我々はまさにそういう時期に大震災に見舞われてしまった。しかしこの震災によって、
各国がこぞって原発放棄という方向に進むとしたら、直ちに世界の枢要国で電力不足が顕
在化、生産の縮小・失業者の増加・消費の停滞、貿易の縮小などなど、負の連鎖による長
期の景気後退が世界を覆うことだろう。我々は生活向上どころか、逆にそのレベルダウン
をも覚悟しなければならない。

 原子力の発見は、不幸にも殺人兵器として実用化されました。そしてその最初の被害は
我々日本人が蒙ることになりました。しかしながら、数グラムの物質の消滅によって莫大
なエネルギーを発生させるというこの原子力の発見は、第二の火とも言うべき大発見であ
ることに違いはないでしょう。その発見による平和利用技術は、原子力発電という形で実
を結びました。そして現在、各国の総発電量中の原発の比重は、フランスの八Oパーセン
トを筆頭に、もう主要国では無視できない大きさになっています。震災前は、日本を含め
どの国も、原発増設方針を決定していました。しかしこの震災を目にした我々は、今恐れ
をなして反対反対を叫んでいます。本当にそれで良いのでしょうか?

 人類の歴史の中で、人間達がその価値あるものを手にいれる時、これまで数々の犠牲を
払ってきました。我々が現在享受している食の安全も、多くの犠牲者の上に成り立ってい
ます。人間達は自由を獲得するために、世界の各地でどれだけの血を流してきましたか?
 原子力にも同じことが言えるのではないでしょうか? 今世界で最も必要とされている
この時期に、やっとここまできた原発技術を、危険だとして、放棄してしまうことは、そ
れこそ広島・長崎・チェルノブイリ・スリーマイルそして東北で払われた多くの犠牲を無
にすることになりませんか?

 「人間は失敗から学ぶ」、我々はむしろ、ここで引き返すのではなく、逆に進むことを
選択すべきではないでしょうか? つまり今回の東北被災を教訓にして、更に安全性を向
上させ、その技術でもって発電量を増やし、地球の温暖化対策と世界の飛躍的エネルギー
需要の増大に対応する。そうすることによって、増加する地球上の子孫達の、より豊かな
生活に貢献すること。これが今我々が選択すべきことではないでしょうか。より安全な原
発技術とその成果を、我々の子孫に引き継いでいくことこそが、今の我々世代の役割であ
り、また日本他各国に広がる、数多くの犠牲者達に報いることにもなるのではないでしょ
うか?

307

 

我々の時代

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 8月 4日(月)12時02分44秒
返信・引用 編集済
  .


                        特集原稿
             我々の時代




    第二次世界大戦勃発の年に生を受けた著者の人生が年代を追いながら綴ら
    れています。 決して多くを語るわけでないのに、その時代時代の日本の
    空気がよく伝わってきます。
    最後の「我々は極めてラッキーな世代なのです。そう考えられませんか?
    いや! そう考えましょう」に、著者の生き方考え方が現れているように
    思えます。



 南雲機動部隊の空母を飛び立ち、真珠湾に向かった第一次攻撃隊から打電が入った。
「トラトラトラ」(我奇襲に成功せり)。時は昭和十六年十二月八日。太平洋戦争が勃発
した日である。この日から日本の最も悲惨な歴史が始まった。この日、私はまだ母親の胎
内に居た。この十二月八日、我々同窓生は、まさに産声を上げたばかりか、私と同様、母
親の胎内に居たことになる。いずれにしても我々同窓生は、太平洋戦争の勃発と同時に、
この世に生を受けたことになる。

 今回私は、斜光の特集「戦中戦後の思い出」について書き始めたのであるが、どうも特
別変った事を書けそうにもない。もう締め切り時間もないので、どう取り纏めるかの方針
も定まらぬまま、このまま書き進めることとする。

 戦中についての記憶は何も残っていない。終戦は昭和二十年八月十五日であるが、その
日までの記憶が私には何もないのである。いや! ひとつだけある。本当にこれが私の実
体験なのか? それとも映画で見たものか? それも定かではない。しかしぼんやりした
次のような映像が、私の頭の中に残っている。
 それは真っ暗な夜、私は大人達と空を見上げていた。東の空の一角、重く垂れ込めた雲
が炎で赤く染められている。その不気味な赤色をバックに、飛行機が数機、黒い機影を落
として横切っていく。このようなシーンが、まるで一枚の絵のように残っているのである。
 戦時中、筑後川を跨ぐ佐賀線の鉄橋・昇開橋の近くに、軍需物資を作る鉄工所があった。
隣の大人達が「今、鉄工所が米軍の攻撃を受けとっとたい」と言ったような記憶もまた残
っている。大川の友達で、この記憶が事実であるか否かを証明してくれる人が居るかもし
れないが、確認したことはない。しかしもしこの記憶が事実だとするなら、これは戦中の
記憶だということになる。
 よりはっきりと私の頭に残っている記憶は、親父が戦争から引き揚げ、実家に帰ってき
た終戦直後のものである。親父が出征した後、お袋は大川の親父の実家(本家)に住んで
いた。私はその本家で親父の出征中に生まれたのである。従って親父が引き揚げてきたの
は、多分私が三歳の時であろう。この時の記憶が、私が生まれてからの、最初の明瞭な記
憶ということになる。
 その日、私は大川の本家の表で遊んでいた。長閑な田園が連なる田舎道の遠くに、ちょ
っと異様な風体の男が現れた。軍服に軍帽、ゲートルに軍靴。大きなリユックを背負い、
紐で結ばれた飯食や食器が背中で揺れている。私はその見知らぬ男の姿をじっと見つめて
いた。多分、次の角で曲がってどこかへ行くのだろう? しかしその男は、そのまま真っ
直ぐにこちらに向かってきた。それじゃ-次の四つ角で曲がってしまうだろう? ところ
が男は、何のためらいもなく、大股で、ぐいぐいとこちらに近づいてくる。
「あいつは家(うち)に来る!」そう察知した私は、家に駆け込んでご注進に及んだ。
「変な奴が家(うち)に来よらすばい!」。
 見上げるような大男がぬっと入り口に立った。痩せてとがった顔。あたりを睥睨(へい
げい)するようなぎらぎらした目。それはまわりの大人たちのものとはまるで違う、ぞっ
とするような狂気の目だった。私は恐怖してその顔を見上た。
 「あれがお前の親父たい」。家の者にそう言われたが、私には恐い見知らぬ他人でしか
なかった。それまで私には父親が居なかったのであるし、それをあたり前だと思ってきた
ので、突然そう言われても、私には何の親近感も覚えなかった。

 それから本家での親子三人の生活が始まった。当時本家には、親父の兄弟とその家族、
数家族が共同生活していたので、他に遊び相手は居たわけで、私は親父に近づく気がしな
かった。またその必要もなかった。親父はその後も、ずっと恐い存在であった。本家での
生活が一年半ほど続いた頃、親父がいよいよ独立して商売を始めることになる。我が家族
は大川の実家から独立、隣の木室村に引っ越した。本家は大きな百姓であったから、そこ
に居た頃は白いご飯もあたり前のように食べていて、腹を減らしたという記憶が全くない。
従って木室に移ってからが、私達家族の本当の戦後が始まったと言うことになろう。

 戦後は本当に何もなかった。人が集まる所には、白い服を着た傷痍軍人が、義手義足を
茣蓙の上に就き、頭を下げたまま、まるで彫像のようにじっと動かずに俯いていた。そう
いう姿を至る所で見かけたものである。健常な人さえ仕事のない時代、傷痍軍人は物乞い
しか生きていくすべがなかったのであろう。昭和二十五年に朝鮮動乱が起こり、その特需
によって日本経済はテイクオフしたと言われているが、我々の生活には、それほどの変化
はなかったように思う。
 小学校に入りたての頃は、まず食べる物が貧しかった。炊き上がったお釜は、上の方に
麦ばかりが集まった、ぱさぱさのご飯。米がない時には、味噌味のどろどろとした汁に、
メリケン粉の団子が入っている「だご汁」だった。これがまずいこと甚だしく、目をつぶ
って無理に口に入れていた。いずれにしても「またかあ!」と、見ただけで食欲がなくな
るような食事が多かったものである。
 小学校二年か三年の頃であったろうか? 学校の昼食の時間になると、隣の席の子が、
決まってどこかへ姿をくらました。「あれ! いつもどこへいくのかなあ?」常々疑問に
思っていたら、ある日のこと、その子が校舎の片隅に膝を抱えて俯いているのを発見した。
「あっそうか! あいつは弁当も持ってこれないんだ!」。その子は学校をよく休んだ。
家の手伝いをしているという話であった。
 遊び道具もなかった。道具は何でも自分達で作るものであった。ボールは石を布と糸で
グルグル巻きにして作り、バットや刀は棒切れを削って作った。滅多に食えなかったが、
おやつと言えば、芋であった。

 村に初めて小さな駄菓子屋さんが出来たのは、小学校三年か四年の頃であったろうか?
初めて見るキャラメルなるものは、一粒が紙に包まれ、当たりはずれの付いたクジになっ
ていて、○印がついていると、もう一個貰うことが出来た。キャラメルは箱単位でなく、
粒単位で売り出されたのである。パッチもその頃売り出されたはずである。その頃の私達
の小遣いの単位は銭・厘であった。

 映画というものを初めて観たのは、木室小学校の校庭に白い幕を張った、臨時に作られ
た映写会であった。幕の反対側からも同じように観れるもので、裏に回ったり、表側に帰
ったり、面白がって観たものである。あの頃は白黒の邦画が中心でしたが、フイルムがよ
く切れましたねぇ。その度に中断、何度も長々と待たされました。母ものが多かったです
ねぇ。随分涙を流しました。木室村にはありませんでしたが、本家のある大川町に初めて
映画館が出来たのはやはり小学校三年生か四年生頃でしたかねぇ。正月などの特別な日は
近所の悪童達と、はるばると大川の映画館まで、歩いて観に行ったものです。
 洋画を観れるようになったのは、中学時代でしたろうか? そして白黒から天然色に変
ったのが高校の初めの頃ではなかったかと思います。 私が初めて天然色映画を観たのは
「機動部隊」というアメリカの戦争映画で、白黒で始まった画面が、途中で突然、煤けた
色付きに変わりました。一瞬「あれ! 俺の目がおかしくなったのかな?」と驚いたこと
を憶えています。
 高校時代には邦画・洋画ともよく観たものでした。当時、映画こそが唯一の娯楽でした。
西部劇が中心でよくアクションものを観ましたが、たまに観た現代ものの洋画で、特にア
メリカ社会の豊かさ・華やかさには圧倒されましたね。豪華な車・御殿のような大邸宅・目
も眩むような生活。我々にとっては、夢のまた夢、まるでおとぎ話の世界のようでした。

 大学時代もまだまだ貧乏でしたねぇ。大学寮は六畳にニ人。寮の飯は食器に入った少量
の盛り飯。味噌汁など味噌味のする湯の中に、豆腐の角が欠けたような「かけら」が浮遊
しているだけでした。とにかく具は一体何が入っているのか、判別出来ないような代物で
した。食事が終った直後でさえ、空腹感は、まるで解消されていませんでした。従って夜
になると腹が減ります。我々は夜九時ぐらいになると。毎晩ぶらぶらと街にくり出し、安
い夜食を探して漂いました。あの頃は確かうどんを三十五円ぐらいで食べることが出来た
はずです。金がなくなり夜食も食えなくなると、夜中に腹が減って眠れなくなるんです。
そういう時は、誰かが実家から送って貰ったという米を持ち出して、飯盒で炊きあげ、醤
油や味噌を付けて食べたものでした。これが結構美味かった。
 そう言えば、大学寮はメチャメチャ古い建物でした。廊下は全面「うぐいす張り」、歩
く度にゆさゆさと揺れ、「ギーコギーコ」と音を立てました。深夜に、我々が電気を消し
寝床に入って、全寮が静かになると、必ず鼠達が天井裏で大運動会を始めました。これで
また我々は眠れなくなるんです。「あんまりうるさいので、ひっ捕えて焼き鳥ならぬ、焼
き鼠にして食ってやったら、鼠がやっと少し大人しくなった」という話が、寮内に流れて
きましたが、その話の真偽の程は定かではない。

 我々が大学を卒業して就職、晴れて社会人になったのが昭和三十九年四月でした。それ
までの日本では、就職難が続いていて、就職しようと思えば、必ず就職試験を受けるとい
うのが、当時の私達の常識でした。しかしその年、私は面接だけで、就職試験を受けてい
ません。その年から日本の会社は、採用方針を「質から量」に切り替え、出来るかぎり沢
山の人を採用するという方向に変ったのです。その年の一流会社は一社で何百人・何千人
という大量の採用をしたはずです。
 我々が生まれた昭和十六年・十七年が、戦争勃発という、日本の歴史上でも特別な年だ
とするなら、この昭和三十九年、我々が大学を卒業・就職した年も、また特殊な年と言え
るでしょう。この年には、新幹線が開業しまた。それに何と言っても東京オリンピックが
開催された年です。その直ぐ後には、大阪万博も控えていました。その頃の日本では、オ
リンピックと万博というビッグイベントを契機に、高速道路網が拡張整備され、自動車や
カラーテレビが爆発的に売れ始めていました、あらゆる業界が好景気に沸き、人手不足が
続いて、地方からの集団就職や出稼ぎという、民族の大移動も始まっていました。その頃
から日本経済は、拡大に継ぐ拡大をしていったのです。「給料というのは毎年毎年上がっ
ていくもの」それが次第にあたり前になっていきました。
 我々もよく働きました。職場は毎日毎日が戦場のようでした。残業休出が続き、給料は
貰っても使う暇がなく、我々の財布はいつも膨らみっぱなしでした。そういう時代もあっ
たのです。
 私の初めての赴任先は横須賀でしたが、この経済成長のなかで、横須賀の街の様子も、
大きく変貌していきました。横須賀というのは、九州に居た頃からよく聞いた地名でした。
 「横須賀とは。一体どんな大都会なのかな?」私は胸を膨らませて横須賀に赴任したの
です。ところが、いざ着いてみてがっかりしました。小高い山が連なる、緑の多い、どこ
にでも見かける田舎でした。「何だ! 九州の田舎に、ちょっと毛の生えた程度ではない
か!」。ところが。当初そう思っていた横須賀の山が、切り崩され始めたなぁと思ってい
る間に、次から次と宅地に変貌していきました。東京・川崎・横浜のベッドタウンとして
宅地開発が次の山へ次の山へと広がっていき、数年もたつと、あの緑に包まれていた山々
は、何時の間にか家が鈴なりになった雛壇になっていました。
 物も急速に豊かになっていきました。車は勿綸、電化製品・服飾品・調度品から食料品
に至るまで、ありとあらゆる物が。街に溢れていきました。気が付いてみると我々は、い
つの間にか、昔夢見たマイホームや車も手に入れていました。

 考えてみると、このような大変化を遂げた時代というのは、これまでの日本の歴史には
今だかつてなかったことですよね。我々は、戦後の何もない時代から、坂を駆け登って、
一挙に坂の頂上にまで達した、そういう日本の大発展時代に立ち会ってきました。同時に
日本の歴史の中で、最も豊穣かつ稀有な時代を、我々は享受してきたことになります。
 一時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも言われ、「ひょっとするとアメリカをも
凌駕するかも?」という夢さえ見たことがありました。ところがこの二十年、少子高齢化
という急激な国内社会構造の変化、更にはグローバル化や新興国の台頭という、世界の構
造変化にも対応できず、日本は最早、下り坂を転がり始めています。我々は、国の財政が
破綻、頼みの年金も一挙に減らされるという、そういう事態に付き合わされる可能性すら
あります。
 しかしながら、そうは言っても、我々が「日本の歴史が始まって以来最も豊かで・平和
な時代を生きた、最も幸福な世代」だということは疑いようがないのではありませんか?
そう考えると、我々は極めてラッキーな世代なのです。そう考えられませんか?
いや!そう考えましょう。

(斜光15号 2010)

233

 

言 い 訳

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月30日(月)11時59分15秒
返信・引用
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                  言 い 訳




   言い訳とはゴルフで良い成績を採れない理由のことのようだ。話の運びからい
   って学生時代のスキー転倒事故で腰にダメージを受けたからだと繋がるのかと
   思っていたら、その転倒自体も持って生まれた平衡感覚の欠如からだと著者は
   言っているらしい。先天、後天、いずれにせよ言い訳は言い訳。言い訳しなが
   らも勝ちをとろうと努力する。それでいい、そこがいい。(編集部)




 ゴルフの話である。成績が悪い時、ゴルファーがよくやるあの言い訳である。
 私は「ふ-けもん会」で六、七年前に連続優勝をした。しかしそれ以来、私は永い間無
冠のまま低迷を続けている。「惜しかったなあ!」ということさえない。以前は「熊ちゃ
ん! 馬買ったからな、頑張ってくれよ!」よく言われたものである。しかしその声も最
近ではめったに聞かれなくなった。永い間裏切り続けているのである。
それも当然である。
 数年前まで、私のスコアは年間平均で一〇〇を切っていた。調子が良ければ八〇台も出
ていた。しかしこの三年ほどは、一〇一とか一〇二というアベレージで、どうしても一〇
〇を切れないでいる。私はこの停滞の言い訳を、「歳だけではない、昔痛めた腰の所為で
ある」としてきた。


 私が腰を痛めたのは大学二年生の時である。当時学生寮で仲の良かった五人組、一度ス
キーなるものをやってみようということになった。この五人組、全員九州出身で、スキー
はズブの素人揃いであった。我々は学校に一組だけあったスキーセットを借り、山口線で
北上し、中国山脈のあるスキー場に出かけた。
 スキー場に着き、早速滑り始めた。ところがニメーター弱もあるスキー板、全く我々の
自由にならないのである。板に片足を乗せただけで、その片方が勝手に動き出す。右に曲
がろうと体重を右に傾けるが、何故かスキーは左の方に曲がっていく。上手い人を真似て
スピンでキュッと止まりたい。そう思ってスキー板の上でいくら身体を捻ってみても、ス
キーはそのまま進むだけである。本人の意思など全く無視され続けるのである。どうもス
キーには、我々がこれまで身に付けてきた運動の原則とは違った原則があるらしい。
 結局、定まったその日の滑りのパターンは、先ずスタート地点までスキーセットを担い
で登る。そこで一人のスキーヤーが決まると、他の四人は世話役にまわる。スキーが滑り
出さないように板を押えておく者、靴を履かせる者、ストックを持たせる者、我々のコー
スを横切りそうな、他のスキーヤーを監視する者、それぞれが分担をして準備万端整った
ところで、やおらスキーヤーが宣告する。「よし! 離せ!」。つまり出来たのはスキー
任せの直滑降のみであった。
 しかしこうなると、次第に度胸比べの様相を呈してくる。夫々がより急な坂に挑戦した
がるようになったのである。私は一挙にレベルを上げた。「俺はあそこを滑る!」。上手
い人さえ滑っていない無人の斜面。私はその坂の頂きに立った。遠くから見た時はそれほ
どでもないと思えたのに、見下ろしてみると、まるで断崖絶壁に立ったようである。「こ
こは危なか!」「止めといたがよか!」仲間は揃ってそう言う。私も「やっぱり止めとこ
う」。その時はそう言って、一度は諦めたのである。
 ところが一日楽しんで、「そろそろ帰ろうか」という段になると、恐怖感に負け、すご
すご逃げ帰るという屈辱感と、一ヵ所だけ残していくという無念さとが蘇ってきた。
「やっぱり俺はあそこに挑戦する!」。
 私は再び頂きに立った。やはり恐怖が湧き上がってくる。しかし冷静に見てみると、急
斜面は約四〇メートルぐらい。そこを通過すれば、その先は鍋の底のような平らな地形に
なっている。この四〇メートルの急斜面さえ立っていられれば、平面で減速、その先の登
り勾配で止まれると計算した。 「よし! 何とかなる!」。私は仲間の制止を振り切っ
て飛び出した。まっ逆さまに落ちていく。恐怖で身体が硬直し、腰が浮きあがる。鍋の底
が物凄い勢いで迫ってくる。しかしまだ何とか立っている!「よし!」「やった!」私は
心の中で快哉を叫んだ。イメージ通り、平地まで立ちおおせた。後は平面で減速、先の勾
配で自然停止すれば成功だ! しかしそう思えたのは一瞬のこと、結果は思いもよらない
形となった。鍋の底に到達した途端、身体を支えるつもりで踏ん張った両足は、いとも簡
単に跳ね飛ばされ、加速度のついた勢いのまま、尾甑骨を板に嫌というほど打ちつけてし
まったのである。体重がかかった重力の前では、人間の脚力は、まるで取るに足らない非
力なものであった。
 それから一ヵ月後、学校で身体検査があった。身長を測って貰ったら、担当は「一七一
センチ」だと言う。「そんなことはないでしょう、一七二センチはあるはずです、もう一
度測ってください!」。二度測っても三度測っても同じであった。おかしい! 二十歳前
後の若い者である。伸びることはあっても、縮むことはないはずではないか? そしてそ
の後二年ぐらい私の腰はジクジクと痛んだ。それでも結局、私は医者にも見せず、そのま
ま放置してしまった。そして次第に痛みが遠のくにつれ、いつのまにやらそのことを忘れ
てしまったのである。こうして私のその時の疑問が氷解するまでには、それから約二十年
の歳月を要することになる。


 私が最初にギックリ腰に襲われたのは、四十歳前後の頃である。突然襲われたあまりの
痛さに、その時は直ちに病院に駆け込んだ。そして腰のレントゲン写真を見せられた時、
私は愕然となった。第四腰椎と第五腰椎の間の椎間板が、グシャリとひしゃげて固まって
しまっているではないか! その椎間は他のそれに比べて、半分の長さに圧縮されている。
「あっ! 身長が縮んだ理由はこれだったのか!」その時になって、やっと永い間の疑問
が解けたのである。

 医者は更に言う。「君は変な腰をしているねえ?」「正常な人の脊椎は、横から見ると
腰骨のところで反り返り、背骨のところで猫背のように曲がっている。いわゆる逆S字型
に湾曲しているものだが、君の腰骨はストレートになっているよ」。脊椎は逆S字型に撓
(たわ)むことによって、上下の衝撃を和らげているのだそうである。その点私の場合、
脊椎が撓めない分、衝撃がそのまま腰に集中するそうである。「熊井さんは姿勢が良いね」
私は人によくそう言われる。しかしそれは腰骨がストレートになっている分、背筋を伸ば
していないとバランスが取れないという、分かってみると、至極当然の話にすぎない。そ
の時医者が付けてくれた病名は「脊椎分離すべり症」。

 それ以来私は、加齢とともに頻繁にギックリ腰に見舞われるようになる。それこそ私の
持病になってしまったのである。激しい時には、前回のギックリがやっと治ったと思った
途端、直ぐに又やられるということもあった。私は胡座(あぐら)がかけない。永く胡座
をかくと、腰の骨がズレてくるのが分かるのである。私は畳の上ではいつも正座をしてい
る。
 結局、永年かかって辿り着いたギックリ腰対策は、第一に体重を落とすこと。第二に背
筋・腹筋を鍛えて筋力で腰骨の負担をカバーすること。この二つである。
 私はこのために、毎日早起きして、近くの小学校の校庭に行く。ラジオ体操をし、テニ
スの素振りをし(昔は壁打ちをしていたのであるが、周りの家から「うるさい!」とクレ
ームがついたので、今は止めている)鉄棒にぶら下がる。私は永年これを日課として続け
ている。これが永年続いているのは、止めたら直ぐに腰痛が出て、直ぐにゴルフも出来な
くなるだろうという、恐怖で続けているようなものである。


 私が最初にギックリ腰に襲われたのは、四十歳前後の頃である。突然襲われたあまりの
痛さに、その時は直ちに病院に駆け込んだ。そして腰のレントゲン写真を見せられた時、
私は愕然となった。第四腰椎と第五腰椎の間の椎間板が、グシャリとひしゃげて固まって
しまっているではないか! その椎間は他のそれに比べて、半分の長さに圧縮されている。
「あっ! 身長が縮んだ理由はこれだったのか!」その時になって、やっと永い間の疑問
が解けたのである。

 医者は更に言う。「君は変な腰をしているねえ?」「正常な人の脊椎は、横から見ると
腰骨のところで反り返り、背骨のところで猫背のように曲がっている。いわゆる逆S字型
 言い訳の話に戻る。「ふ-けもん会」の江越会長は、私に「ドラコンOB」という馬名
を付けてくれた。飛ばすのは飛ばすが、OBばかり出しているからである。何十年もやっ
ているのに、今だにOB連発を克服出来ないでいる。その原因は僕の腰骨が真っ直ぐにな
っているという異状からきていると思っている。撓みのない、ズドンとストレートな私の
脊椎は、正常な人に比べて、体重移動時のバランス保持力に余裕がないのではないか?
私は先天的に著しくバランス能力に欠けているのではないか? と思っているのである。
そういえば、私はスキーも下手である。どうも人に比べて転びやすいし、怪我もしやすい。
スキーでは、右足を骨折、膝の十字腱筋という筋も断裂している。 当時の医者は揃って
「この手術は常に難しい。今何とか歩けるなら、手術しない方が良いでしょう。かえって
足が動かなくなる可能性が高いですよ!」と言われて、そのまま放置している。 スキー
環境に恵まれた山形に転勤した時、私はスキーセットを処分してしまった。それは自分に
スキーの能力がない上に、歳も取ってきている。 ここでスキーに熱中したら、またまた
大怪我をするに違いないと恐れたからである。
 私のゴルフは、体重移動時のバランスが悪いために、スイングにバラツキが出、それが
OBの原因になっていると思うのである。その真因が腰骨の異状からくる、バランス能力
の欠如にあるとすれば、これは先天的なものであって、OB連発を克服出来ないというの
も、止むを得ないことである。
 これが私の言い訳である。


 斜光十四号に何を書こうか? 散々迷ったあげく、先のような言い訳を書こうと書き始
めた四月末頃、編集委員の伊藤さんからのメールで、早くも菅君からの原稿が届いたこと
を知った。読ましてもらったらゴルフの話で、私が書こうとしていた構成とそっくりであ
る。ただ違うのは、病を克服した後、彼は新しい目標を高々と掲げて、挑戦しようとして
いる。その彼の意欲と姿勢が、私の諦めぎみの言い訳とは対照的であったことである。

 菅君の原稿を読んだ以上、よく似たものを書くわけにもいかんなあという思いもあった
が、今から別のテーマ探すのも面倒である、「よし! 言い訳だけでなく、私も目標を作
って、もう一度挑戦してみよう」こう考え直したのである。

 「どげんかせんといかん!」。私は自分のスイングを改めて分析し直した。その結果、
私のスイングの欠陥はバックスイングにある。バックスイング時の回転・体重移動がスム
ーズに行われない結果、トップの位置がバラバラになっている。もしこのトップの位置さ
え固定出来れば、同じポイントから振り下ろすダウンスイングはそれほどバラつかないの
では? もしそれが出来れば、OB連発をなくすことが出来るだろう。もし出来ないとし
ても、相当減らすことは出来るはずである。私はそう結論付けた。そこでこのトップの固
定を第一目標に据えて、バックスイング時のチエックポイントをいくつか捜すことにした。
しかし私は現在、練習時間はそう取れない身。やり過ぎると逆に腰が痛み出す。ならば、
チェックポイントを二つか三つに絞り、昼休み時間を利用して毎日素振りをする。素振り
を続けることによって、チェックポイントを身体に憶えこませるのである。これが結論的
対処法である。

 こうして今年の目標も決めた。その第一は、ふ-けもん会で、今年中に一回、優勝を果
たすこと。ふ-けもん会も、皆寄る年波には勝てず、最近は相当成績が下がってきた。そ
こで前回新しいハンデ改正が行われた。今こそチャンス。ちょっとレベルが上がれば優勝
は充分可能である。
 そして第二の目標。会社の同期入社の四人で毎月定例会を行っている。ここでの約束は
「永久スクラッチ」。死ぬまでスクラッチで勝負すると約束しているのである。この中の
二人は、私と違って完全なサンデー毎日。彼等は毎日毎日ゴルフ三昧の生活をしている。
お陰で私は毎月負けっ放し、「熊さんのお陰で、俺の老後は安泰だ!」とまで言われてい
るのである。今年こそは彼等をギャフンと言わせたい。
 そして第三の目標。私は毎年、おふくろの顔見に九州に帰っている。その度に佐賀のフ
ァニーズには、楽しい前夜祭とゴルフでもてなしを受けている。もう始めてから五年か六
年になるだろうか? ところがこの間、私はファニーズに一度も勝っていない、完敗であ
る。菅、中原君が調子を崩していた去年さえ勝てていない。今年もまたバルーンの時期に
一戦交えることが決まっている。
今年こそは一矢報いたいではないか。


 このところ私は、この三つの目標を目指して毎日素振りを続けている。チエックポイン
トも決まり、最近何とか光明らしきものが見えてきた。近々、一挙に一〇〇の壁をぶち破
って、八〇台へと、別人のような飛躍が出来るのではないかと心を躍らせている。これを
人は「取らぬ狸の皮算用」とも言うが、今年の目標を全部だなんて贅沢は言わない。せめ
て一つだけでも達成したいものだと頑張っている。

(斜光14号 2009)>

209

 

僕のマドンナ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月25日(水)12時04分15秒
返信・引用
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                  特集 今だから話そう
             僕のマドンナ




     年をとてっから、ましてや妻子持ちの男の色恋沙汰は、時に眉をひそ
     めたくなるようなドロドロしたものになり、例え終わったことであっ
     ても「今だから話そう」というわけにいかないでしょう。
     しかし少年のときめきの話しはひたすら微笑ましく、そして初々しい
     ものです。「人見知りが強く、口が重たく、口数が少ない」少年だっ
     たら尚更のことでしょう。「むっつりスケベ」とは言わせない清らか
     さがあります。(編集部)





 「チリンチリン」「チリンチリン」背後から自転車のベルが迫ってきた。広がって歩い
ていた僕達は端に寄って道を開けた。僕は何気なく自転車の乗り手を見て「はっ」とした。
 色が白く鼻は高く、その整った顔は朝日を浴びて生き生きと輝いていた。僕は思わず彼
女の後姿を追い、そしてちょっと恥じらいの混じった彼女の微笑が残った。
 僕が初めて彼女を見かけたのは、佐賀高校に入学、大川から佐賀線に乗って佐賀駅まで、
それから北校舎までを、歩いて通い始めたあの日のことである。
 同窓生の中にはマドンナと言われる女性が沢山居られるが、マドンナを「高嶺の花」と
解すれば、僕の高校時代のマドンナはまさに、あの時に決まった。その後何度か彼女を見
かけたことがあるが、その都度、僕の胸の奥に「ぽっ」と暖かい灯かりがともるようにな
ったのである。


  思い返してみると僕のマドンナは、小さい頃から結構沢山現れている。転校とかクラス
が変ったりする度に、新しいマドンナが現れた。
 最初のマドンナは小学校三年生の時のMさんであろう。小学校三年生というと、かなり
僕はませていたのであろうか? 町村合併して大川市になる前の木室小学校。その頃は戦
後間もない頃で、食糧事情も悪く、学校に弁当を持ってこれない生徒が沢山居た。それほ
ど周りは皆貧乏であった。僕達は、継ぎの入った一張羅を年中着ていて、その両袖は鼻水
でテカテカに光っていた。その頃は誰もがそんな汚らしい恰好をしていたが、そういう中
にあって、彼女だけはいつも清潔でキチンとした服装をしていた。そして美人で可愛く、
その上に成績も抜群である。それはもう「高嶺の花」そのものであった。
 しかし僕は、その思いを露ほども外に漏らしてはいない。おくびにも出さないという態
度を取っていた。この癖は大きくなっても殆ど変ってはいないようである。と言うのは、
当時はまだ戦前の気風が色濃く残っていて、「男は男らしく」と常に言われ続けていたし、
僕らも「男になりたい」と思っていた。ここで逃げたら男で無くなるという場面では、相
当踏ん張ってきたのである。そういう風潮であったから、女の子と話をするだけで「あい
つは女々しいやつだ!」とか「女の腐ったような奴だ!」とか言われたものである。そう
いう周りの目を気にして、僕はいつも女性に対して無関心を装ってきた。最近つくづく思
うのであるが、このような小さい頃の体験や考え方というのは、非常に強烈で、大人にな
っても永く引きずっているものである。逆に言うと、教育やしつけというのは、小さい頃
にしっかりやっておくことが、如何に大切かということであろう。

 当時のことではっきり憶えている事がある。不思議な事であるが、最近の学校には番長
が居ないそうである。当時はクラス毎に必ず番長が居た。僕のクラスの番長はその頃、い
つも七~八人の子分を引き連れていた。
 その番長、何かと言うと、僕に難癖をつけてくるのである。ある時、僕はその子分達に
周りを取り囲まれた。番長がその一人に命令する。「お前行け!」指名されたその子分は
いきなり僕に組み付いてきた。二人で暫く揉み合っていると「次は、お前行け!」今度は
二番手が殴りかかってくる。こうして僕は七~八人を相手に、順番に夫々と闘わねばなら
なかった。当時の番長は今時と違って、集団で一人を袋叩きにするという卑怯な真似はし
なかった。それがその頃の男としての科持であった。番長がその頃、何故僕をいじめの対
象にしたのか? 今考え思えてみると、彼もやはりMさんに気があったからだろうと思え
るのである。
 その頃、学校行事などの会合があると、Mさんと僕がクラスを代表することが多かった。
その事で彼は僕に嫉妬していたのに違いない。当の僕は、周りの目を気にして、彼女に声
を掛けたことも無く、ましてや仲良くした事など一遍も無いというのに。
 こうして彼女は美しい「高嶺の花」のまま、未だに僕の心に残っている。今頃彼女はど
うしているんだろう? その後、僕は転校してしまったので、それ以来、彼女の消息もぷ
っつりと途絶えたままである。
 その後小学校・中学校を通じて、マドンナは次々と現れた。しかしながら、僕の方から
彼女に近づいて、「彼氏・彼女の関係」にまで推し進めたということが一遍も無いのであ
る。
 大人しく、消極的で小心。これが僕の基本的な性格で、行動力に著しく欠けていたので
ある。 その上に、先のような木室村での体験が重なっていたのも影響したのであろう、
「マドンナは遠くから眺めているもの」というのが、習い性となっていた。
 僕は書くことで自分の気持ちを表すことは、少しは出来ると思っている。しかしそれを
口で表現するというのは、甚だ苦手である。もともと人見知りが強く、口が重たく、口数
が少ない。相手が男でもそうであるから、女性を、しかもマドンナを相手に、豊富な話題
と滑らかな弁舌とで彼女をリードし、良い気分にさせることなど、とてもとても無理な話
である。この殼を打ち破るべく、過去に何度か挑戦した事はある。しかし結果は、気ばか
り使って疲れ果ててしまい、「ああ、こんなにしんどい思いをするくらいなら、男どもと
付き合っていた方がよっぽど気楽だなあ」とこうなるのが、いつものパターンであった。
 本来不精者である。


 「類は類を呼ぶ」。僕の周りの友達も、似たようなのが揃っている。女性に関してはオ
クテの奴ばかりである。しかし中には、敢えて彼女獲得に行動を起こしたのが居る。一人
はF君である。あれは大川中学校時代のことであった。相手は小学校の近
くに住んでいた下級生の娘である。家が貧乏であったので、忙しい親に代わって、沢山の
弟妹を一人で面倒をみているという、評判の娘であった。F君が、思い切って交際を申
し込むと言うので、僕が付いて行くことになった。僕がちょっと離れた所から様子を見て
いると、彼は緊張した面持ちで入り口の戸を叩いている。やがて内から扉が開いた。
彼が中に消えた。ところが、中に消えたと思ったら、数秒もしないうちに、上気した顔で
直ぐ出てきてしまったではないか。僕は駆け寄って「どうした!」声を掛けると、「彼女
は用事で外出中、今日は留守で居りませんと言われたよ」。完全に空振り三振・アウトで
あった。
 あの時の彼の顔には、無念さと安堵感とが両方入り混じっていた。彼の二度目の挑戦は
無かったはずである。
 もう一人はK君である。高校三年の時、同級生のHさんの家を訪ねている。 一回目は
S君が付いて行った。「よし! 俺が付いていくから、当たって砕けろ!」恐らくK君は、
積極派の菅君にそう煽られて行ったのに違いない。
 僕が付いて行ったのは二度目の時である。二度目があったという事は、脈があったとい
う事か。部屋に通された二人は、ともに上気しっ放しで、そこで何をしゃべったかは全く
憶えていない。しかしK君も口が重たい方、話は殆どHさんのペースで進んだとぼんやり
憶えている。はっきり憶えている事がひとつある。彼女には二人の美しいお姉さんが居た。
それにお母さんを含めた三人、お茶菓子を持ち、好奇の目と、にこやかな笑顔でもって、
「いらっしゃいませ!」我々を代わる代わる、値踏みに現れた事である。


 僕の話に戻そう。僕の高校時代は、その後、彼女を見かけてはドキドキするだけで、い
つもの通り、何事も起こらず、何事も起こさず過ぎ去った。卒業間際、我々は卒業アルバ
ムと卒業後の進路先の一覧表を貰った。僕はそのアルバムを見て初めて、彼女の名前がN
さんであることを確認し、彼女が長崎県の看護学校に進んだことを知った。


 卒業して僕は山口大学に進学、初めて親元を離れて山口に住むことになった。山口は県
庁所在地、更に幕末から明治時代にかけては、数々の英傑を輩出し、維新の中心舞台にな
った所である。その割には何とド田舎であることか? 僕は期待に反した町並みにがっか
りしていた。そして入った寮は、廊下を歩けばその度にギシギシと揺れる古い建物。はか
り飯で、食べ終わった直後でさえ空腹感が解消しないマズイ飯。周りに居るのは知らない
奴ばかり。そういう毎日に、僕はホームシックになってしまい、非常に寂しい思いを募ら
せていた。そういう時だった。僕は、はたと思いついた。そうだ! Nさんに文通を申し
込もう。住所は分かっているし駄目でもともとではないか! 僕は初めてマドンナに対し、
積極策に出たのである。早速申し込みの第一便を書き送った。彼女にとって、僕の存在は
「無」そのものであったはずである。その時は、まさか返事が返ってくるとは期待してい
なかった。ところがびっくりするほど素早く、しかも色よい返事が返ってきたのである。
後で考えてみると、彼女もその時、僕と同じ境遇にいたのである。同じように寂しい思い
をしていたのに違いない。僕は絶好のタイミングを選択したのである。


 こうして彼女との手紙の交換が始まった。そしてその手紙のやり取りは、結構頻繁に行
われた。しかしどんな内容の手紙を書いたのか、今では殆ど忘れてしまっている。しかし
ひとつだけはっきり憶えている事がある。それは書き送った後で、「しまった! あんな
こと書かなければ良かった!」と後悔した内容だったからである。
 その頃には既に、寮内に四~五人の仲の良い友達が出来ていた。大学生活にも慣れ、一
緒にマージャンも憶え、適当に授業をサボることも憶えた頃であった。いつもの通り仲良
し五人組でマージャンに興じていた時、仲間の一人が言い出した。「今、ストリップショ
ウの来とろうが、皆で見に行かんか!」こういう話、すぐに衆議一決する。ストリップシ
ョウというのは、山口では一年に一回、見られるか見られないかというくらいにチャンス
は少ない。「それは是非行こう」。僕にとっても初めての経験、一度見てみたいと思って
いたので、僕は直ぐに賛成した。
 我々は、ぞろぞろと劇場の近くまで歩いた。 劇場の前にはけばでばしいピンク色で
「ストリップショウ」と書いた看板が立てかけてある。丁度その時、向うから若い女性が
歩いて来た。我々がこのまま歩いて行くと、丁度彼女の目の前で劇場に入るタイミングと
なる。「これはちょっと恥ずかしいなあ」と思って隣を見ると、そいつも「私は裸踊りな
どを見にきたのではありません」という顔をしている。結局我々は牽制しあいながらその
まま、そ知らぬ顔で劇場を通り過ぎてしまった。我々は約五〇メートル程通り過ぎた所で
Uターン。ところがまたまた反対側から女性が歩いてくるではないか。結局我々は、彼女
をやり過ごし、三回目にしてやっと劇場に入ったのである。
 劇場の暗がりに身を入れた瞬間、スポットライトを浴びた若い女性の裸身が目に飛び込
んできた。「おぉ! 女性の身体というのはこんなに美しいものなのか!」僕は感激した。
 我々は舞台からちょっと離れた所に席を占めた。最初の曲が終わり次の新しい踊り子が
出てきた。二人目もやはりきれいである。ところがその後、曲が変るたびに、出てくる踊
り子が段々年を取ってくる。五番手頃に出てきた踊り子は、完全におばあちゃんであった。
体の線は完全に崩れている。痩せた細い足に、無様な下腹がドンとせり出している。その
体型は、もう醜悪でさえあった。
「何で俺はこんなものを見に来てしまったのか!」僕は何か自分自身が、汚泥にまみれて
しまったような情けなさと惨めさに襲われた。おばあちゃんは観客の冷たい視線を浴びな
がらも、媚を売りながら依然踊り続けている。その時間の何と永かった事か! 恐らく彼
女には旦那は居なくて、子供を抱えているに違いない。しかし如何に生活のためとはいえ、
どうして彼女はプライドを捨て老醜を晒してまで、このような恥辱に耐えねばならないの
か? そう彼女の身の上を想像すると、悲しくて気の毒で、段々見ていられなくなってき
た。
 僕はあの時、大体こんな内容を書き送っていた。恐らく彼女は「あのドスケベが!」と、
かんかんに怒っているに違いない。「失敗したなぁ!あんなこと書かなきゃ-よかったな
ぁ」おおいに後悔したのである。ところがあの時は、案に相違して、ちゃんと返事が返っ
てきた。


 文通は一年強続いた。二年生の春頃だったと思う。突然彼女が山口に僕を訪ねて来ると
いう。僕は困った。僕は女性と二人だけで時間を過ごしたという経験が無く、彼女をどう
扱ったらよいのか? 何を話したら良いのか? はたと困ったのである。
 僕は文の中では饒舌である、冗談も言える。しかし彼女と面と向かったら、しどろもど
ろになるか、それを隠すために、つっけんどんになるか? いずれにしてもさっぱり自信
が無かったのである。
 そうしてその心配は現実になった。恐らく文通の中で作り上げた僕のイメージと、実際
に会ってみたイメージとに大きなギヤップがあったのであろう。面会後に出した手紙の返
事はなかなか返ってこなかった。その後に出した手紙の返事も、間延びし途切れがちにな
った。そうなるとこちらから出すのも次第に減ってきて、とうとう完全に途絶えてしまう
結果になったのである。悲しい思い出である。会わなきゃよかったのにねぇ。マドンナは
遠くから見ているに限ると改めて思った次第である。


 この原稿、「今だから話そう」のテーマの中に入れてもらうつもりで書いてみた。しか
し読み返してみると、結局は如何ほどのことも無い。たいしたドラマも起こらず、殆ど無
内容で、結果ただ振られただけである。
 対女性に関しては、その後も似たようなものであった。結局は見合い結婚をし、家族も
増えて、今は何とか世間並みの家庭を持っている。しかし僕と似たような友達は、結構沢
山居られるのではなかろうか? 平凡だが、僕の人生。まあこんなものだという事か。

(斜光13号 2008)>

202

 

>ヤーさん」達に関わった話

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月18日(水)18時09分41秒
返信・引用 編集済
  .



   市民の意識も変わり、暴対法もできて、いわゆる暴力団も大分いづらく
   なった世の中だ。まだヤーさんが闊歩していた頃の話なのだろう。
   著者はそんなヤーさん達を蔑視するわけでもなく、必要以上に怖がるわ
   けでもなく対応している。彼らの要求を断った後で、高級ウイスキーを
   進呈されるところなど、ヤーさんもそんな著者にどこか親しみを覚えた
   に違いない。だれかが、著者の男気について書いていたが、そんな匂い
   をヤーさんは感じ取ったのだろう。(編集部)






      「ヤーさん」達に関わった話




 斜光も十二号ともなると、テーマ探しにだんだん窮するようになってくる。今回もその
例に漏れず、とうとう締め切り日に追い込まれてしまった。結局は、警察関係や建設関係
などに務められた同輩には、「何だ! そんなちょろい話か!」と笑われるかも知れませ
んが、自分の体験と聞いた話を含め、「ヤーさん」に関わる話をいくつか綴ってみる事に
しました。


                                話その1

 これはかなり若い頃の話、私が資材課長として横須賀から神戸の工場に転勤になった時
の話である。神戸に赴任すると直ぐに関係業者の接待攻勢が始まった。当時は日本経済が
日の出の勢い、交際費がふんだんに認められた時代であった。そういう風潮であったから
会社は敢えて酒の飲めない・堅物の私を資材課長にしたのだろう。私はその期待に沿うべ
く、当初は贈り物攻勢に相当抵抗を試みたのです。ところが敵もさるもの引っ掻くもの。
ちっとやそっとで引き下がる手合いではない。返しても返してもまた送られてくるのです。
もともと私は脇が甘かったのか、返すのが次第に面倒になってきて、まあこれくらいなら
いいか、と妥協してしまったのです。この頃です、私がゴルフを覚えたのは。それまでは
「ゴルフなんてあんなもの運動のうちには入らん、ゴルフなんて年を取ってからやればい
いんだ!」と思っていました。
 ところが引っ張り込まれるようにしていざやってみると、これがまた面白かったのです。
 もともと関西という土地柄は、非常に情に厚いというか、人と人との付き合いを極めて
重視するというか、非常に人間関係の濃密な土地柄である。それが行き過ぎると、逆にそ
れがしがらみとなって身動きできなくなる。商売人はそこを突いて攻勢をかけてきます。
 多分そのようなことが原因であったろう、数代前のある資材課長が、ある外注先を工場
に入れてしまいました。私の赴任当時、その外注先の評判が極めて悪く、社長が現場社員
を脅かしたとか、数時間職場を離れたまま帰ってこなかったとか、次々と色々な話が私の
耳に入ってきました。外注先との契約担当は、資材課ということになっていましたので、
私は、これは何とかしないといけない。そしてそれは私の仕事ではないのか? と考えた
のです。
 その外注は社長とその弟、社長の奥さんに二人の従業員を含めた計五人の会社で、彼等
は全面的にその生活を我が工場に依存していました。これは相当の難題になりそうだとは
思ったのですが、何分にもこの兄弟の素行が良くないのです。社長は、機嫌のよい時は大
変愛嬌のある男ですが。一旦気分を害すると、途端にヤクザもどきという態度を取るとい
うことでした。
 私はこの状態をいつまでも放置していてはいけないと思いました。

 ある日の管理職会議で私は提案しました。彼等を社外で独立させるか、完全に関係を絶
つかは別として、工場から出て行ってもらうという前提で話し合いを始める必要がある。
 永い間皆が苦しんできた問題です、誰も私の提案に反対する者はありませんでした。
 よし! やってくれということにはなりました。
 しかしその会議の雰囲気は是が非でもやるぞ! という気迫に欠けるなあという感じを
受けました。
 何となく不安を感じた私は、一週間後の会議で、もう一度念押しをしました。「工場長
本当にやってよろしいですね?」。それに対し「よろしい、やってくれ!」と再びOKが
出たのです。
 私は早速、その申し入れをするべく社長を呼びました。直接話をするのは初めてです。
 社長が部屋に入ってきました。固太りのガクッリした体。なるほど笑うとちょっと愛嬌
がある。
 私は用件を申し入れました。すると俄かに人相が変わり、大きな目がギラリと光る。暫
く沈黙が続き、そしてその数分後、「分かりました、皆ともよく相談して返事をしましょ
う」。
 こうして第一回目の話し合いは終りました。そして第二回目には「よろしい。俺たちは
条件によっては出て行きますよ。今後はその方向でじっくり話し合いをしていきましょう」
ということになったのです。それからは数日おきに打ち合わせを行うこととなりました。
社長からは、工場で働くようになったそのいきさつ、その当時の資材課長に如何に貢献し
また無理を聞いてきたか。現に不合理があり、自分達が如何に我慢を強いられてきたか等
々、延々と聞かされ続けました。
 その中には、私が甘っちょろいのか? ついホロリとするような話もありました。そう
いう話を、今度は私が、現場に持っていって確認しました。そうするとそれがまるっきり
反対の話になって返ってくるんです。「一体休どっちの話が本当なんだ!」。そういう行
ったり来たりを何度も繰りかえしながら、私は少しずつ実情を掴んでいきました。
 そうしてやっと過去の話が終わり、それでは今後どのようにしていくか? その条件を
どうするかという話に移っていきました。そうすると話は俄かに緊迫してきました。
 その頃には弟が時々話に加わってくるようになっていました。現場の人に言わせると、
弟の方が兄貴より凶暴で怖いと聞いていました。なるほどその通り、ある日彼は私を睨み
すえながら「お前なぁ、月夜の晩だけだと思うなよ!」そう言って脅かしてきたこともあ
ります。
 その頃になると彼等は、私との話が膠着して進まないイライラを、工場長や他の管理職
にもぶつけるようになっていました。俄かに管理職の腰が引けてきたのです。そして気付
いた時には、私は梯子を外され、私一人屋根の上に取り残されてしまった状態になってい
たのです。
 工場長などは、彼等に追求されると「あっ! それは熊井君に任せてある」と言って逃
げていたらしいのです。
 私には金額的にはこのくらいで話をまとめたいという腹づもりがありました。だが当時
はとてもその数字を口に出せる雰囲気ではありませんでした。ニュアンスからすると、彼
等の狙いは私の腹づもりの数倍も高いところにあるらしく、私如き、いち資材課長が何と
か出来る金額ではなかったのです。
 私はハタと困りました。どうにもこうにも身動きが出来なくなったのです。工場長は頼
りにならない、さてどうするか? 私にはその状況を打開する方策がどうしても見出し得
ず、しばらくは悶々とする日々が続きました。
 丁度その頃です、突然人事異動が発表されて工場長が替ったのです。新工場長は親会社
の鉄鋼会社・K製鋼からの出向でした。頑固そうだが瓢瓢とした、何となく掴みどころの
ない人物でした。しかしその新工場長は、私から何度か事情聴取をした後、こう言ったの
です。
 「お前なあ、ああいう奴等との話を、何とか自分の手で決着付けようなんて思うな!
今後は奴等が何を言ってこようと、ノラリクラリと言を左右にして何の約束もせんででよ
ろしい!」そう言って、交渉担当を、私から本社の役員レベルに切り替えるべく、道筋を
作ってくれたのです
 私はその言葉を聞いて救われた思いがしました。本当に重い肩の荷を下ろしたという感
じでした。
 それ以後私は、言を左右にして、一切の結論も出さないという態度を取り続けました。
そうすると彼等は、どうも私では話にならんということで、私から本社の人事担当役員の
方へと、次第に矛先を変えていったのです。
 しかしその本社との交渉も相当揉めて長引きました。
 するとそのとばっちりがこちらにも降りかかってくるというような事がしばしば発生し
ました。
 その頃行われた株主総会の前日のことです、私はある役員に呼ばれました。「彼等が総
会に乗り込んでくる可能性がある。君は彼等の顔を知っているから、もし彼等の顔を見た
ら、会場に入れないようにしてくれ」「入れるなと言われても、どうすればいいですか?」
「その時は、君が身体を張って止めろ!」。その頃彼等は「先生、先生」と言って、「何
とか会」の会長という人物を顧問役にしていました。彼等はその人物に色々知恵をつけら
一日中会場の入り口に待機しました。結局その時は何事もなくて、助かりましたけどね。
その後も本社の方では延々と膠着状態は続いていました。
そうしたある日、今度は私に辞令が出ました。私は再び関東に逆戻り、東京の関連会社へ
の出向を命じられたのです。
 多分あの移動は、上の方が、私の安全を慮ってくれたのであろうと思っています。
 新しい会社に移ってからほぼ一年が経過した頃。もうその頃には、私は新しい出向先の
仕事にも慣れ、すでに神戸のことを忘れかけていました。ところがある日、電話が掛かっ
ているというので、何気なく受話器を取ると、「Yです。近くの喫茶店で待ってます、ち
ょっと顔を貸してくれませんか?」。あの社長だったのです。そうか、あの事はまだ続い
ていたのだ。
 話が今だにこじれているとすれば今日はひょっとすると揉めることになるかもしれない。
 私はそう思うと素早く腹を括りました。
 私は喫茶店の開き戸を押して店内を見回しました。居ました! 社長の厳しい横顔が見
えます。
その顔がこちらに動いて視線が合いました。その時私は一瞬緊張しました。
 ところが意外にも彼の恐い顔がフニャッと崩れたと思ったら「ニコッ」と笑ったのです。
 あの愛嬌のある顔がありました。どうも悪い話ではなさそうである。私はホッと肩をな
で下ろしました。
 「永い間、ご迷惑をおかけしました。今回本社との話が円満に纏まりました。今後一切
熊井さんにご迷惑をかけることはありません!」。「何!それを言いに、わざわざ東京く
んだりまで出てきたのかね?」 「はい!」。
 こうしてこの話は無事決着したのです。恐らく本社は相当のお金を払ったことでしょう。



                                話その2

 これは山形工場の勤務で、副工場長をしていた頃の話である。総務の女性が私のところ
にやってきて言いました。「女性連れの男性二人が、工場長に会いたいと言って来ていま
す。しかし今日は工場長が居られないので、副工場長が会っていただけますか?」。そし
てちょっと戸惑いながら「ちょっと恐そうな人達ですけど?」。「あぁ! いいよ」私は
簡単に引き受けて応接室に入りました。
 そこには黒っぽい服に身を固めた男二人と同伴の女性二人が待っていました。私は最初、
女性連れだし、ヤーさんということはないだろうと高を括っていました。ところが大きい
方の男が話を切り出しました。そして何気なくテーブルの上に出した左手を見ると、小指
の第二関節から先が無いのです。これは間違いないと認めざるを得なくなりました。
 話は非常に紳士的な物言いで始まりました。「一ヶ月後に予定されている市政記念日に
協賛して、我々はK歌手の歌謡ショウを開く。このように市長以下有力者の推薦状も貰っ
ている。ついてはそのチケットを買い取ってほしい。一般の会社には三千円のチケッ卜十
枚・三万円をお願いしているが、お宅の会社は大きいので、倍の六万円をお願いしたい」
というのが趣旨でした。
 「何だ! 意外と少額だな?」とちょっと安心はしたのですが、そう言えば最近、本社
からこのようなヤクザの動きに注意するようにという通達があったのを思い出しました。
しかし今頃思い出しても、もう後の祭りである。その通達では。ヤクザは必ずトップに会
わせろ! と言ってくる。しかし絶対にトップに会わせてはならない。まずは一般社員が
多人数で応対、人数で相手を圧倒し、いか様にも動ける体制を整えて対処すること。相手
の要求を飲んではならないと書いてあったはずでした。
 しかしその時にはもう時既に遅し、完全に最初の砦は突破されていたのです。私が一人
で応対せざるを得ない状況になっていたのでした。
 交渉は長引きました。「市の方に願い出てくれませんか。市からの直接要請であれば、
私も受けることが出来ます」とか、「予算が無い」とか色々と理屈を付けて断ろうとしま
すが、敵はちっとやそっとで引き下がるようなヤワな輩ではありません。膠着状態は続き
ました。交渉相手の大きい男の顔が次第に引きつってくる。そろそろ爆発する頃か? と
思える頃、それまで黙っていたもう一人の男が「まあまあまあ」と割って入ってきました。
どうやらこちらの方が、兄貴分だったのです。今度は兄貴の方との交渉となりました。彼
等の粘りは本当になかなかのものでした。とうとう私の方が焦れてきて、次第に「こりや
ぁ-いつまでたっても決着つかないなぁ。彼等もこれで喰っているんだしなぁ、このくら
いの額なら、出してやってもいいんじゃないかな?」なんて気持ちになってきました。私
はもともとが甘党なんです。
 私は切り出しました。「分かりました。それではこういうことにしましょう。このチケ
ットを会社として買うことは出来ません。しかし私がこれを個人的に買いましょう。但し
半分の三万円分ということにしていただけませんか?」。実を言うとその時、私の財布の
中には六万円が入ってなくて、値切り交渉するしか方法が無かったのです。すると相手の
顔が急に緩んで、「そうですか、いやそれで結構ですよ!」とあっさりと応じてくれたの
です。

 そしてその後は、「いやぁ!さすがに九州男児は気風が良い! 話をしても気持ちが良
いよ」とか何とか、そのヤクザ屋さんに盛んに誉められ・持ち上げられて、なんだか「く
すぐったい」思いをしたのを憶えています。彼等は二台のベンツに乗って、機嫌よく工場
の門を出て行きました。
 ところがである、翌日同じ工場団地内のある社長さんに言われました。「熊井さん、あ
のチケット、ナブコさんが買ったというので我々も仕方なく買わされてしまいましたよ!」。
「ありゃりゃ!」。彼等はあの後、団地内の他の会社を廻って、たっぷりとチヶッ卜を売
りつけて帰って行ったようである。
 この話には後日談がある。彼等は翌年もやって来たのです。ちょっと来てくれとの伝言
に、私が応接に行ってみると、既に総務課長が応対していました。課長は冷や汗をかきな
がら色々抗弁しています。しかしどうしても「お断りしたい」とは、はっきり言い出せず
にいました。やはり膠着状態がしばらく続きました。しかしとうとう課長も決着点を固め
ました。「それでは私が、市の方に問い合わせをします。そちら様の言われる通り、市が
間違いなく推薦をしたという確認が取れれば買い取るということを約束します」。彼はそ
う言って、市に確かめるべく部屋を出て行きました。
 暫くして課長が帰ってきました。市はどう言っている?と聞くと。市の方は「確かに彼
等は推薦状を書いてくれと言ってやって来ました」「それじゃ薦したのですね?」「とこ
ろがその後がはっきりしないんです。むにゃむにゃと言うばかりで、推薦したとも断った
とも言わないんです。結局市は逃げたんですよ」。再び話が元に戻ってしまいました。
 仕様がない! 前回の手をもう一度使おうか? 瞬そういう考えが私の頭をよぎりまし
た。しかしよく考えてみると、その時私の財布の中には二万ちょっとしか入ってないこと
を思い出したのです。前回は三万円出したが、今回は二万円で勘弁してくれなんて言うの
は、いかにも恰好悪くて言えません。それでは私のプライドが許しません。それじや-断
るしか手はないではないか。相手がどう出てくるか予測もつきませんが私は思い切って切
り出しました。「総務課長にも工場での立場というものがあります。今回は申し訳ありま
せんが、勘弁してやってくれませんか?」。すると相手は意外にもあっさりと「分かりま
した。我々もそのようにはっきり言ってもらえば、無理強いするつもりはありません」と
受けてくれたのです。その上で「これは熊井さんに!」と言って高級ウイスキーを一本置
いて帰って行ったのです。
 後で総務課長がボヤクことボヤクこと。「僕は、目の前で、小指の無い手をチラチラさ
れて、冷や汗たらたら。彼等が帰った後も一週間ぐらいは、その辺で待ち伏せされている
んじゃ-ないかと、ピクピクビクビクしていたというのに、熊井さんには、ウィスキーの
お土産付きだもんなぁ! 全くやってられないよ!」。



                                話その3

 この話はやはり山形時代、「話その2」の後のことである。
 我が社は当時本社が神戸にあり、親会社は隣接する鉄鋼会社・K製鋼である。こう言え
ば皆さんは「あっ!あの会社か!」と直ぐにお分かりになるでしょう。我が社の歴代の社
長は、いずれも親会社からの天下りでした。生え抜きの社長は一人も居なかったのです。
 ある日のこと、親会社のM副社長が山形に来られることになりました。その時は昼間の
案内と夜のお付き合いを、私一人でやることになっていました。「話その2」に出てきた
あの総務課長は、彼の父親が親会社の元重役であった関係で、非常にその内部事情に通じ
ていました。
 「熊井さん、充分注意してくださいよ。今度来るM副社長はまるで相撲取りと間違える
くらいの身体をした人で、社内では、あの人に一度逆らったら、二度と浮かびあがれない
と言われるくらい恐い人ですからね!」 彼はそう言って脅してくるのです。当日山形空
港から下りてくるMさんを出迎えました。
 確かに見上げるような巨体の偉丈夫で、そのままヤクザにしても幹部で通りそうな貫禄
と、おっかない顔を持った人でした。ところがいざ話してみると、非常に紳士的で穏やか
な物言いをする人でした。そしてその晩、M副社長は私に色々な興味深い話をしてくれ、
結果的にその日は、私にとって実に有意義な楽しい晩になったのです。
 「我々はナブコさんに、代々の社長を送り込んできました。しかしナブコさんには社内
でも選りすぐりの優秀な人物を送り出してきたんですよ」。彼はそう言って、我が社の歴
代社長の経歴やK製鋼時代のエピソード等を、色々と聞かせてくれたのです。今回はその
中の一人、S社長の話を紹介します。
 S社長と言う人は、東大出の元近衛兵、外見は言うに及ばず、物腰・振る舞いとも、い
かにも紳士の中の紳士という感じで、社内にも女性ファンが沢山居たという人でした。
 彼は僕とは同期でねぇ、非常に優秀で社内でも「絹のハンカチ」と言われて将来を嘱望
されていましたよ。一方僕はこの通り、田舎者でどろくさくてね、彼とは対照的でしょう。
彼と張り合うなんて微塵も考えたことはなかったですよ。 ある時彼が僕の所に来てね、
「Mさん、僕は今度人事部長になることに決まりました」と報告に来たんですよ。僕は心
から「それはおめでとう」と言いましたよ。ところが蓋を開けてみてびっくりしたねえ。
人事部長欄には彼の名前ではなく、僕の名前が載っているんだよ。 僕は直ぐに人事担当
役員のところに確認に行きましたよ。「人事部長はS君じや-ないんですか?」。ところ
がその役員、「間違いなく君だ!頑張れ!」と言うんだよ。その時は何だかすっきりしな
い気分でね、ところが暫くして、はは-ん、これが原因だったのか? と思い当たる事件
が持ち上がったんだよ。そうか! お偉方は、この問題を僕にやらせて、絹のハンカチを
温存しようと考えたのだなと思いましたよ。
 神戸という街は日本最大のヤクザの拠点である。親会社はそういう街で、永い間老舗を
張ってきた会社です。当然ながら昔から何らかの係わり合いがあったのでしょう。
 事件というのはこうです。親会社の役員の一人が、山口組系列の、ある親分とマージャ
ンの約束をしていた。
 ところが突然、極めて重要なお客さんと会わねばならないという事態が発生、その役員
は止むを得ずマーシャンの約束をキャンセルしてしまったのです。「あの野郎!俺の面子
を潰しやがった、もうあの野郎、生かしておかんぞ!」。親分はカンカンに怒りました。
親分が「あの野郎を殺してやる!」と言っている、何とかしないと本当にやりかねません
よという電話が、あちこちから頻々と入ってきたんですよ。

 僕は何とかして詫びを入れようと、色んな手を尽くして会見を申し入れました。しかし
まるで聞いてくれません。事は急を要します。僕は自ら神戸の街に出て、親分を探し回り
ました。
 先ず本宅に行きました。 不在だそうです。それじゃあと、二号さんの所へ行ってみま
した。
 しかしここにも居ません。三号さんの所に行きました。やはりここにも居ません。四号
さんの所に行きました。するとどうもここに居るらしい。若い四号さんが、生まれたばか
りの赤ん坊を抱いて玄関に出てきました。
 親分は「お前なんかに会いたくない、早く帰れ!」と言っていますと言うんです。僕は
覚悟を決めました。そのまま玄関の土間に座り込んで、土下座をしました。
 「私は辞職覚悟でお願いに来ています。会っていただくまでここを動きません」僕はそ
う言って座り込んだのです。まるで時代劇ですねぇ。僕はそのままずっと待ち続けました。
根競べでした。
 そうして夜が明けた頃、とうとう親分も「お前がそこまでするなら」と言って折れてく
れたんです。
 結局は有名な総会屋を間に立てて手打ちをすることになりました。手打ちということは
それ相当の金を払うということですよ。ヤクザというのは面子で生きています。一度面子
を潰されたら、彼等はもうあの世界では生きていけませんからねえ。彼等は面子の為なら
どんな事でもします、それこそ必死ですからねえ。従って手打ちをすると言っても、それ
なりのキチンとした形を取る必要があったんです。
 一般には、ヤクザに対して、正義感で立ち向かえと言います。しかしなかなか難しいで
すねぇ。
 担当の僕自身がやられるというのなら、それは止むを得ません。 仕事ですからねえ。
しかし、まるで関係の無い一般社員がある日いきなり階段から突き落とされる。誰がやっ
たか分からない。
 ヤクザはそういう手を使いますからねぇ。それを考えると、ヤクザと手を切れと言われ
てもねぇ、なかなか踏切れませんでねぇ。とこういう話を聞かゼてくれたのです。
 私はこの話を聞いて、親会社にはこの面での相当のノウハウがあるんだなぁと思いまし
たね。
 「話その1」で、私が窮地に立って悩んでいた時、丁度工場長の交代がありました。私
はあの時親会社から来た新任の工場長に救われました。私はそれまで、あの時の人事は全
くの偶然だと思っていました。しかしMさんの話を聞いて、ひょっとするとあの時は、上
の方がちゃんとその事情を配慮して打った人事だったかもしれないと思えてきたのです。
確認はしてませんけどね。

 こうして思い返してみると、私の人生にも色んなことがありました。しかしよくよく振
り返ってみると、私はどうにもならない障害にぶつかって、破滅にまで追い込まれてしま
ったという経験が無いのです。そういう事態に立ちいたると、不思議とどこからか援助の
手が差し伸べられたり、周りの条件自体が、次第に変化していって、ふと気付いてみると
いつの間にやらその障害をすり抜けてしまっていた、というようなことが多かったような
気がするのです。

 そう考えると、私という男は何と運の良い男でしょうか?そう思わざるを得ないのです。
 私は永い間色んな人に助けられて生きてきたんですよねぇ。そういう意味で、私をずっ
と支えてきてくれてきた、周りの多くの友人知人に対して、心の底から、感謝しなければ
ならないと思っているんです。本当に有難う。

                             【完】

(斜光12号 2007)

181

 

ヒーロー 2006

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月11日(水)00時38分41秒
返信・引用
  .

                  ヒーロー



    著者の高校時代に既にクラス対抗サッカー試合が行われていたのだ。
    サッカーの渡来については詳しいことはわかならにが、野球などと比べる
    とずっと後から人気がでてきたという感想だけはある。私の学生時代にも
    サッカー部はあったが、野球ほどめだたなかった。 スポーツ好きそうな
    著者はきっと素早くサッカーの面白さ(女子からの人気も高い)に目をつ
    けたのだろう。
    長い人生の中で、人はひとつやふたつ「ヒーロ」「ヒロイン」の醍醐味を
    味わったことがあるのだろう。そしてその多くは、案外偶然のなせるわざ
    なのだ。それでも著者のいうように「ヒーローはヒーロー」だ。その記憶
    は人生のかけがえのない宝物になる。(編集部)





 あれは高校三年の冬のことである。西校舎のグランドではサッカーの試合が行われてい
た。男性クラス十クラスによる、トーナメント方式のクラス対抗戦である。
 我が十四組は準優勝戦まで駒を進めていた(菅君は優勝戦だったと言うが、今ではどち
らだったかはっきりしない、相手のクラスが何組だったかも定かではない)。確か試合時
間は四十五分だったと思うが、その四十五分が過ぎようとするまさに終了間際、我々は敵
にゴールネットを揺らされた。我々はその時「いや-、もうこれで負けた!」と思い、敵
は「これで勝った!」と思ったであろう。
 しかし時間は後二~三分残っているということであった。ボールは中央に戻され、我が
サイドのボールで試合は再開された。敵も味方ももう試合は終わったと思っていたので、
お互いやる気は失せていた。右翼の先頭にいた僕にボールが廻ってきた。仕方なく気を取
り直し、僕はドリブルしながら少し進んだ。しかし前は敵ばかり、ズラリと並んで壁をつ
くっている。誰かにパスしようと周りを見回したが、皆勝負をギブアップしているのか味
方は誰も付いてきていない。
 渡そうにも誰にも渡せなかったのである。ゴールは遠いし時間は残ってない。
「え-い、ままよ!」、とりあえずボールを敵ゴール近くに蹴り込み、走りこんでうまく
ボールにぶつかれば最後のシュートチャンスがあるかもしれない。極めて確率は薄いがも
うその手しか残ってなかったのである。
 僕はゴールの方向に向かって思いっきりボールを蹴った。ボールは敵の壁の頭を越えて
見えなくなった。敵の間をすり抜け、少しでも敵ゴールに近づこうとダッシュしようとし
た途端、周りの観客から「ワーッ」という歓声が起こった。僕はいったい何が起こったの
か????。

 僕は四年ほど前に九州に帰った。佐賀では菅・中原・深川君達が、十四組のメンバー中
心の大歓迎会を開いてくれた。とにかく卒業以来初めて顔を合わせるというメンバーが多
かったから、色々な思い出話に花が咲いた。その時菅君がこの時のことを思い出したので
ある。「あの校内サッカー試合では、熊井君の活躍で優勝したねえ!」。
「流石は運動神経抜群だった菅君、自分がヒーローになった事のみならず、他人がヒーロ
ーになった事まで憶えている!」と感心するとともに、あの時の思い出が明瞭に蘇ったの
である。

 どっと沸いた歓声の中から「入った!」「入った!」という声が聞こえてきた。
「えぇ!」僕は驚いた。自分でも信じられないことが起こったのである。距離は充分離れ
ていたし、強烈なシュートでもなく、山なりのボール。キーパーがボールさえ見ていたら
充分捉えることの出来るボールであったはずである。「まさか?」しかしまごうかたない
事実であった。終了の笛が鳴った。本当にギリギリのところで我々はタイにしたのである。
決着はピーケー戦で決めることとなる。「しめた!」「これでいけるぞ!」と思った。
ピーケー戦となれば、我がゴールキーパーはバレー部の御厨勝則君。バレー部のエースで
ある。長い足・長い手を使って飛んでくるボールを叩くのはお手の物である。
「勝てるぞ!」我々は勇躍した。
 思ったとおりであった、御厨君は敵のキックを悉く止めて、我々は思いもよらない大逆
転劇を演じたのである。 「勝った!」「やったぞ!」その場は再び大歓声と興奮の坩堝
(るつぼ)と化した。

 僕はゆっくりと手足を洗い上機嫌で教室に帰った。教室の入り口の引き戸を引いた途端
びっくりした。僕はまたまた歓声と大拍手に迎えられたのである。全員の視線が僕に集中
していた。立ち上がって拍手する者・万歳する者・握手を求める者。瞬間、僕は誇らしい
気持ちと同時にちょっと気恥ずかしい複雑な気持ちに襲われた。とにかくあのシュートは
何もゴールを狙って決めたものでも何でもなく、ただただゴールキーパーの虚を突いた、
単なる偶然・ラッキーに過ぎなかったからである。
 しかしヒーローはヒーローである。あの時は全くいい気分にさせて貰った。たっぷりと
クラスメイト達に祝福される幸福に酔いしれたのである。あの逆転劇は僕の高校三年最高
の楽しい思い出である。

(斜光11号 2006)

164

 

おふくろ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月 4日(水)08時21分36秒
返信・引用
  .

                おふくろ



     戦後10年、20年は日本中まだまだ貧乏だった。小さな子供達に
     三食食べさせ、これからは「学問だ」とばかりにせっせと学校に通
     わせ、おまけに内職までどこからか探しだして昼となく夜となく働
     きづめだったお母さん達の姿は、著者が描く母親像と重なります。
     東八郎が歌った「おふくろ」の歌詞にからめて寝たきりの母を思う
     息子の思い、私の兄もきっと似たようなものでしょう。それにして
     も、何時の時代も親爺の存在はちょっと陰が薄い。昭和の我が家を
     思い出しました。(編集部)




 今、車の中である。カセットを聞きながらドライブをしている。 広々とした田園の中
を一本道が延びていて、遠くの山並には少し雪が残っている。春の陽気に浮かれてハミン
グをしながら曲を聴いている。今は亡き喜劇俳優・東八郎の「おふくろ」という曲である。

   ♪ 子供の頃には 怖かった
     その目も 今は笑ってる
     数え切れない 顔のしわ
     何本 俺が付けたろか
     あぁ-おふくろ おふくろよ!
     苦労かけたね。

     背負って貰った この背中
     ほんとに 今は小さくて
     肩を叩けば 折れそうで
     涙がひとつ 落ちてきた
     あぁ-おふくろ おふくろよ!
          苦労かけたね。

              (省略)

  (セリフ)  おふくろ ありがとう 長生きしろよ!

 突然胸が熱くなった。九州で寝たきりになっている僕のおふくろと重なって、歌詞のひ
とこと、ひとことが胸を突くのである。もういけない! 涙は出てくる。鼻水は止まらな
い。誰にも見られてないというのが幸いであった。

 おふくろは、九州の郷里の、介護老人ホームのべッドに横たわったままである。
 今はもうすっかり動けなくなってしまっている。

   ♪ 子供の頃には 怖かった

 おふくろは怖くはなかった。逆に本当にやさしかった。当時は母親というのはそんなも
ので、どこのおふくろも同じだと思っていた。それが日常であったから分からなかっただ
けであるが。
 今から考えてみると本当にやさしかったのである。「斜光」第五号の「あの夏の日の思
い出」でも少し触れているが、おふくろに激しく怒られ殴られたのは、あの小学校四年生
の夏、一回きりである。どう思い返してみても、あの日以外に激しく怒られた記憶はない。
 小さい頃、僕達は本当によく遊んだ。学校から帰ると、すぐにカバンを放り投げて外に
飛び出した。そのまま暗くなり、腹が減るまで家には帰らなかった。夏などはそれこそ全
身真っ黒で、学校でもくろんぼ大会等があった。あの頃「少しは勉強したら?」とおふく
ろに何度か言われた記憶はある。しかしそれ以上の意見をされたという記憶はない。
 どちらかというと口の重たいおふくろは、親父に対しても逆らうということがなかった。
二人が言い争うという姿は見たことがなかったし、何でも親父の言うとおりであった。も
し逆らおうとしても、口の達者な親父にかかっては、すぐに言い負かされてしまっただろ
う。そういうところは、僕はおふくろ似であろう。中学・高校時代には「何であんなこと
言われて黙っているんだよ! もっと親父に言い返せよ!」とケツを叩いていたくらいで
ある。いずれにしても外から見ていて、歯噛みするくらい従順であった。
 その上におふくろは働き者であった。黙々とよく働いてくれた。それなのに全く愚痴を
言わない。他人の陰口なども一切言わない人だった。今思い返してみると、本当に典型的
な昔風の女性であった。
 息子にとっては、自分の母親が女性像の原形となる。小さい頃はそのような自分の母親
を見て、女性とはこんなものだと思っていた。
 ところが俺の嫁さん! この母親に比べてことごとく対照的である。何をやっても長続
きしない。三日坊主である。それに愚痴が多くて小うるさい。大きなところで抜けている
くせに、細かなことをしつこくグチャグチャ言う。自分のことは棚に上げて、他人の批判
をする。僕が一番嫌いなのは片付けが出来ないことである。最近でこそ「片付けられない
女」が話題になっているが、わが家はもう三十年も前からそうであった。
結婚した当初は「良い嫁さんを貰った」と喜んでいた。しかし次第に化けの皮が剥がれ、
地が出てくると、変われば変わるものである。
 家の嫁さん、確かに「角隠し」を被って嫁に来た角隠し! 昔の人は何と奥深い人生の
教訓を残しているのであろうか?
 当初は初心(うぶ)だった僕も、次第に春秋を重ね、女性というものが段々分かってく
ると、どうも家の嫁さんだけが特殊なわけでなく、大体、女性とはそういうものであるら
しい。
 そうすると僕は、極めて稀有な女性を母親に持ったことになるのである。

     ♪ その目も 今は笑ってる
       数え切れない 顔の皺
       何本俺が 付けたろか
       ああIおふくろ おふくろよ!
       苦労かけたね。

 息子にとって親父とは、生き方を競うライバルである。中学・高校時代、いわゆる思春
期の頃、僕は親父が嫌いで常に反発していた。
 親父が戦争から復員して帰って来たとき、おふくろと僕は本家に厄介になっていた。見
知らぬ男のギラギラと刺すように鋭いあの目を初めて見たとき、僕は「ぞっ」とするよう
な恐怖を感じた。それまで見てきたどんな大人にも無い、何とも言えない恐ろしい目だっ
た。
 「あれがお前の親父たい」と言われたとき、僕は驚いて声も出なかった。薄汚れた兵隊
服で、結びつけた鍋・飯盒(はんごう)がぶらぶらと揺れる大きなリュックを背負った異
様な親父のその姿と、あの恐ろしい目が、僕の人生の最初の記憶となっている。三歳か四
歳の時であったろう。それ以来ずっと親父は、近寄りがたい怖い存在となった。
 戦後しばらく本家に厄介になっていたわが一家は、「いつまでもそういうわけににはい
かない」というので、本家を出て独立。親父は屋台で食料品を売り歩く商売を始めた。
当時は屋根付きの屋台は斬新だったのだろう。親父の屋台が近づくと「あっ、デパートが
来た」と言われて結構人気があった。
 そして僕が五年生になったとき、一家は隣村から大川町に引っ越した。その新しい家に
は食料品の店を構えた。そして親父が行商。お袋が家事と店番を担当するということにな
ったのである。
 店番といっても大変である。当時は買い物といってもまとめ買いなどしない、僅かな一
品を買いに走ってくる客ばかりであり、それも掛け売りである。当時は日曜休日などなし
食事中だろうが店を閉めた後だろうが、ドンドンと戸を叩いて「すみません! あれくだ
さい」という具合であったから、おふくろは大変だった。まともに座って食事もできなか
ったし、洗濯ものなどは夜、食事を片付けた後でゴトゴトやっていた。それも年がら年中
休みなしである。僕は当時、「おふくろは一体いつ寝ているんだろう?」というのが永い
間の疑問であった。とにかく僕が起きたときには確実に朝ご飯が出来ていたし、晩眠くな
って寝るときは、おふくろはいつも後片付けをやったり、拭き掃除をしていた。
 「あっ、おふくろはこんな時間に寝るのか?」と初めて分かったのは、僕が「そろそろ
大学受験勉強でもしなくちゃ!」と夜に勉強をするようになり、たまたま遅くまで勉強で
きたときであるから、あれは高校二年生の頃のことであったろう。おふくろは本当によく
働いてくれた。それも愚痴ひとつ言わないで。年がら年中休みなし、楽しみ事もあの頃は
ひとつもなかったはずである。
 それに比べて親父は行商から帰って来ると、自分の仕事はもう終わったという顔で、夕
方からすぐ酒を飲み始めた。楽しい酒ならまだ良い。愚痴や他人の批判。ねちねちとした
お説教。それも子供を育てるのに、さも自分一人が苦労しているような物言いに、僕は我
慢ならなかった。僕はいつも「何言うとるか! 自分は酒ばかり飲んでいて、苦労してい
るのはおふくろの方だ」と思っていた。他人批判やねちねちした愚痴が出てくると、僕は
「そんなのは男のすることではない。僕は絶対こんな男にはならない!」と思っていた。
親父が酒を飲み始めると、僕は夕食を早めに済まし、さっさと二階に逃げるか、プイと外
に遊びに出るようになっていた。
 結局、親父との確執は大学時代になっても溶けなかった。大学を卒業するという間際、
僕は親父に宣言した。「大学まで出してもらったからもう十分。これからは自分ひとりで
やっていく。親の世話には一切ならない。 そして将来、親父と一緒に暮らすつもりもな
い!」。そしてその後、ず-っとその姿勢を貫いてきたのである。
 あの宣言は親父に対するものであったが、 結局はおふくろに対する宣言でもあった。
あのときおふくろは何も言わなかったが、恐らくおふくろには相当なショックであったろ
う。そして心臓をえぐるような悲しい思いをさせたに違いない。僕はあのとき、何と残酷
な言葉を浴びせてしまったのであろうか! おふくろにはず-っと感謝していたというの
に!。
 戦後食糧難の時代に、働いて働いて、やっと育て上げた長男は、大学を出た途端に決別
宣言をして出て行ってしまったのである。

     ♪ 背負ってもらった この背中
       本当に今は 小さくて
       肩を叩けば 折れそうで
       涙がひとつ 落ちてきた
       ああ-おふくろ おふくろよ
       苦労かけたね。

 おふくろは働き詰めだった分、人より早く腰を痛め、べッドに横たわるようになった。
どちらかというと背が高くスラリとしていたおふくろは、今では毎年、見るたびに小さく
なっていく。
 親父が亡くなったとき、僕はおふくろに問うた。「横須賀に来んかね?」。 すると、
「知らん人ばかりの所には行きとうなか!」とにべもなく拒絶された。
 会社で、無理をすればなんとか休暇が取れそうになった七、八年前。「妹も連れて、雲
仙にでも行って四、五日温泉にゆっくり浸かりに行こうか?」と誘った。当然喜んでくれ
るとばかり思っていたのに、なかなか返事が来ない。おかしいなと思っていたら、妹から
電話があった。「ばあちゃんは、雲仙に誘われとるばってん、どうしても行かんといかん
やろか? と言うとらすよ」「もう腰も痛いし、目もあまり見えんようになったので、も
う家を出とうなかとやろ!」。「えっ! しまったぁ!」。これから少しでもお返ししよ
うと思っていたのに、既に遅れてしまっていたのである。

 おふくろの寝顔を眺めていると、後悔ぽかりがこみ上げてくる。
 彼女は最近、かなりボケてきたようである。夢の中に居るのか? 昔のことを思い出し
ているのか? ときどき意味不明のことを言うそうである。
 その寝顔を見ながら、彼女の人生を思いやる。いったい彼女には自分の人生を楽しむと
いうことがあったのだろうか? 自分は今、非常に恵まれている。人生を楽しんでいる。
それに引き換え、彼女にそのようなときがあったとはどうしても思えないのである。いっ
たい彼女白身、自分の人生をどのように思っているのだろうか? 今さら僕にそれを問う
てみる勇気はない。せめて今見ている夢の中で、自分の人生は幸福であったと思えるよう
な、そんな夢を見てくれと願うばかりである。
 「おふくろ! 苦労かけたね。本当にありがとう!」。

(斜光10号 2005)

154

 

失敗談

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月30日(金)23時24分8秒
返信・引用 編集済
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                  失敗談




    著者は第二次世界大戦終わりに生まれているから、戦後次々と生まれた
    いわゆる団塊の世代の一歩前のようだ。戦争から帰ってきて、さあこれ
    から家族の、日本の、再出発だとばかりに一所懸命働く親爺と、そんな
    父親を支えてる母親の背中を間近に見て育ち、親爺達の日本再建の努力
    を受け止め、次に繋げた世代ともいえるのだろう。この作品にはそんな
    世代の男が必死で働く様子がよく出ている。「人買いの熊」と言わしめ
    るだけの信念や強さや責任感があるのだ(編集部)




 この話はもう二十五年以上も前のことになるかなあ。自動車のブレーキ部品を作ってい
たわが社の横須賀工場で、生産管理課長をやっていた頃の話である。
 生産管理の仕事というのは大きく分けて二つある。ひとつはいろいろな自動車メーカー
から日々入ってくるオーダーに対し、納期通りにキチンと納入できるよう、工場の各製造
部門の生産をコントロールすること。もうひとつは、自動車のモデルチェンジやマイナー
チェンジに合わせて立ち上がる新製品の、技術部門・品質保証部門を含めた各部門の生産
準備状況を調整することである。
 その頃の自動車業界では「トヨタのかんばん方式」という生産管理システムが世評に上
り、他の自動車メーカー各社が競ってその真似を始めた頃であった。「かんばん方式」に
ついては、充分ご存知の諸兄が沢山居られることだろうが。簡単に説明をいれる。
 「かんばん方式」の第一の原則に「平準化生産」というのがある。平準化とは、自動車
の最終製造工程・組 み立てラインで流れる各車種の組み立て順序を、部品展開されたそ
の構成部品の所要ピッチが、一定になるような組み合わせにするというものである。
 例えばある組み立てラインで、AとBという車種の生産量が同じなら、「ABABAB
……」という順序で流される。AとBの生産量が二対一なら、「AABAABAAB……」
という順序で組み合わされる。そうすればA車・B車に使われる特殊部品でも、一定間隔
(同一タクト)でラインに投入されれば間に合うということになる。
 「一個流し」という原則もある。ある部品の製造に五台の機械が使われるとすると、そ
れぞれの製造タクトを同一にするのである。そうすれば、機械と機械との間に仕掛かりが
溜まるということもなく、一個ずつ整斉と流れる。このような理論で、機械と機械の間は
勿論、工程と工程、自動車メーカーと部品メーカー、更には二次下請け・三次下請けとの
間をこのように繋いでいくことによって、企業群として仕掛かりや在庫を持たない合理的
な生産システムを目指すのである。 この工程間・工場間・企業間を繋ぐ情報手段として
「かんばん」という道具が使われるので「かんばん方式」と言われるのである。
 全ての製品・部品・材料に「かんばん」が付いており、使われると「かんばん」が外さ
れその「空かんばん」が前工程にリターンされる、前工程はその「空かんばん」の分だけ
生産して前の工程に供給することが出来る。「空かんばん」の表示量以上に作ることは禁
じられている。このように引き取り方式で、後ろの工程が使った分だけの「空かんばん」
によってその前の工程に生産指示が出、材料が使用され。その材料に付いていた「かんば
ん」が「空かんばん」として更にその前の工程に生産指示を出す。こうして前の工程、前
の工程へと生産指示が連鎖していくというのが「かんばん方式」の仕組みなのである。
 ところがこの連綿たる長い繋がりの中で、機械が一台でも故障したり、不良品が出たり
すると途端に「かんぱん」が回らなくなり、前後の工程は勿論、全ラインが止まってしま
う。この同一タクトを維持するために、絶対故障をさせない、不良は絶対作らないという
生産ラインを作っておくことが要求される。常時この緊張状態を全関連企棄に張り巡らし、
常にライン改善を要求するという仕掛けがこの「かんぱんシステム」の本質であり、トヨ
タがこれだけの大組織でありながら、官僚主義にも陥らず長年利益を出し続けている原因
であろうと思われる。
 以上で、我々部品メーカーが、未納を出す・不良を出すということがどういうことであ
るか、大体想像出来ると思う。


 私の前任者の時代。秋のレクレーションでバス五、六台を連ねての工場の全休旅行、夜
の大宴会の真最中に、会社から緊急の電話がかかってきた。「お客さんでクレーム発生、
至急帰れ!」。バスに関係者数十人を乗せて工場に横づけ。真夜中に組み立てラインに並
ばせるということがあったそうである。
 私も、これはどうにもならんと判断して、日産の追浜工場に納期変更のお願いをしたこ
とがある。そうしたら「何を言っとるんですか! この工場のラインを十分間止めると約
六百万円かかります。熊井さん、あなたこれを補償してくれますか?」と言われた。
 とにかく、客先ラインを止めるということになれば、まず一人目に、出来たてほやほや
の部品を数個抱えて走らせるのである。「飛行機・新幹線どちらでも早いほうを使え、駅
からはタクシーで走れ!」次の数個が出来ると、二人目を走らせる。更に三人目、四人目
を走らせる。我々はこうしてラインを繋ぐのである。


 わが横須賀工場は、当時その理想にはまだかなりの距離があった。不良は作るし、機械
は止まる。特に購入部品のメーカーの口ットアウト率は結構高かったものだから、ある程
度の在庫は持つという前提に立った。第一、お客さんからの納入指示自体が、平準化され
た品種は数えるほど、殆どが結構バラつくのだから。しかしトヨタの指導では、そんな甘
いことは認められなかったそうだ。
 生産管理では毎朝「ヤリジマイ リスト」というのを作っていた。これは翌日納期のオ
ーダーを製品在庫と引き当てて、不足の出る製品名・不足数をリストにしたもの。いわば、
このリストを今日中に完全に消化しなければ、家には帰れませんというものだ。
 私はこれを鋳造・機械加工・組立と購入部品担当三人に追っかけさせた。非常に後ろ向
きの方法なのだが、最後の最後、組み立て完成まで見届けていないと、とんでもないこと
に足を掬われることがあるからである。「部品が入りました。A製品は二時には組めるで
しょう」と言うんで安心していると、組み立て完成の報告が何時まで待っても上がってこ
ない。「どうしたんだ!」「受け入れ検査で口ットアウトです、今業者を呼んでいます」。
「B製品のシリンダーが無いと言っていたがどうなった?」「今加工にはいりました、大
丈夫です」。暫くして「機械が故障しました!」「修理はどのくらいかかるか?」「午後
五時ぐらいまでかかるそうです、残業から組むしかありません!」組み立て担当に残業で
組むように指示を出しておく。定時近くなって組み立て担当が顔を見せる。「課長! 組
み立て職場長が残業までも待てるか! 残業オーバー者が続出してるんだ、今すぐシリン
ダーを持ってこいと怒鳴っています。昨日も一昨日も同じことを言ったものですから、臍
を曲げてるんです。課長、何とかしてください。もう僕の言うことを聞いてくれません!」
私はじっとその担当の顔を観察する。ここで助け舟をださないとこの男は潰れる、と判断
すると「わかった!」と言う。神経の繊細な男は、すぐにノイローゼになるのだ。そうい
う男を何人も見てきたのだから。
 そこで私は職場長自身を説得するか? その上の担当課長を説得するか? 組み立て者
を間接部門から引っ張り出して組ませるか? 判断しなくてはならない。
 間接、特に製品をよく知っている技術部門や品質保証部門から、組み立て者を引っ張り
出すという手はよく使った。しかしすごく嫌がられるのだ。それはそうだろう、自分も忙
しいのに、終業間際になって突然「残業で組み立て応援しろ!」と言われるのだから。
そこで私に付いた渾名が「人買いの熊」。
 それでも技術部長が「熊さんが言ってきてるんだから手伝ってやれ!」とよく助け舟を
出してくれた。しかし、たび重なるとそうもいかない。私が技術部の扉を開けただけで、
皆目を合わせないようにして「ふわぁ」と立ち上がり、どこかへ消えてしまうのである。
 とにかくこのように、いつも戦場のような職場で、毎日毎日が緊張のしっぱなしだった。


 ある日のこと、例によって三菱自動車納めのマスターシリンダーを、持って走らざるを
得ないということになった。届け先は岡山県の水島。誰を走らせるか? いろいろ人選す
るが、皆忙しくて誰も見つかりませんと担当者は言う。 私は渋面を作って言った。
「それじや-仕方がない、俺が行こう!」
 しかし内心では「しめしめ! 今日はどうしてもという仕事は残ってない。こんな会社
に遅くまで居るよりよっぽど気楽だ。シリンダーを届けるだけ、まぁ、子供の使いみたい
なもんだ」ウッヒッヒとほくそえみながら。私は新幹線で名古屋まで行き、後は営業に持
って走って貰うという段取りをつけて会社を出た。右手に自分のカバン、左手にはダンボ
ール詰めしたマスターシリンダー。 「まぁ ちょっと重いが我慢しよう」「横浜で推理
小説でも買って気楽に行こうか!」
 私は横浜で降りて小説を買い、普段は京浜急行で品川へ行き、山手線に乗り換えて東京
へ行くのだが、その日は何となく乗り換えなしの横須賀線に乗った。当時の横須賀線は東
京が終点であり、久里浜と東京の折り返し運転だったはずだ。
 私は電車に乗り込み、シリンダーの入ったダンボールを網棚に載せ、早速推理小説を読
み始めた。私はすぐに小説の世界に入りこんだ。私はそうなると、時間も周りの音も聞こ
えなくなる。特に今日は子供の使いをするだけ、すっかり安心しきって息詰まるようなサ
スペンスの世界に埋没していた。もうそろそろ何処を走ってるかチエックしなくちゃ-、
と意識の隅で思い始めていた頃、マイクで何か言っている。 「…………」「………」
「ン…」「東京、東京!」「えっ! 東京!」電車は既に止まっている。私は突然眠りか
ら起こされたという状態で、慌てて両手に物を持ち電車を飛び降りた。階段を下り、新幹
線の改札が見えるところまで歩いて「ハッ!」とした。片手が妙に軽いのである。 私は
両手を見下ろして愕然とした。持っているのは右手にカバン、左手には小説のみ! 肝心
のシリンダーの入ったダンボールは網棚に置き忘れてきたのだ。
 「しまった!」私は脱兎の如く取って返してホームの階段を駆け上った。
 「助かった!」電車はホームにまだ居た。私は座ったと思しき車両に飛び込んで網棚を
捜した。「無い!」「隣の車両だったか?」次の車両に飛び込む。「無い!」おかしい。
「もう一つ隣か?」その時、発車のベルが鳴り出した。「リリリリリ……」私はベルの音
を聞きながら、あっちでもないこっちでもないと走り回った。とうとうベルが鳴り止んだ。
 私は諦めて、ギリギリのところでホームに飛び降りた。目の前で扉がパタンと閉まる。
「プーン」。電車は発車の合図とともに動きだした。目の前で車窓が流れ出し、次第にス
ピードを増していく。そして最後の車両が目の前を通り過ぎ、電車の後ろ姿が重い未練を
引きずって次第に視界から消えていった。「あぁ! 俺は何てことをしでかしたんだ!」
「どうしよう!」私は暫く呆然とそこに立ちつくしていた。
 カンカンに怒っている工場長の顔が浮かぶ。「今更、どの顔下げて工場に帰れるんだ!」
「こんな子供の使いみたいなものを、それも責任者であるこの俺がやり損なうなんて!」
私はそのまま何処かへ逃げ出したい気持ちだった。もうその頃は、あたりは暗くなりかけ
ていた。このまま帰ると、工場に着くのが午後八時頃になるだろう。それから帰宅した組
み立ての連中に電話をしてかき集め、組み立てラインに並ばせる必要がある。
 「もう皆晩酌をしながら一杯機嫌だろうなあ!」カンカンに怒った顔、あきれた顔、蔑
んだ顔、顔顔顔……。何とか組み上げて車で東名を走らせるとして、「それでも三菱のラ
インを少し止めるかもしれないなあ?」「本当に困ったなあ!」


 しかし、いくら逡巡していても仕方がない。どんなに恥ずかしくてもやらざるを得ない
ではないか。「よ-し! やろう!」。そう腹を決めた。そうするとちょっと冷静になっ
てきた。「待てよ! 折り返し運転とはいえ東京は終着駅、忘れ物の点検ぐらいはやるは
ずではないか?」私はすぐに遺失物係りの所に確認に行った。「それらしいものは届いて
いませんねぇ」。「やはり駄目か!」「あぁ、ホームの端に駅員の休憩所があります。
そこに時々忘れ物が仮置きされていることがありますよ。 そこへ行ってみなさい」。
「最後の望みか? あまり期待は出来ないが、もしそこに無かったらはっきりと腹を括っ
て帰るしかない!」そう自分に言い聞かせて、横須賀線のホームに再び向かった。
 ホームに上るともう辺りは真っ暗で、人っ子一人見えない。見渡すと遠くのホームの端
っこに小さな小屋が立っており、四角い小窓から、二〇ワットぐらいの裸電球の暗い光が
斜めに流れ出ている。私は暗い寂しいホームを歩いて小屋に近づいた。板戸を叩いた。誰
も居ないようである。私は勝手にガタピシの板戸を開けた。中に入った。衝立があった。
 衝立をまわった。「あった!」紛れもない、あの懐かしい私のダンボールが、裸電球の
下で、まるでスポットライトを浴びている如く、古びた木机の上にチョコンと乗っかって
いたのだ。「あった!・」「あった!」
 私はその時、それこそ全身から喜びが湧き上がるのを感じた。生涯のうちで一番嬉しか
ったことといえば、あの時のことであったと言えるだろう。


 もう二十数年も前の話だが、もしあの時、山手線にでも乗っていたとしたら、私のダン
ボールは東京をグルグル回っていただろうか? 今でもそう考えただけで「ゾッ」とする。

(斜光9号 2004)

137

 

胸が痛む

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月29日(木)08時34分54秒
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                胸が痛む




   川原コーチはどこか著者によく似ています。古武士のような一本筋が通ったよ
   うなところが。 町内会の会長は、世代交代をしているのかもしれません。
   川原氏、そして著者のことも語り継がれ、記憶の中に残っていくことでしょう。
   (編集部)




 長男を町内の少年ソフトボールチームに入れたのは、彼が小学校五年生の時だった。
横須賀の桜が丘という新興団地に居を定めて間も無い頃である。まわりは同世代のサラリ
ーマンばかりである。父親は会社との間を往復するばかりで、男親同士の交流は何も無か
ったのであるが、長男が友達に誘われてソフトボールをやりたいと言い出したのである。
 私はもともとスポーツ好きである。息子がどんな練習をしているのか? 息子の運動神
経はどんなものなのか? 興味津々、私はちょくちょく練習を覗きに行くようになった。
 当時横須賀には、少年ソフトボールチームが百二十チームぐらいあり、ソフトボール熱
は極めて盛んで、優勝チームは神奈川県代表になるくらいの実力を誇っていた。我が桜が
丘チームはというと、やっとチーム編成が出来る程度の小人数、中には身体よりグローブ
のほうが大きいんじゃないかと思える様なちっちゃな低学年の子が混ざっていて、新人部
員で初めてソフトをやる私の息子が、即正選手になれるという弱小チームであった。
 ところが、元日産自動車の野球部出身の川原さんをコーチに迎えてから、チームは急速
に変貌を遂げることとなる。
 先ず躾から始まった。練習でも試合でも、グランドに入る時と出る時、先ず全員が一列
に整列、「お願いします!」と一礼するよう指導された。ウォーミングアップ・柔軟体操
等も我々が初めて見るような新しい方法が取り入れられ、プロの野球選手達がやっている
ような指導方法が採られたのである。
 トレーニングは厳しく、ミーティングは理論的で分かり易く、チームは急速に力をつけ
ていった。夫々の親父たちが練習の手伝いに集まるようになり、母親達が順番に飲み物や
食べ物を作ってチームに付いて回るようになり、まわりの町内同様、親子で熱気ムンムン
のチームに変わっていったのである。
(この親父達が.後に「成人ソフトチーム」の母体となり、更には自治会活動に関わるよ
うになるのである)

 暑い日も寒い日も、風が吹こうが雨が降ろうが、練習はグランドさえ使える状態であれ
ば、休むことなく続けられた。そして練習の終盤、数週間前からではあるが、ノックを受
ける守備練習中、チームの中から一人が選ばれて、百本ノックを受けることになった。
 これはきつい! 私も一度受けたが、十本ぐらいで早くも足腰がフラフラになり、二十
本に届く前には、私はグランドに大の字になって倒れていたぐらいである。
 誰がその日の餌食になるかは川原コーチの胸先三寸、そしてその日は私の息子が選ばれ
た。「そ-らどうした!」「取れるぞ!」「跳びつけ!」。息子は右に左に走り廻されて
いる。

 三十本。息子の顔はもう真っ赤に上気している。「どうした、どうした!」「そんなも
のが取れんのか!」罵声が飛ぶ。息子は必死でグラブを差出すが、ボールは無情にもその
下を掻い潜っていきます。
 五十本。息子は大きく胸をはずませ、顔が苦痛にゆがみます。見ているこちらの胸がド
キドキしてきました。先週餌食になった小太りの政雄は、途中で動けなくなり、地べたに
座り込んでとうとう泣き出してしまいました。
 七十本。もう息子はボールに追いつけません。ボールの遥か手前で倒れこむ、すると今
度はその顔めがけてボールが飛んできます。仲間達が真剣な顔で息子の周りを取り囲みま
した。「熊井頑張れ!」「もうちょっとだ!」「頑張れ熊井!」必死の声がかかります。
「いい眺めじやないか!」まさに今、チーム全員が一体となっている瞬間。息子は今チー
ムプレーの一番すばらしい部分を体験しているはずである。私の胸は早鐘のように嗚って
います。
 それにしても親としては、息子の顔が苦痛に歪むのを見ているのはなかなか辛いのであ
る。
 「何を言うか! お前は親として、自分の息子に一度でもこういう試練を与えてやった
ことがあるのか? 川原さんはお前に代わって、今貴重な体験をさせてくれているんだ!」
 「あっ!」その時私の胸に痛みが走りました。心臓付近にまぎれもない物理的痛みが走
ったのです。その時は「俺の心臓はどっか悪いのかな?」と心配しました。しかしその後
二十年、私の心臓は何事も無いのです。「胸が痛む」という言葉は、それ迄は「ひどく心
配することだ」と単に理解していました。しかしそうじゃないんです。心配が高じると、
本当に胸が痛くなるものなのです。私はあの時初めて実体験したのです。「昔の人が言っ
た事」というのは、何と奥深く含蓄のあることかと、ほとほと感じ入っているのです。ど
うです! どなたか同じ経験をされた方は居られませんか?


その後(一)
 その後我が町内の少年ソフトボールチームは、御多分に洩れず少子化という時代の波に
晒されて、とっくに消滅してしまいました。今では地元の望洋小学校・学区の数町内合同
チームが編成されており、その中には女の子が混じっているのである。今昔の感深し!
 それでも横須賀市のソフトボール熱は今でも健在である。横須賀代表チームは神奈川県
大会ではここ数年連続優勝しており、全国大会に進んでの成績は二位か三位が続き、どう
しても曖勝できないという状態が続いていた。が、去年やっと悲願の優勝を果たしたので
ある。その瞬問の感動は涙々のすばらしい光景だったと聞く。
 我が望洋学区には情熱的で優秀な指導者が輩出しており、その関係で横須賀代表チーム
の練習は望洋小学校で行われている。土・日曜日の休日ともなると、遠くから歓声や黄色
い声が。日中聞こえてくるのである。

その後(二)
 当時のハードトレーニングに耐えた我が息子は、俄然しっかりしてきて今では立派な社
会人に成長しました。と言いたいところなれど、相変わらず「ボーッ」としていて頼り無
い。当時の教育効果があったか否かは不明である。併しながら、彼の部屋のチームメイト
との合同写真がセピア色になって今だに飾ってあるところをみると、何物かを彼に残して
くれたのは問違いないようである。

その後(三)
 川原コーチのその後である。私が山形勤務を終えて横須賀に帰ってみると、町内では次
期町内会長が決まらず揉めに揉めている最中であった。七年務めた現会長が高齢と体調を
理由に、今年は絶対に辞めると言い張っているのに対し、会長候補が皆逃げ回って決まら
ないのである。私は十年程前に副会長を勤めており、殊更目立たぬように身を縮めていた
のであるが、とうとう勧誘の手が我が家に回ってきた。会社から帰って寛いでいる頃を見
計らって、毎晩毎晩大勢で押し掛けてくるのである。それも攻め手の女性軍は毎晩メンバ
ーを交代制にしての波状攻撃である。家内は絶対反対。息子達も「どうせ完全なボランテ
ィアなんだろう。まだ会社勤めもしているんだし親父止めとけ!」とこうである。
 しかしながら説得団のあまりの熱意としつこさに、次第に「俺の人生、自分白身の為だ
けに生きた人生なんて、あまりに寂し過ぎるのではないか? 少しは他人様のお役に立つ
ことをしないと、俺がこの世に生きた意味が無いのではないか?」と大げさに考えるよう
になってしまったのである。
 「条件があります。以下の条件を受け入れてくれれば引き受けましょう」と。とうとう
そう言ってしまったのです。
 一つ、私は二年しかやりません。二つ、二年後の次期会長の決定には私は関わりません。
三つ、それを保証する為に私が推薦する三名を顧問にすること。その顧問とは次期会長推
薦委員会のメンバーとなり、どうしても引き受け手が無い時は、三人のうちの一人が会長
職を引き受ける覚悟をしておくこと。という条件で、「その三名を説得できたら引き受け
ます」と言ったのである。その三名は二年後には定年退職していることを計算に入れて選
考し、その中の一人に川原さんを入れたのである。

 そして二年後、案の定会長が決まらないといって揉めだしました。私は約束ですと言っ
て知らん顔。結果、私が密かに予測していたとおり、「頼まれたら嫌と言えない」川原さ
んがとうとう引き受けることになったのである。
 ところがである。「してやったり!」と思ったのもつかの間、四月に引き継いだばかり
のその八月、川原さんが突然亡くなったのである。心筋梗塞であった。家内から「川原さ
んが亡くなった」と聞かされた時、「何冗談言っとるか!」と言ったものである。一昨日、
別の葬式で会っていたし、全く普段どおりピンピンしている姿を見ていたのである。
 まさに突然の出来事だった。まだ失業保険を貰い始めたばかり、長年払い続けた厚生年
金など一度も手にしていない。働き終わった途端、あの頑丈な身体も、笑顔も一瞬にして
消えてしまったのである。
 私も火葬場まで見送りに行ったが、彼の火葬時間はメチャメチャに長かった。我々の後
からはいった火葬が先に終わり、そちらの関係者が一人も居なくなった後もかなりの時間
待たされたのである。彼の骨は白くて太くて崩れること無く、はっきりと形を留めていた。
 若い頃から鍛えに鍛えてきた証拠である。そんな男でも亡くなる時はまさにあっけない
ものであった。彼の会長職としての残余期間を引き受けてくれと申し入れられた時、私は
迷うことなく引き受けなくてはならないと思ったのである。
 「人生とは、何ぞや?」「俺の人生とは、何ぞや?」「俺は、自分の人生に納得して死
ねるだろうか?」自問自答せざるをえない。結局町内会長は、ピンチヒッターの私の後を、
私が選んだ三人のうちの二人目が引き継ぎ、そしてその二年後。三人目が、今年の四月か
ら引き継ぐ結果となっている。

  月日は 百代の過客にして
            行き交ふ年も 又 旅人なり    (芭蕉)


(斜光8号 2003)

129

 

同人α20号記念 寄せ書きより

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月27日(火)07時01分37秒
返信・引用 編集済
  .




     同人α20号記念 寄せ書きより2009




     氏が大切に見守ってきた佐高同窓誌「斜光」20号発行の前年、2014年春、
     20号を手に取るすることなく旅立たれました。
     同人α冊子の中に一点、氏の寄稿をみつけました。α20号記念冊子の末尾
     です。あれから5年、同人αは今年の夏号でに40号を迎えます。もしまた
     書いていただけたとしたら、40号の寄せ書きにはいったいどんな氏の言葉
     をいただけたのだろうか…残念でなりません。斜光の方達も同じ思いをさ
     れていることでしょう。  (編集部)






アルファ-20号おめでとうございます。
 最近の言の輪の合評、賑わってますねぇ! 色々な議論を聞いていると、その人の関心
・好奇心がどこに向いているのか? その人の思考の傾向・経験・専門等、夫々の個性が
滲み出て来て面白いですねぇ。それにしてもアルファ-には、個性豊かなメンバ-が揃っ
たではありませんか? そしてちゃんと20号まで続いたのですから、当初目指したもの
が出来上がって、磐石になったということでしょう。そのことに「おめでとう!」を言い
たいと思います。

 アルファ-が「もっと書きたい!」という、書くことの好きな限られた人たちの同人誌
に対して、斜光はより多くの人に投稿してもらって、同窓生としての親睦を深めていこう
という同窓会誌。斜光も20号までは頑張ろうと話をしています。来年が50周年記念同
窓会で15号ですから、20号と言えば、あるか否かは分かりませんが55周年記念同窓
会にあたる年。アルファ-メンバ-もそろそろ斜光にも投稿したらいかがですか?この先
そういくらも星霜がある訳ではありませんよ。

                               今多 迷道

116

 

チング(友へ!)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月26日(月)22時48分33秒
返信・引用
  .

               チング(友へ!)




 近藤君からの「斜光」原稿の督促を受け、今回は何を書こうかな? と思い迷っている
ところで、韓国映画「チング」を見た。この映画を見て思い出した事があるので、今回は
その事を書く。それにしてもご“六十歳になると映画が安くなる”と聞いていたので、入
場券を買う時“シニアだけど!”と言ってみた。そうしたらあっさりと“千円です!”と
返ってきた。今度からは映画を見る時だけはシニアになろう。

 チングと言うのは旧友、古くからの友達という意味らしい。
 それにしても韓国というのは、何と日本と似ていることか! 韓国の小・中・高校とい
う学生時代、そして成人してのヤクザの世界とも、我々が辿ってきたものとまるで同じ肌
合いであり、丁度三十年前の日本映画を見ているような感覚であった。
 そう言えば日本は昔大陸と陸続きだったと言うし、関東には沢山の朝鮮からの人々が土
着したという話もある。南九州の陶磁器関係者の先祖は、まず朝鮮系だという事も聞くか
ら、異なる国と言っても文化・心性・考え方等々殆ど類似しているのも当然だと言えよう。
最近の日韓関係もいわば親近憎悪みたいなものだな! と思ったのである。

映画の筋は、小学生の頃からの仲良しグループが、成人していく過程での交流を縦糸に、
建前・古い習慣・偏見に満ちた学校や社会を横糸にして、生来の激しい性格を持った主人
公達が、己の業みたいなものに引きずられて、自らの思いとは裏腹な方向へと踏み込んで
しまう運命を描いた、非常に感動的・刺激的なストーリーであった。
 竹馬の友主役の三人、ひとりはグループのガキ大将(A)はヤクザの子、体の大きいナ
ンバー2(B)は葬儀屋の息子、共に社会的に蔑視された環境で育つ。もう一人の優等生
(C)は裕福な金持ちの息子、ぼっちゃんとしてチヤホヤされることに逆に反感を覚えて
いる。
 ガキ大将(A)はいつも(B)と一緒につるんで悪戯も喧嘩もやってきた。しかし彼は
(B)より優等生(C)により身近な友情を感じており、まともな世界に憧れている。そ
の分(B)の心境は複雑である。自分のほうがいつも(A)の近くに居るのに、(A)の
気持ちは(C)に近いのである。このデリケー卜な関係が伏線となり、やがて二人は悲劇
的運命に弄ばれる事になる。

 この主人公達の微妙な関係や性格・風貌から、何となく似たものを感じて中学時代の友
達を思い出した。

 当時同学年に勢力を誇った(S)と(H)という二人の番長が居た。
(S)とは二年生の時同じクラスとなった。彼は同学年で一番背が高く見上げるような大
きな男だったが、体つき・性格からチングのナンバー2(B)とイメージが重なるのであ
る。
 同じクラスになって間もない頃だったと思う、お互いふざけあって取っ組み合いをやっ
ていたら、彼が急に怒り出した。こちらは暫く彼が何で怒り出したか解らないでいたが、
どうも僕が彼の首を強く締め過ぎたということらしい。
 彼はなかなか納得せず、あまりしつこいのでやむを得ず渡り合う事となった。暫く殴り
合ったがとうとう教室では決着がつかない。放課後に近くの公園で改めて黒白をつけよう
という事となった。ところが公園への移動中、上級生の仲裁がはいり、結局は手打ちとい
う事で収まったが、私の右手の薬指は殴った時の衝撃で今でも曲がったままである。あの
時私は彼の殆どのパンチを躱(かわ)して打たれていない。喧嘩は腕力だけではないなと
いう事が解り、妙な自信を持ったのを憶えている。その後悪童連中の私の扱いが何となく
変わったのである。
(S)とは卒業後会っていないが、噂では何と私の住んでいる横須賀の「ドブイタ通り」
で(ドブイタ通りは今は日本人向けで少し品が良くなっているが、昔は米兵が闊歩する歓
楽街で黒いの白いのがウロウロしている一種異様な通りであった)バーテンをやっており、
酔っ払ったクロンボを叩き出したり、ヤクザとのもめ事で“猟銃を持ち出したらヤクザも
えすがるね”とか言っていたというから、なるほどね! と言うか、彼らしいというか!
そういう人生を歩んでいるらしい。

 もう一人の(H)とは三年生の時同じクラスになった。彼は柔道部の猛者で、しかも成
績も良かった。従って彼は腕力だけの番長とは異なり物事を弁えているという所があった。
彼は私の言うことを良く聞いてくれたが、彼と私との間がチングのガキ大将(A)と坊ち
ゃん(B)との関係に類似のものを感じたのである。
 ある自習時間、我々男生徒全員は教室を抜け出して隣の体育館で遊んでいた。多分女生
徒が言いつけたのだろう担任の先生が顔をだし“お前達何やっとるか! 悪かったと思う
者は前に出てこい!”私は覚悟を決めて前に進み出た。すると(H)が遅れてなるものか!
との勢いで人を掻き分け私の隣に立った。あ-(H)は良い奴だな! と思ったのを思い
出す。結局我々は先生にかなり手ひどく殴られたのであるが、先日の同窓会でその事を先
生に尋ねたら、“いや-俺は浩ちゃんを殴った事あったかな!”とすっかり忘れておられ
た。
 あの(H)は殺しても死なないような男であったが、彼は若くして病気で亡くなった。
 解らないものである。

 もう一人本物のヤクザになった友達(T)を思い出した。
(T)とは一年生の時同級で、非常に短気なところはあったが、成績も非常に良かった。
 テストの前、勉強を一緒にやろうと彼の家に遊びに行った時、階下から親父さんの声が
かかった。すると、“今俺達は勉強しとっとじやなかか!”と怒鳴り返したので私はびっ
くりしたものである。“俺は高校にいきたか!”と盛んに言っていたが、親父には大工の
後を継ぐように言われているらしく、もうその頃から親父との仲は険悪になっていたよう
である。二年生になるとクラスが別になり次第に付き合いもなくなっていったが、(H)
はその後学校にもあまり出てこなくなり、街で喧嘩をしとったとか、不良仲間との色んな
噂を聞くようになった。私が大学に入る頃には(H)はヤクザになったと聞いたのである。
 私が大学三年の時だったと思うが、帰省中映画館の中で偶然彼を見かけた。彼は真っ白
の背広上下に白い帽子、いかにも筋者という出立ちで一人若い者を従えていた。
 私は当時の彼に関係無く昔の友達のつもりで。“お-い、T君!”と声をかけた。
 振り向いて私を認めた彼はゆっくりと近づいてきた。私は映画館の後ろ側の壁際の丸椅
子に腰掛けていた。歩み寄った彼は正面から両手を私の両肩に置いた。黙って見下ろして
いる。沈黙が続いた。逆光で彼の表情は良く見えない。が私の顔には光が当たっていた。
 馴れ馴れしく俺に声を掛けるな! と言ってるような不遜な態度に思えて、私には次第
に怒りが込み上げて
きた。私はぷいと横を向いた。私の顔は笑顔から不愉快な顔に変わったはずである。それ
から彼は両手を離し踵を返し無言のまま去っていった。
 私はその後あれこれとあの時の彼の気持ちを推し量ってみたが、とうとう何も解らなか
った。
 最近の噂では、彼は奥さんを貰い子供も出来て、静かな生活をしているという。
 それにしても、もし彼の親父さんが無理をしてでも学校に行かせてくれていたら、彼の
人生は全く違ったものになっていたはずである。

(斜光7号 2002)

114

 

僕の誕生日

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月29日(土)07時57分20秒
返信・引用
  .

            僕の誕生日

                2002-2005






小話の箱   2002/7/18

レ-ガン大統領は2月6日 僕と同じ日に生まれている。誕生日が同じというのは 365分の
1の確率であるから、結構自分のまわりにも居るはずであるが、あまり見当たらないのはどう
いうことか?
俳優あがりの大統領として はじめて彼の写真を見た時、”あっ!彼は見たことあるぞ!”
僕は高校・大学時代 相当西部劇を見ているが、その中のひとつで見ている。題名は忘れてし
まったが 牧童の下っ端で、非常に卑怯な男の端役であった。あれほど後年の彼のイメ-ジと
かけ離れた役をやっていたとは!アメリカとは 面白い国である。
彼はユ-モアのセンス溢れる政治家として とみに有名である。

精神病らしい青年にピストルで撃たれ、担ぎ込まれた病院でのこと。手術の為に全身麻酔をか
けられる寸前、医師に向かって”君が共和党の支持者であることを祈るよ!”とウィンクして
みせた。
政治家としての度胸を上手く伝えている。





記録会  2005/1/18

このところちょっと書き込みが少ないようですね。
佐賀にはマンションを建てるような場所、他にも沢山あるでしょうにねぇ。
大阪城は華やかな歴史を持っているのに、そして雄大な建物なのに、何か「がらんどう」な感
じで、もう少し何とかなりませんかねぇ。大阪府や市は一体何をしているんですかねぇ。せっ
かくの歴史的財産をもったいない感じがするんですがねぇ。

一昨日の日曜日。朝から冷たい雨が降りつづいた。「こんな日は温水プ-ルで泳ぐにかぎる」
と市民プ-ルに出かけた。入り口で「記録会」という張り紙があり、何やら申し込みを受け付
けている。「あれ!今日は何か行事があって、泳げないのかな?」と思って「今日は何がある
んですか?」と聞いた。すると「横須賀水連主催で記録会をやります。あなたもどうですか申
し込みませんか?」。「いやいや!ぼくは!」と尻込みすると「記録会といっても速いのを競
うんではなくて、参加者それぞれの記録を計ってあげましょうという催しなんです。どうです
貴方がどのくらいで泳げるか?やってみませんか」。開催日は今日でなく2月6日だという。
「2月6日?僕の誕生日ですよ。63歳になる日です」「すばらしいじゃないですか!ちょう
どよい記念にいいじゃ-ないですか!」。2~3人に取り囲まれて説得され、とうとう申し込
んでしまった。
しろうとの中では些か速い方であるという一片の自負はあるが、なにぶん我流であり、競って
泳いだことなどいっぺんも無い。そんな催しに申し込む奴は相当の経験者であり、自信のある
奴ばかりだろう。それに63歳では最高齢者の部類だろう。いささかはやまったか?と思って
いるが、もし割と良い成績だったら、自慢話としてこのホ-ムペ-ジでご披露しよう。もし2月
6日を過ぎてもこの紙上に何の報告も無かったら、ドンジリになったと思ってもらいたい。





記録会報告 2005/2/7

吉野ケ里の写真。下は雪景色ですか?何と無く「ホッ」とするいい写真ですねぇ。

先日の各サ-クルの合同新年会ご苦労様でした。2次会はカラオケボックスに20数名でおし
かけたが、女性が多かったからか?僕の前にノンアルコ-ルのジュ-スが20杯ぐらい「ドン」
と置かれた。これを目ざとく見つけた秋月氏、僕のところに寄ってきて「熊井はいつも飲まな
いから、今日はこれを思いっきり飲んでくれ!」「何杯飲んでもいいぞ!ガハハハハ・・・」。
相変わらず悪徳代官の高笑いは快調であった。彼はあれだけいつも飲んでるのに、顔色はいい
し、生き生きして健康そうである。やはりいつも言いたい放題・ガハハと笑っているのが健康
の秘訣か?
不思議と落ち込むと言う事が無く、いつも悩みもストレスも何にも無いという様子。幸せな人
である。

昨日は2月6日。僕の63歳の誕生日で丁度記念に参加しませんかと誘われ、横須賀水泳協会
の記録会に参加した。若い者ばかりで僕は浦島太郎のような存在になるんでは?と懸念してい
たが、行ってみると、オバタリアンがどっさり来ている。女性が7割、男性が3割、横須賀の
各スイミングクラブの代表の集まりで、30代・40代・50代が中心であった。これなら何
とかどん尻は逃れられるかな?と一安心であった。25Mの自由形と平泳ぎに出場した。一組
7人で泳ぐのであるが、オリンピックと同様ちゃんと紹介されるのである。「1コ-ス松永さ
ん、陸上自衛隊」「2コ-ス坂本さん、木曜会」。その度に「ワ-」歓声が沸く。僕のように
個人出場は数名であった。
誰も知った奴は居ないなぁと思っていたら、2人が近づいてきた。「63歳の誕生日おめでと
うございます。今日は頑張ってください。応援してますからね!」。先日僕を取り囲んで勧誘
してくれた人達で、どうも協会のひとらしい。
全力で泳いだことなど無かったので、やる気が空回りして、手と足がバラバラ、最後のタッチ
は流れるし、もう一つという感じであったが、自由形は何とか2位でゴ-ル。タイムは17秒
41。思ったよりいいタイムで応援組に「速いですねぇ、フォ-ムもなかなか良かったです
よ!」と誉められてよい機嫌で帰ってきた。平泳ぎは23秒41とこちらは平凡。何とかけつ
にならずに済んだのである。
まずはいい誕生日の記念になった。それにしてもダントツで80歳代の大先輩が2人参加して
いた。いやぁ!こういう人は希望をあたえるねぇ。僕もゴルフ・水泳・テニスとも80歳ぐら
いまでやりたいものである。

19

 

大川組

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月28日(金)11時33分48秒
返信・引用 編集済
  .

                大川組

                2003-2011





  2003年

匿名談義
2003/12/3

ギャラリ-の写真は、一瞬違う場所かと思った。僕が歩いたのは11月30日、12月1日の台風でか
なりの葉っぱが振り落とされたらしい。よく見ると近藤君も黄色い絨毯のほうに力点を置いた
ようだし。これもまた風情があるようだね!
Canadian Birdsの真っ黒い背景も、見易く印象的だと思ったね。

ところで匿名談義。読者から見ると、斜光の色眼鏡・編集後記やホ-ムペ-ジの匿名投稿は極め
て興味を減ずる。ちゃんと名前がわかり、イメ-ジがあるとちゃんと読もうという気になる。
という意見である。お説ごもっとも、その通りであろう。
一方書く方から言うと、名前を変えることで、何か自分の枠を破って別人になって何でも書け
るという気分を味わうことができる。気分だけかもしれないけどね。勝手だけど書き手として
の主張である。それにしても確かに匿名の氾濫状態はあまり良くない。猛省すべきだと思いま
すね!
ノリさんも、有名なノリさんと混同されている可能性ありとのことで、早速苗字を入れたよう
ですが。僕は今後、斜光には実名で投稿することにします。しかしホ-ムペ-ジはそのまま今多
迷道で勘弁してください。
理由。僕は大川という県外からの越境入学組、ラグビ-部からかなり強硬に入部を勧められた
が、結局断って、クラブ活動もまるで無し。実名出してもあまり変わり映えしないとおもわれ
る。
それに僕を知っている人には「はは-ん、あいつだな!」とわかるような書き方をしているつ
もりである。
O-CHANへ。MB会。昼飯食って美味い晩飯食って、思いっきり飲んでダベッてたったの千円。新
人二人、分かれ際に「今後ともよろしく!」と言っていたから、相当気に入ったみたいだよ!
【落書き帳】





  2005年

九州へ
2005/2/16

「RAY]は9日に観ましたよ!我々の身体に染み込んだ、レイ・チャ-ルスの数々のヒット曲が
ふんだんに挿入されていて、充分に満足しました。偏見・裏切り・不信・麻薬・セックス、生
き馬の目を抜く米国の黒人社会で盲目で生き抜くことの厳しさ。陽気な曲にも、悲しい雄叫び
みたいなものを感じた映画でした。

11日から13日は金子・木原・熊井の大川3人組で一緒に帰省。菅・中原(哲)君らが準備
してくれて11日は歓迎会、12日はゴルフというスケジュ-ル。11日は宴会前に新装なっ
た佐賀城の見学。そして問題のマンションの立つ位置も確認してきました。

宴会はファニ-ズ(深川・中原・吉住・菅)のほか、14組から中原(旧姓犬塚・ワンちゃん
と呼ばれている)副島(利)君が、他副島嘉人君・野球部の山崎君・小倉厚子さん、そして透
析をした身体を引きずって大川から内藤巧君が駆けつけてくれていた。
ファニ-ズの男性3人のインタ-テインメントは相変わらず愉快で楽しい。駄洒落と冗談の掛け
合い漫才である。翌日はゴルフだというのに「もう一軒行こう、もう一軒!」ということにな
り、とうとう3次会の午前様となった。そうそうその3軒目の「優子の部屋?」に入ったらな
んと藤戸君等数人の同級生がタムロしていた。(菅)「やぁ!やぁ!やぁ!今日は同窓会。こち
らが先生!」。
ちょっと髪の毛が少なくなった木原君はとうとう先生にさせられる。僕はコ-ラを頼んだのに
なかなか出てこない。気を使った中原(哲)君が「深さん!深さん!ちょっと督促してきてく
れ」。
深川君、真面目な顔して「コ-ラ大変だ!」立ち上がってカウンタ-へ。帰ってきて「コ-ラ!
と充分叱っといたけん、すぐ持って来るやろ!」。大体ず-とこんな調子である。
カラオケも盛り上がったが、ファニ-ズ3人とも英語で歌ったポピュラ-は感情の入ったなかな
かのものであったし、俺は歌えないないからと言った山崎君は、いかがわしい・味のある語り
をやってくれた。
圧巻は内藤君の「イヨマンテの夜」。美声で、伊藤久雄とはちょっと違った味をだした、玄人
肌の唄であった。 何!ゴルフの成績! ゴルフの話は無い。

ファニ-ズとはファニ-フェイスというから、コケティッシュなという意味かな?と思っていた
が、聞いてみると、深川・中原・吉住・菅の頭文字を取ったものらしい。
念の為、辞書を引いたら、女性特有の持ち物の意味、他に「口車に乗せる」「もっともらしい
話で騙す」という意味があるらしい。どうもあのメンバ-、MB会ほど品格は無いのかねぇ?。
【落書き帳】





  2008年


「大川組会案内」
2008/2/12

27日の懇親会のメンバ-は、金子・高木・古賀・香月・田村・熊井の6人になります。
武藤君はおそらく駄目でしょう。集合は、いつものニュ-新橋ビルのエントランスに、
5時半としましょう。金子さん!予約のほう、よろしくお願いします。





「大川組忘年会」
2008/11/27

 高木君からNGの回答がありました。武藤君と香月君からの返事はまだありません
が武藤君はちょっと無理でしょうが、香月君はまだメ-ルを見ていないと思われます。
他の人はどちらでも OK とのこと。
 日取りは4日(木)に決めさせていただきます。場所は古賀君から銀座の「うまい
鮨勘」と金子君から深川の魚の鍋店「ごちそう家ぼん太」の提案あり。どちらがご希
望でしょうか? どちらかを今回にして、もう一店は次回にまわしましょう。ご希望
をお寄せください。僕は今回は鍋にして、次回鮨にしたいですねぇ。
【窓辺にて】



       「大川組忘年会」金子  2008/12/1

       皆様
       12月3日(水)17時の待ち合わせ場所は、浜松町の店
       が予約取れなかったので、新橋のいつもの待ち合わせ場所
       (ニュー新橋ビル1階)にします。
       お店は、新橋駅前ビルB1の「魚がし日本一 新橋店」
       電話3573-2307 に予約しました。

       熊井様
       勝手ながら上記の通り変更しましたので、悪しからず
       ご了承願います。
       【窓辺にて】





  2009年


「大川組旅行」
2009/3/16

アウトラインを下記の通り決めました。皆さんの合意が得られ次第、JTBで予約する
予定です。
期 日     5月21日(木)~5月22日(金)

スケジュ-ル
21日    9時頃 新幹線で東京発
      12時頃 山形着   (昼食)
      13時  レンタカ-で蔵王へ
当日は蔵王温泉泊(蔵王国際ホテル)
*ちょっと寒いかもしれないので、重ね着の出来るものを持参のこと
22日   8時半ごろホテル発 途中天童の国体競技場(公園)に寄っ
      て山寺へ
      12時頃 山寺を下山して風雅の国で昼食
           天童市内を案内(人間将棋他)
           山形へ帰ってレンタカ-返却
      16時頃の新幹線で19時頃東京着
予算    一人当たり  新幹線・旅館泊(2食付き)   ¥26700
             レンタカ- (ガソリン代含む)  ¥3300
* 2回の昼食代は各人別負担として、ひとり¥30000の予定で
確認
1.期日に付いて  香月君OKですか? 場合に寄っては1日づらす必要あり?
2.旅館泊     5人部屋の予算ですが
以上の通りとしました。ご都合をご返事ください。
【窓辺にて】






      「山形旅行記・一日目」 古賀和彦  2009/5/22

      5月20日より1泊2日の山形旅行に出掛けた。O-chan、熊井君、
      香月君、金子君と私の5人衆、通称「大川組」のメンバーである。決し
      て強面の連中の結社ではない。それは昔、福岡県の大川から佐高に越境
      して来た同期の集まりだったのだが、知り合いだったO-chanや香
      月君や私達部外者がなんとなく勝手に飲み会に参加したような訳だ。こ
      の外正当なメンバーは高木君、武藤君、木原君がいた。残念ながら木原
      君は熊野古道旅行を企画途中亡くなってしまった。武藤君は今四国八十
      八カ所の巡礼の旅の途中である。この連中は実に穏やかで、自己主張や
      ひけらかしや声高に騒ぐこともない。だれも強引に意見を纏めて何所か
      へ引っ張って行こうとしないのがいい。

      その5人は9時18分発の東北新幹線に乗って山形へ。田植の終わった
      ばかりの水田の関東平野を通り抜け、新緑に満ちた東北道をひた走る。
      なだらかにうねる丘陵の連なりはヨ-ロッパの景色のように優しく、懐
      かしく見ていて気持ちが良い。リンゴの花がまだ咲いているだろうかと
      切望するがどうであろう。皆が言うにはもう終わっていて小さな実を付
      けている頃だと相手にしてくれない。ジャンクションの福島で仙台方面
      と山形方面に別れる。すぐに山に挟まれた谷間に入りかなり走ると平野
      にでた。米沢、山形と盆地がひろがる。

      レンタカーを借りて蔵王連山のひとつ熊野岳(1,841m)へのぼりお釜を
      覗く。下に見えるカルデラ湖は白濁した緑色で、日の当たり具合や雲に
      よる陰りで、微妙に色が変わるのが不思議だ。この高さになると灌木一
      本もなく微かに苔や這い松だけが、山を駆け上る強風に耐えている。上
      着を持ってきてよかった。

      この蔵王は大学生の体育の授業としてスキーを習いにきたことがある。
      もう45年以上も前だ。三日間の練習の最後に地蔵山の頂上までロープ
      ウエーで登り降りてくるという無茶な命令があった。整備されたゲレン
      デしか経験しない初心者にとって、山スキーなど遭難しろとでも言うの
      かと思った。案の定の転んでは数メートル積もった新雪に埋もれ、起き
      あがれなかったり、突然の吹雪で目の前が全く見えなくなってうずくま
      ったり、その強烈な吹雪が右の耳の鼓膜を破ったり、兎に角「白銀は招
      くよ!」のトニー・ザイラーが4分で滑り降りたという、コースを樹氷
      を鑑賞する余裕などなく、這々の体で一時間以上も掛けて降りてきた。
      今ならきっと指導者は責任を問われるに違いない。

           
      【窓辺にて】





      「山形旅行記・二日目」 古賀和彦
      起きがけに朝風呂に入る。かすかに硫黄の臭いがした。あまりそのての
      ことに興味ないので、蔵王温泉の湯がどのような効用をもつのか判らな
      い。しかし現に肌がつるつると滑らかになるのは確かだ。湯上がりにデ
      ッキに出て微風に体をさらすと気持ちがいい。
      ここの浴室の造りはなかな洒落ていて、通り一遍ではない。和風で小梁
      や野地板の見える小屋組を見せ、高い天井の吹き抜けが気持ちよい。壁、
      床、建具などもすべて木製で、英国産のワトコオイルにすこし黒の顔料
      を入れたのだろう、落ちついた深みのある仕上がりになっている。私の
      山荘とはからずも材料や塗料は同じで気に入った。しかし一般の人には
      暗く感じるかも知れないほど照明が控えめになっている。

      朝食の前に散歩にでかける。広大なゲレンデはよく手入れされていて歩
      きやすく、新緑も種々の木によって違う色をしている。初心者用のスキ
      ー場と思われるが、15度くらいの傾斜だろうか、転ばないように体型
      を保つのに結構力がいる。
      上から眺めると、村の中央に小さな教会の尖塔が見えればまさに南ドイ
      ツかチロル地方を想い出させる景色である。

      通称「山寺」、すなわち宝珠山立石寺(りっしゃくじ)という天台宗の
      お寺に参った。かなり急な石段が綴れに折れて上に続く。仲間の誰かが
      800段とか云っていたが、あとで調べても段数については記述されてい
      るものを見つけることは出来なかった。
      山は今しゃがの花が盛りである。
      芭蕉が1689年「奥の細道」をたどってきたこの寺で「閑さや岩にしみ
      入る蝉の声」の句を詠んだという句碑があった。その影響か皆がいろい
      ろと句を作る気分になって、いくつかできた。丁度春蝉が鳴いているの
      を読むのだが、しっくりしない。最初から名句を作ろうとしてももだめ
      だよ、井原西鶴のように一晩で一万もつくるという矢数俳句のなかから
      一つ二つと見つけ出すくらいでないと、とても無理だ。しかしその矢数
      ほどの句がとても我々の頭では生まれるはずはないじゃないか、などと
      みんな大笑いしながら奥の院までのぼり切った。
      石段に心躓く立石寺我が一句は季語がないし、解説がないと何が何だか
      判らない代物である。

      その後、K・K君がかつて赴任した土地である天童市へ向かった。舞鶴
      山の天童城城址の人間将棋の場所や、天童木工を見学して回る。新幹線
      では山形牛弁当を食べかつビール飲んで良い気持ちになった。午後7時
      に東京で解散した。りんごの花は遂に見ることができなかったのが残念
      である。

           

      【窓辺にて】





       「木原君の墓参り」 金子  2009/6/4

       大川組の皆様
       皆様のご希望を集約して、来る7月2日(木)とし、午前に
       したいと思います。
       集合日時・場所は7月2日(木)午前11時西高島平駅改札口
       (出口は1ケ所:進行方向の後部のもよう)とします。
       よろしくお願いいたします。
       さて、去る6月2日浜町にある木原事務所を昼休みにちょっと寄りま
       した。
       長女、御厨氏(木原君の後輩)、パートの女性3人で運営しています。
       環境厳しいですが、明るく頑張っていますヨ。
       【窓辺にて】


      「木原君の墓参り」古賀和彦  2009/7/2

       西高島平の駅に11:00集合し、武藤・香月・熊井・高木・金子・田村
       氏と私の7名で木原君の墓参りに行った。
       最近は思い思いのデザインの形、様々な言葉を刻んだ墓がある。まつ
       られている故人の希望によるものか、残されて家族がその生き様に感
       応して付けたものか、一つ一つ注意して見て行くとなかなかその人生
       が想像されて面白い。木原君の墓石の文字は「誠意」、その他「愛」
       「友愛」「一期一会」「感謝」「想」「完歩」などがあり、さて我が墓に
              はなんと刻もうか。
       【窓辺にて】





「大川組忘年会」
2009/11/10

日程は 12月の16日(水)とさせていただきます。
いつもの通り 17時 いつものところに集合ということにしておきます。
どなたからか新提案があれば、変更させていただきます。
【窓辺にて】


2009/12/2
もう師走ですねぇ! 一年が、年々記録更新するかのように早くなります。
春夏秋冬・樹木や花の盛衰も、こんなにすばやく移ろうものでしたかねぇ?
これじゃ-大川組忘年会も、あと何回顔を合わせることができるか? 既にカウント
ダウンに入ったとみた方がよろしいでしょう。
 ところで今回の忘年会は、先日連絡した通り、16日(水)17時・新橋集合でい
つもの通り行き当たりばったりで店に入ることになります。
ですが田村さん! 今月中旬からフランスに出かけるとか?日程はダブっていません
か?
 MB会オ-プン戦は無しですね?
【窓辺にて】




  2010年

       「金子君より」 2010/2/13
       各位
       大川組新年会の場所を下記のとおりご連絡します。
                    記
       日時:3月3日(水)
       待ち合わせ場所:JR品川駅中央改札口を出た正面付近
              時間:17:30
       新年会場所:味一献 土風炉 夢小路 品川インターシティB1F
             03-3450-8488(JR品川駅東口徒歩6分)




       「旅行の件」香月尹則  2010/5/31
       高木君提案の大川会旅行会に時間が許せば君にも是非参加して貰いた
       いと思ってメールした次第です。例の件の真偽は小生には判らないが
       その件を乗り越えて今後とも皆と付き合って往きたいと念じていす。

「旅行の件」
2010/5/31

先日田村さんが こういうメ-ルをくれました。
「アルファ-問題では古賀さんと別れることになったけど、彼が悪い人で無いのは分
かっているので、その他の件では付き合いを避けるつもりはありません」。彼女はこ
ういう姿勢ですから、君もそういう気になってくれることを期待しています。大川組
としては今後とも集まりの案内は二人に出すつもりです。貴方もその気になったらま
た顔を出してください。近々旅行の件で集まる予定です。
【窓辺にて】




       「大川組の飲み会」 金子征彦 2010/6/11
       皆様
       6月17日(木)のミーティングのお店を次のとおり
       予約しましたのでお知らせします。
       個室・安曇野庵・新橋レンガ通店
       03-5157-3266
        なお、待ち合わせ場所は新橋駅17時です。
       (いつものニュー新橋ビル1階ロビー)
       熊井様  上記の通り予約しました。
               【窓辺にて】





       「大川組の皆様」 古賀和彦 2010/7/30
       写真無事に届いたようでなによりです。
       ほかの生物と人間の進化の違いは、キリンや馬や象などのように自分
       の肉体を進化させて環境に合わせようとしてきた。人間は自分の平凡
       な肉体を進化させるのではなく、道具を作ることで対応してきた。と
       ベルグソンは定義している。わたしも衰える記憶力を補うべくカメラ
       にたよるこうになりました。いま旅行の写真と東北の地図をみながら、
       おそまきながら自分がどこへ行ったか、八幡平がどの位置で十和田湖
       への道はどのようにたどったかを復習しています。なんともとぼけた
       話ですね。一粒で二度おいしいという何かの宣伝文句みたいです。ま
       あとにかく皆心臓麻痺や転倒骨折もなく無事戻ってきたことを喜びま
       しょう。娑婆は猛暑と雑用で、人生の難儀をいっぱい抱え込みそうで
       す。なにも反省することはありませんが、飲むいいわけのための反省
       会を楽しみにしています。

          

            【窓辺にて】







       「大川組飲み会」  古賀和彦  2010/9/16
      出席者 高木、金子、熊井、香月、私の5人
      田村さんが欠席したので、しっかりと同人αのいきさつを語った。
      詳細はわからないと言いながら概略の経緯は理解してくれたようだ。
      しかしこれは私サイドだけの情報であって、次回は私が欠席した場所で
      田村さんの意見を聞いたらと冗談をいう。50周年記念のため佐賀に帰
      省する前にもう一度会おうということになったが、日程は未定。
               【窓辺にて】





「大川組飲み会」
2010/10/19

日取りは 11月4日(木)に決定します。
金子君は暫く謹慎のようですが、当日の様子を見て、出来たら顔を出してください。
17時、いつもの新橋のビルで待ち合わせ。その上でどこかにしけこみましょう。
どなたか良い店を探しておいてください。
【窓辺にて】





「大川組忘年会」
2010/12/3

12月17日(金)で決定します。新橋駅前「ニュ-新橋ビル」フロント集合。
時間は17時ジャスト。予約をしてませんので、早めに店に入り込む必要があります。
くれぐれも遅れないように!
【窓辺にて】





  2011年


「大川組飲み会」
2011/5/12

ゴ-ルデンウィ-クは皆さんいかがでしたか? なんて言っても、毎日がゴ-ルデン
ウィ-クのような人が多いのですが?今日は金子君が晴れて出所します。その出所祝
いと旅行計画を兼ねて久し振りにまた会いたいと思います。今月の25日(水)はい
かがでしょうか?都合をお知らせください。

金子君!
いやぁ-、久し振りに顔を見ることになるねぇ! 嬉しいねぇ!ところで皆さん!
日取りは25日で決定します。
待ち合わせ場所は いつもの通り、新橋ビル、17時でよろしいですか?もう少し早
くしてもという意見もありますけど、16時半にしたら都合の付かない人があります
か?
    熊井浩二

【窓辺にて】





13

 

ステイヤング(STAY YOUNG)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月28日(金)06時27分9秒
返信・引用
  .

                ステイヤング(STAY YOUNG)  





 私はこの年齢になってもスポーツに夢中である。今はテニス・水泳・ソフトボール、そ
れにゴルフに忙しい。
 若い頃は何も考えなくても、やっていれば勝手に上手くなった。最近は体のいたる所が
老朽化してきた。昔どおりにはいかないのである。ところが理論的に色々工夫してみると
この年齢でも結構うまくなれることが解った。「スポーツは頭脳である」を発見して若い
頃より実にスポーツが好きになったようだ。
 一方で、やらざるを得ないという事情もある。
 大学一年生の時初めてスキーへ行った。先生も居なかったので、ただ傾斜に沿って直滑
降で降りることしか出来ない。上手い人も滑っていないような急傾斜を目をつむって降り
た。滑ると言うよりまるで落下。板に激しく尾てぃ骨を打ちつけて止まった。
 永い問お尻が痛かったが、とうとう医者にも行かなかった。その後の学校の身体検査で
身長がIセンチ縮んでしまっていた。この若さでそんな馬鹿な!と永い間疑問であったが、
三十代後半になって盛んにギックリ腰が出るようになり 医者にレントゲンを取ってもら
った。すると背骨の一番下段の推問が圧迫され、正常な推間の半分の長さで固まってしま
っているではないか!
 ”しまった!あの時のスキーだ!“と気付いた時は後の祭り!
 先ず第一に体重を落とすこと。次に背筋・腹筋を鍛えて、筋力で背骨の負担を軽くする
こと。これがその後の私の命題となった。今では毎朝出勤前に小学校へ行って、テニス・
ソフトボールの壁打ちや高鉄棒にぶら下がったりしている。
 誰かが言っていた。無病息災じゃ無く壱病息災だ!お陰でこの数年間健康診断結果は全
て正常値である。

 テニスは会社で昼休み時間若いものに混じって毎日やっている。
 ところがこの頃は、動体視力が極端に落ちてしまったのか?ボールが見極められないの
である。どうしてもポイントがずれる。恐らく見えているのはボールの残像か?全然イメ
ージと違う球しか打てないのである。その分、球を見よう見ようと球筋に全神経を集中し
ていると、今度は足に根が生えて全く動かないのである。体重の乗った重いボールをドカ
ンと打ち込むつもりが、手足はバラバラ、不格好な体勢で何とかボールを返すだけという
無残な結果に終わってしまうのである。

 水泳は週に一・二回、市営の温水プールに通っている。水泳を始めたのは山形時代であ
るからもう九年近く続けていることになる。
 山形はスキーの本場。冬になれば当然スキーということになるが、私は腰だけでなく膝
にも後遺症の残る怪我をしている。この年齢でスキー漬になったらまたどんな怪我をする
かわからないと考え、スキーはすっぱりと諦めた。かわりに山形の国体会場となった、天
井が開いて青空が見えるという、すばらしい温水プールに通い始めたのである。クロール
・平泳ぎ・バックはかなりの所まで進んだ。どうせやるならバタフライをマスターしよう
と、自己流で研究を始めた。ところが下手なバタフライはどうも腰によくないようなので
ある。泳いだ後、腰が重く、どうも腰骨がずれているようなのである。
 これは山形時代のエピソードである。
 横須賀に会社の同僚で昔からのライバルが居た。この男がまた口から産まれてきたよう
なオシャベリである。
 ある横須賀からの出張者が山形で私に言った。”亀さんが言ってましたよ!ゴルフをや
ってもテニスをやっても熊さんより俺の方が上だ!“ ”何言ってやがる。亀よりも熊の
方が強いんだ!よし!それじやー決着をつけてやる!”早速亀さんに電話をいれ、山形で
ゴルフを設定、差しで勝負をつけようと約束したのである。
 約束の日の前日、土曜日は例の温水プールでバタフライの練習もしていた、その目の夜
中のことである。ちよっと腰が重いなーとは感じていたが、トイレに行く為布団から立ち
あがった途端、”ギタ!“。残念ながらピンチヒッターを頼まざるを得なくなったのであ
る。翌日の夕方、こちらが寝ているところに亀さんから電話がかかってきた。”なんだ熊
さん、俺との勝負が恐くなって敵前逃亡か?“その上あのオシャベリめ!あっちこっちで
言いふらしたらしく、横須賀で、東京で、神戸でも、”敵前逃亡したんだって?“と言わ
れ続けたのである。おまけに、”うちの部長は体を鍛えに行って、却って体を壊して帰っ
てくる“といって、私の部下達にもスポーツ禁止令を出されたのである。

 ソフトボールは月にI・二回、試合の時に引っ張り出される。会社のソフトボールチー
ムに、最長老として所属しているのである。試合の時、集まるのがいつも九人ギリギリ。
従って私は、欠くべからざる貴重な?存在である。
 ところが最近はボールが投げられない。肩が固くなり、筋肉の弾力性が無くなって、遠
投が出来ないのである。その上近頃は、フライをポロリポロリと落とすのである。陸上選
手の走るフォームを見ていると、全力疾走中、頭は地面に平行・微動だにしない。この走
りが出来るからボールを追えるのである。ところが私が走るとボールが上下動する。そし
て距離感が全く掴めなくなり、ポロリやバンザイをやってしまうのである。それほど全身
が固くなっているということか?とても外野は無理である。
 それでは昔得意たったサードやショートはどうか?やはりテニスと同様、反射神経が鈍
っているから、ライナーが取れないのである。やれるところはファーストかピッチャーし
か残っていない。
 そのピッチャーも、最近では実力を付けてきた若手にエースの座を譲り、ダブルへッダ
ーの第二試合目を受け持っているが、ヒットでも打って走った後の投球はキツイ。ストラ
イクが入らなくなって、敗戦投手になる回数が増えてきたのである。
 先日。もうそろそろ定年退職だな!“と言ってみた。”ああそうですか!ご苦労様!“
と言われたらガックリくるだろうなと、内心ヒヤヒヤしながら。 ”会社は早期退職させ
ようとしていますが、うちのソフトボールチームは定年延長します。まだまだ辞められま
せんよ!“と言われてほっとしたのである。

 今年の春の市民大会で六十二歳の現役が居た。その人は昔有名な甲子園組だったらしい。
”よし!俺も後二年頑張ろう“と勇気を貰ったのである。
試合の日、私は監督から”是非出てくださいよ!“と何度も電話で念を押されると、嬉々
として試合に出かけるのである。連れ合いの声を背中に聞きながら。”いい加減にしない
と今に骨折しますよ!“。”スポーツもやりすぎると、老化が早くなるからね!“。

 ゴルフは月一のペースである。これだけはボールが止まっている。
まだまだやれるだろう。
ところが去年、突然ボールが飛ばなくなった。二百ヤードぐらいしか飛ばないのである。
 一体どうしたことか?周りからは”もう歳なんだから、そんなもんなんだ!いい加減に
諦めな!”と言われるが、そうは悟れないのである。自分より大きな人にオーバードライ
ブされるのは、何とか許せる。しかし、小さい人に置いてけぼりをくらうと、なんとも悔
しいのである。道具のせいだ。ドライバーを換えてみた。あまり効果は無い。あーでもな
い、こうでもない、と半年悩んだ。そしてやっと納得できる原因をつかんだ。腰を庇って
腕だけで打っていたのである。そうか腰に持病を持っていては、ゴルフも思いっきりでき
ないのか!
 ”熊井さんは怪物ですね!・“と言われたのは、遠い昔のことになったのである。それ
でもフォームを色々工夫して、今では少し回復したようである。
 先日同窓会の帰りの電車の中、六十過ぎてどうしても剣道五段の資格を取りたいという
執念で、今でも毎朝素振りを繰り返しているという男と一緒になった。
 そういう我々をとても尊敬してくれる人と、”どうせ年寄りの冷や水。いい加減にした
ら!と冷たい目で見ている人と、どっちが多いかな?” 結論は、。やっぱり変人とみて
いる人がかなり多いだろう“ということになった。

 同輩諸兄の中には、私と同様、まだまだ若いという思いと、どうしようもない老いとの
間で、揺れている人がほとんどであろう。しかし体を壊してしまった人もいるなかで、未
だこれだけ体が動いてくれるというのは甚だ幸福なことである。神と仏に感謝しよう!
まだまだ赤いチャンチャンゴなど着るものか!

(斜光6号 2001)

13

 

あの夏の思い出

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月28日(金)06時16分47秒
返信・引用 編集済
  .

               あの夏の思い出





夏の鎌倉海岸は人でごったがえしていた。沖ではウィンドサーフィンの帆が交錯し、浜辺
には夏場だけの仮設の店が建ち並び、そこは貞っ黒に日焼けした裸や派手なファッション
の若者達の天国であった。私達は裸足になって、ふくよかな心地よい砂の感触を楽しみな
がらブラブラと店を冷やかしていた。
仏は一人皆と離れて何気なく道路側のコンクリートの階段に乗った。その途端焼け石に足
裏を焦がされるような熱さにびっくりして飛びLがった。”アチチチチ!″その瞬間幼い
頃の、あの思い出がふと蘇った。あの苦い苦い思い出が!

あれは 私が小学校四年生の春から夏にかけての出来事だった。
当時我が家族は、現在の福岡県大川市が町村合併してできる前の大川町の隣・木室村に住
んでいた。その頃の私の遊び仲間は、近所の三年生から六年生までの六人がグループであ
った。時には弟や妹を背中に括り付けられて増えることもあったが、いつもこの六人が群
れていて、他部落のグループとも対峙していた。
我々は学校から帰るとカバンを放り投げて直ちに外へ飛び出し、日が沈むまで遊び同って
いた。私の体は一年中生傷だらけで、”風呂に入れ!”と言われても傷が痛むのでいつも
逃げ回っていた程である。

その年の春、あの日は生憎の雨であった。雨の日の我々の遊び場は近くの傘組合の事務所
の中であった。その事務所は、在庫が少なく広々として、人の良さそうなちっとも怒らな
い組合長の伯父さんと若い女性事務員さんの二人きりである。
その組合長さんはいつも不在がち 女性事務員も時々居ないことがあった。
その日も二人とも不在で、我々は勝手に上がり込んで事務所の中で遊んでいた。

その時隣の中学生がヌッと入ってきた。当時の我々にはその中学生は大人に見えた。
彼はいきなり事務所の金庫を開けると、百円札を数枚抜きとった。金庫にはいつも鍵がか
かってなかったのだ! 。お前達百円やるから黙ってろよ! いいか!”
私達は互いに顔を見合わせた。そしてリーダーの忠の手に百円札が残った。
当時の小遣いといえば、時たま五円か十円を貰うのが関の山であったから、臨時の百円と
いう小遣いは垂涎ものであった。
私達には拒否する勇気は無く、その百円は甘いお菓子となって皆の口の中で蕩けた。

この甘い誘惑は強烈であった。味をしめた我々は、二度三度と盗みを繰り返し、私自身単
独犯行に及ぶ程に溺れていったのである。私は 舌に乗せると蕩けるような甘い物だけで
なく、私の秘密の隠し場所にはミニチュアの刀や面白いデザインのパッチ等が隠されてい
た。
しかしながら その様な甘美な時間はそう永くは続かなかった。
学校では戦前型の先生がまだ残っていて、男子一人が廊下を走ると男子全員の団体責任と
してビンタをくらった。当時級長をしていた私は”お前は級長のくせに何故止めなかった!
”と言っては、皆が一発食らうのに私は三発食らった。
それが毎日のことであったから私の頭はコブが治る暇が無いくらいであった。
その先生からはしょっちゅう説教をされていたが、その間中 私はいつも赤くなって下を
向いていた。
表で良い子を演じ、裏で盗みを重ねている私の胸の中には黒い固まりが出来、それは次第
次第に大きく成長していった。
三ヶ月もたった夏に入る頃には もうどうしようもなくなっていた。
いっそバラしてしまおうか? いや! 友達を裏切るようなことはできない! それじゃ
どうしたらいいのか?
悶々とする日々が続いた。学校へ行っても身の置き所もなく、良心の呵責というものが如
何に厳しいものであるか真に思い知らされたのである。

そうしたある日、大川龍之助という旅芸人の一座が近くの空き地に小屋掛けを始めた。
華やかな幟がはためき、忖のあちこらにポスターが貼られると、この数少ない楽しみに
村の者は胸を躍らせた。
この一座に人気の子役がいた。仏の様な人見知りの激しい子供が、どうしてその人気者の
子役と仲良くなったのか? 今では筧えていない。
がしかし何故か親しくなったのである。私は彼の関心を買おうと、例の秘密の場所から取
り出したミニチュアの刀を得意げに見せたことがあった。すると彼が言った。
 ”お前は金持ちやね!″私はこの言葉を聞いた瞬間パツと閃くものがあった。
そうだ!これがチャンスだ! 私はこれが突破口になるかもしれないと感じたのである。
私は彼に総ての事をバラしてしまった。
 ”そりゃー悪かことばい! そげん事しちゃいかんばい!”彼はくるっと向きを変え走
って行った。その方向は間違いなく我が家の方向だった。
賽は投げられた! これで腹を括るしかなかった。私は意外と落ち着いていた。

しばらく時間を潰して私は家へ帰った。お袋が居た。親父は仕事で居ないはずである。
お袋は私の顔を見ると一瞬悲しそうに顔を歪めて、”あんたは何ちゅう事ばすっとね!”
私はバシ!と強い力で頬を殴られた。
私はお袋のこの激しさに呆然となった。私はこれ迄母親のこんな激しい姿を一度も見たこ
とがなかった。これ迄唯の一度も殴られたこともなかったのである。
今から考えてもこんな優しい母親は世の中にも少ないんじやないかと思うくらいである。
そのお袋に今度は何度も何度も尻を叩かれながら、私は打たれるに任せていた。
打たれながら自分がどんなに悪い事をしたのか改めて思い知らされていたのである。
この優しい母親がこのくらい怒るんであれば、あの恐い親父が帰ってきたら、どのくらい
ドヤシつけられるか? 学校にもこの事はすぐに知れ渡るだろう!
今更どの面下げて学校へ行けるだろうか! 私にはもう家にも学校にも私の居場所は残さ
れていない!
よし!家を出よう! これからは一人でやっていくしかない! そうだ! 隣町の大川の
あの椅子屋さんで働かせてもらおう! 決心が決まると私は表通りに飛び出した。
外は 夏の強い日差しに大気が陽炎に揺れ、タールと砂利で舗装された道路に立つと足裏
がヌルリとぬめった。同時に強烈な熱が足裏を焦がした。”アチチチチチ!”
気が付くと私は裸足で飛び出していたのである。
急に孤独感が襲ってきた。”これからは 一人だな!”と思うと、今まで見慣れてきた周
りの景色が全く違ってみえた。
日はまだ高い親友の和樹にだけは別れをしていこう。私は和樹の家へ行き、普段通りの顔
をして時を過ごした。彼はいつもの通り明るく応じてくれた。
私は二時間程彼と遊んで何食わぬ顔で別れた。密かにさよならを言って!
私は大川への道に立った。もう日は山の向こう側であった。遠い山並みの上空だけに、ま
だ明るさが残り、家や電柱や木立が黒いシルエットを作っていた。
私は夕闇へ向けて刻々と変わる夕空を見ながら大川への道をテクテクと歩いた。
腹が減ってきた。しかし今更引き返す訳にはいかない。

 この大川への道路沿いに一軒だけ私の親戚があった。その家の前を通り過ぎようとした
時だった。家の陰から必死の形相をしたお袋が突然飛び出してきて、私は強い力で腕を捕
まれたのである。
お袋は私の様子から異常を察知、親戚中に連絡して既に監視網を敷いていたのである。
こうなったらもうどうしようも無い、成り行きに身を任せるしか方法は無い。

家に連れ戻されると、親父は既に仕事から帰ってきているらしい。奥で両親がしばらく話
をしていたが、お袋が出てきて”とうちやんが呼んでいる”。
覚悟はできていた。私は親父の前に神妙に座り、轟き渡るカミナリと鉄拳を待った。
 ”????” しばらく待ったがなかなか鉄拳が飛んでこない。
そして親父は静かに言った。”もう二度とこんな事はするなよ! 早く飯を食え!”それ
だけだった。
”…………” 突然涙が溢れてきた。止めども無く流れてなかなか止まらなかった。

 翌朝になった。学校へ行かなくちやならない。おそらくこの事は学校のほうへも伝って
いるだろう。
”級長のくせに泥棒やったげな!”今日はそういう非難の目に晒されるだろう。

 クラスの入り口に立った。中ではいつものようにガヤガヤやっている。
入っていったら皆が私の方を振返り一瞬氷ついたような沈黙が流れるだろう。
私は 恐る恐る 引き戸を開けた。
 ”おはよう!”いつもどうり和樹が声を掛けてきた。皆はいつものようにそれぞれの話に
夢中である。”??????”
誰も振り返えらないではないか!
まだバレていない! ほっとすると同時に、じやー明日かな? 次の日も何もなかった。
次の次の日も何もなかった。
………………
痩せて小さな あの人の好い組合長さんは、私達のことを全て伏せてくれたのである。
その後 盗みをした仲間も・親も誰もがその事に触れようともせず、結局闇から闇へ葬っ
てしまったのである。
私もこの事をひた隠しに隠し、小学校・中学校・高校と良い子を演じ通したのである。

しかしながら、私は”あの件の順罪はまだ終わっていない!”という思いをずーと引きず
っている。遠い昔の事ではあるが、足裏に刻み付けられた少年時代のあの悪夢は、何かの
拍子にこの様にして、しばしば蘇るのである。

  (斜光5号 2000)>

13

 

E子の思い出

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月28日(金)05時56分22秒
返信・引用
  .

              E子の思い出





 私達の家族は、私が小学五年生の時、木室村から隣町の大川町へ引っ越した。・・・・
町村合併して現在の大川市となっている・・・・
 私は男の子が一人でも悪さをすると、団体責任で男生徒全員が殴られるという、戦前型
気風の濃厚な木室小学校から、極めて民主的な大川小学校へ転校した訳である。
 木室時代は、瘤の出るような拳骨を、毎日三個は食らっていたが、大川小学校では全く
殴られることが無くなった。
私は、その伸び伸びとして自由間達な気風に安堵すると共に、鍾を接した隣町なのに、ど
うしてこんなにも違いがあるんだろうと、びっくりしたものである。
 私がはいった新学級五年五組には、色々と個性的な友達が揃っていたが、E子はその中
でも、かなり特異な存在であった。一張羅の汚れた服、いつ梳かしたか分からないボサポ
サの髪、始終二本の洟を垂らしていたので、誰がつけたか、渾名が水力発電所。教室の片
隅でひっそりと息を潜めていて、普段は居るのか居ないのかわから無いといった存在であ
った。授業中先生に指名されると、おそるおそる立ち上がり、俯いたまま何時までも黙っ
て立っていた。彼女がどんな声の持ち主であったか、はっきり思い出せないほどである。

 あれは私が大学二年の春休みのことだった。九州の実家に帰っていた私は、友達を訪ね
た帰り、実家の近くを歩いていた。背後から「ドッドッドッドッ」という、やや甲高いエ
ンジンの音が迫ってきたので、私は思わず道の端に寄って振り返った。すると当時でも滅
多に見かけなくなった自動三輪車が近づいてきた。運転台には、此れもまた当時では珍し
く、女性が座っているではないか!。
「あっE子だ!」。確認した時には、車はもう私の前を通り過ぎて、爆音を残して、その
後姿は小さくなっていった。私の目の中に、キリッと引き締まったE子の顔がのこった。
長靴を履いて運転台にうち跨り、両手を広げてバーハンドルを握り締め、隣に女の子を座
らせて、キッと前を見詰めた必死のE子の顔が残った。その頃の私は、親の脛を詔りなが
ら適当に授業をサボるという、弛緩した生活をしていた。
 それに引き換え、あのE子の張り詰めた顔は、荘厳でさえあったではないか!あのE子
がなんと逞しくなったことか!。私はしばらく呆然とそこに立ち尽くしていた。「E子頑
張れ!」

 あれから約四十年たつ。E子がその後どのような人生を送ったかは何も聞いていない。
しかしあの日の衝撃は、今でも明瞭に私の網膜に焼き付いているのである。

(斜光4号 1999)

13

 

山形春秋1

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月28日(金)05時36分41秒
返信・引用 編集済
  .

                 山形春秋






 山形県の村山市に企業進出してから、もう四年を過ぎた。私は家族を横須賀に置いて、
今単身天童市に住んでいる。ここは蔵王のある奥羽山脈と、月山・朝日岳のある朝日山地
に囲まれた盆地になっており、夏暑く冬寒い所であるといわれている。
  山形へ出る前の横須賀、約六十名が山形へ転勤する必要かあり、その人選が行われてい
た。会社の中では、こういう噂が飛び交っていた。「蝉が鳴いていた、近づくと蝉はパッ
と飛び立った、しかし次の瞬間蝉はその暑さでパタッと地面に落っこちた」。「冬の山形
は雪がすごい、皆二階から出入りしているらしい」。

 いざ山形へ住んでみると全くこれが眉唾ものであることがわかった。夏は日が沈むと熱
帯夜は殆ど無いし、冬も車さえあれば自由に往来できるし、この天童は雪積も三十センチ
ぐらいのものである。それよりもやはり住めば都、再び訪れた独身生活を満喫している。
(この事はうちの奥さんには内緒である。奥さんには一人暮らしは大変なんだと言ってあ
る)。
 第一この頃では横須賀には俺の居る場所が無くなったのである。家に帰ってみると俺の
部屋は息子に占領され、俺の洋服ダンスにはいつの間にやら家内と息子の服が侵入して、
俺の服は隅っこに追いやられて小さくなっているのである。その上に庭の手入れやら何々
の修理やら色々の仕事か溜めてある。大事にされたのは一年ぐらいであったか?
その点山形は好い。会社から帰れば全部自分の時間、何をしようと勝手である。素裸でブ
ラブラしていても誰も文句を言う者は居ない。
 私はスポーツ好きである。現在はテニス、ゴルフ、ソフトボール、水泳を、たまにバレ
ーにも手を出している。極めて健康である。二年前の体力測定では二十代という数字が出
たし、先日の健康診断でも何一つひっかからなかった。強いて悪いところを探せば頭ぐら
いのものである。

 こちらは空気が新鮮、米がうまい、従って酒がうまい、そして人情味豊かである。東北
は特に秋か好い。紅葉の美しい渓谷か沢山ある。雪の国の樹木は葉を落とさなくては雪に
倒される。倒されない落葉樹だけが生き残ったと言うべきか、冬支度の前に一度晴着に着
飾るように、一斉に山々が色を変える。去年行った十和田湖、奥人瀬渓流は圧巻だった。
紅色や黄色の大木の下にはいると昼間でも夕焼けのように赤い光に包まれた。冬の山形は
雪空、曇空か多く確かにうっとうしい。しかし思った程寒くはない。それは盆地だからだ
ろう。冬風が無く、風と雪が吹き荒ぶという日は殆ど無い。
 それに空港も、商店も、会社もお役所も無料駐車場が完備しており、どこも車で乗りつ
けることが出米るから、外に出る時間か無いのも理山のひとつである。三月を過ぎると急
に日射しに暖かさか加わる。雪の閥から黒い土が見えたかと思うと、雪の下で長い間春の
準備をしていた草花が、一挙に緑色に色づき、梅桜桃が同時に花開く。しばらくするとさ
くらんぼがたわわに実をつけるのである。山形ではこの様に、はっきりした四季を満喫で
きるのである。

 亭主元気で留守が好い‘うちの奥さんにも喜ばれているはずの独身生活。そろそろ街路
樹のモミジ、カエデが色づき始めた。さて!次の休日はどこへ出かけようかな?
それともゴルフにするかな? うちの奥さんには内緒だよ!

(斜光パイロット号 1995)

13

 

>落書き2011-2014

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月23日(日)17時44分30秒
返信・引用
  .

                 落書き 2011-2014

                             ペンネーム 今多 迷道
                   『万華鏡』







2011年


そうですかぁ! 2011年12月30日(金)10時25分

新風児さん! そうですかぁ そんなに日本には良いところがありますか。嬉しいですねぇ。
今年の日本には本当に色んな事が起こりました。地震・原発・円高・特に年金赤字に財政難・
これ等山積する問題に何の手も打てない政治の貧困。日本中が 暗雲に覆われたような閉塞感
に満ち満ちているこの年末に、日本にそんなに良いところがあるなんて、本当に良い話をして
くれました。
私し事でも、ゴルフが100台に落ちてきて、「これも歳だから仕様がないかなぁ!」と思っ
ていたところ、8月の蓄膿症の手術の後 妙に調子が良くなって90台に戻った。
昨日は今年最後のゴルフ。「今年最後のゴルフは 80台で締めよう」と勇んで出かけたが、
結果はまた100に戻ってがっかりしていたところでした。
新風児さんの話を聞いて、今年の事はすべて清算、すっきりして、また来年に希望を託しまし
ょう。 (哲ちゃん! ゴルフの報告はこれで勘弁して!)




1/2成人式 2012年 1月 9日(月)10時25分

故障のまま永い間放っておいた我が家のPCが、去年の末に治りました。PCを開くのは殆ど
会社で、自宅のPCを開くのはあまりありませんが、これからは万華鏡にもたまには書き込み
をしようと思ってます。
今日は成人の日です。我々の成人式は50年も前のことになりますが、たまたまラジオを聞い
ていたら、最近1/2成人式というのが、次第に広がっているそうです。 1/2成人式というのは
10歳・小学校の4年生で行うそうですが、一つは自分が生まれた時の様子を両親に聞いてき
て皆に発表する。そしてもう一つは20歳になった自分に手紙を書き、それも発表するそうで
す。授業参観の日などにクラスで行われるようですが、子供に自分の人生を考えさせるという
意味で 面白い企画だなと思いました。




2012年


      続報/トロフィ ウ・ドンコ  2012年 1月11日(水)19時22分
      さきほど今年初の田舎踊りレッスンを終えて帰ってきました。
      MIO先生が世界大会で獲得したクリスタルが輝くトロフィーを私たちに見せてくれました。
      トロフィーのプレートに次のような文字が刻まれていました。
      このトロフィーを見たトタンに私は涙があふれて止まりませんでした。

      〈記〉

      Mio Watanabe

      LINE DANCE FEMALE OPEN SHOWCASE

      God Give Me Strength---3rd Place

      Worlds 2012 Country Dance Championships




続報/トロフィの解説  2012年 1月12日(木)20時30分

 ドンコさんの続報/トロフィの書き込み。彼が何故トロフィを見て涙が止まらなくなったのか?
分かります? これは僕なりの解釈。
mioさんは独り暮らし。永年カントり-ダンスを踊り続けてダンス教室の教授料で生活をたてて
いる。今では日本のトップクラスのダンサーで、近年は単身本場アメリカに渡って、カントリー
ダンスの世界大会にエントリー、今回も高位の入賞を果たした。ドンコさんは彼女の普段の頑張
りを見ている。大会前は独り夜遅くまで黙々と練習に励んでいる姿も見ている。
 人一倍情に熱い彼は、その彼女の普段の頑張りにいたく感激。大いに彼女を応援したいと思っ
ている。(エピソード)彼女はスタイルは素晴らしいがちょっと胸が貧弱。外人の中ではちょっ
とハンデである。アメリカ人に言われたそうである。
「貴方は大会の時はパットを二枚付けなさい」「あら!、私今既に一枚付けているのに!」
ドンコさんは、彼女がそのようなハンデも乗り越えて獲得した・頑張りのトロフィーに思わず感
激したのである。
 先日の箱根駅伝。抜きつ抜かれつのデッドヒート。抜かれてまた抜き返す。
また抜かれて、またまた抜きかえす。これを数回繰り返しながら、今度こそはもう限界だろうと
思っていると、ゴールが近くなって ふらふらになりながらもまたまた追い越しをかける。その
彼らの頑張る姿に思わず涙が溢れてきた。そういう頑張っている姿というのは本当に美しいんで
す。そういうもんじゃーありませんかねぇ。




      ライブ余話 ウ・ドンコ  2012年 1月23日(月)14時25分
      新風児さんが私達の田舎音楽楽隊のお知らせとレポートをいただいてお礼もうしあげます。
      本来ならば、饒舌この上ない私ですが時間と気持の余裕が全く見つけられないままに過ごし
      ておりました。
      この場をお借りしてお礼申し上げます。

      確かに当日は終日ミゾレまじりの寒い一日でした。
      にもかかわらず7、当初想定していた以上の70数名が一丸となって熱気にあふれた一夜を
           過ごしました。
      しかも新風児さんには今回もビデオの撮影までしていただきありがたく嬉しかったです。

      思わぬ遠方から泊まりがけで、しかも軽自動車を運転して雪の高速を駆けつけて来てくれ
      た仲間にはことさらに嬉しく感激しました。
      彼は大震災で会社も自宅も跡形なく流されたにも関わらず、元気に頑張っている姿を見せ
      たくて、会社の車6台も流された事もあって、やっと買った軽自動車を飛ばして来てくれ
           たのでした。
      その彼も私の歌う目の前で元気よく踊っていました。

      ついでに裏話を少したします。
      実を言うとバンドの重要なパートを受け持つナオちゃんが数日前より来年の大河ドラマの
      打ち合わせに福島に出張していたのです。  ヒョットすると本番に間に合わない可能性が
           充分にあると聞かされヒヤヒヤしていたのです。
      朝から何度も携帯に電話してみても通ぜずに様子がつかめない、会津若松を2時の新幹線
      に乗らないと絶対に間に合わないことになっていたのです。
      結果はセーフ。そのかわり衣装もゴム靴もそのままのイデタチでの登場となりました。
      楽器とハットだけは私が会場に運び込んでいたのでカロウジテ事なきを得ました。

      ついでのついでですが、当日ハヤバヤとバレンタインのプレゼントをいただきました。
      ホッペタにチュウをしてくれた人がフタリいました。
      さらにツイデになりますが… トトさんが最後の最後にやっと駆けつけてくれたのですが、
           目の前に現れて声をかけられるまでは全く誰だかわかりませんでした。 これまで見た事
      も想像もできなかったようなファションだったのです。それが実にサマになっていたので
      驚いたり感心したり…結構この人ヤバイかも(どういうイミ?)。

      キリがありませんが時間の許す限りのおしゃべりをさせていただきました。
      またの機会にはまたこの場をお借りして案内をさせていただきたいと思ってますので、そ
      の時はまたよろしくお願いいたします。




ライブ余話-2 2012年 1月23日(月)17時54分

本当にあの日のライブは、お客とバンドが一体となって盛り上がりましたねぇ。 もともと
60名が目標でチケット販売を分担しましたが、横須賀からわざわざ東京まで聴きにこよう
なんていう殊勝な奴は居ないんです。バンマスに「何とかそちらで売ってくれないか?」と
泣きついたら「今回はこちらも厳しい、そちらで何とか頑張れ!」とのこと。結局は会社の
若い衆に業務命令で行かせました。ところが結果は70数名の大盛況。 狭いところでケツ
(尻)と足をぶつけあいながらの歌え踊れになりました。どうもありがとうございました。
 新風児さんには「いやぁ!実に楽しく聴かしてもらってます」と言ってもらったし、伊藤
さんには「私は楽しむという余裕はなく、胸をドキドキさせています」。彼女はどうも我々
の演奏を、発表会で歌っている幼稚園のわが子を見ているような気持で聴いてくれていたら
しい。そういう身内のような気持ちで聴いていてくれていたというのは、本当に嬉しかった
ですねぇ。そう言えば我々の最初のライブはひどかったからねぇ。あの印象が未だに彼女に
残っているのかもしれないねぇ。最初のライブは僕がバンドに入って半年かそころらの時期
で僕と小川ちゃんはまだギターのコードもちゃんと抑えられなくて、大休止と小休止の連続
でしたからねぇ。会場の後ろで、突然あの背の高い緒方君が立ち上がった。そしてズカズカ
と近づいてきて、僕の目の前で耳を傾けてきた。後で僕は質問をした。
「あの時何しに出てきたんだ?」「お前のギターは全く聞こえないので、本当に弾いている
のか確認に行ったんだ!」 確かにあの時は僕はお休み中だった。




古希の仲間入り 2012年 2月19日(日)11時53分

先日旅人さんが古希の仲間入りをしたと書き込んでいました。僕も誕生日が2月6日ですか
ら、旅人さんのちょっと前に仲間入りをしたことになります。その日会社の女性から小さな
チョコレートを貰いました。思いもかけなかったので嬉しかったですねぇ。昔は家のカミさ
んからいつも貰っていたのですが、それが無くなったのはいつ頃でしたかねぇ?ずいぶん昔
だったような気がします。 カミさんに貰ったのはメールだけでした。 ところで旅人さんと
大阪の○○さんが同じ誕生日だというのがちょっと目を引きました。というのはこういう話
は滅多に聞きませんからねぇ。確率からすると、365人に一人は居るはずですから、同級
生の中にも同じ誕生日の人が3人は居るはずなのです。ところがこういう話、なかなか聞き
ませんからねぇ。 ちなみに僕が知っている同じ誕生日の人は、レーガンアメリカ元大統領
一人だけです。貴方は知っていますか?




親子逆転 2012年 5月14日(月)17時14分

先週義理の母親が亡くなり、我が家族は久しぶりに揃って九州への旅をすることになった。
途中僕がカバンやメガネを置いたまま離れると、「親父! はいカバン」「はいメガネ」
と言って手渡してくれるのである。「ははぁ!今まで自分の事しか考えない息子たちも少し
は他人の事に気を配ることが出来るようになったのか!」僕は内心ちょっと嬉しくなったの
である。お通夜・告別式も無事終わって一段落した時、カミさんに言われたのである。
「親父も大分耄碌してきて、何でも直ぐ置き忘れる。そろそろ危ないなぁ!」「運転も危な
いぞ!」と息子たちが言っていたそうである。「何!」僕は息子たちを 永い間見守ってき
たつもりであるが、いつの間にやら立場が逆転していたのである。「お前たちに気配りされ
るようになったら、俺ももうおしまいだよ!」と言ったものの・・・ちょっと複雑な気持ち
になったのである。



ヤッチャンありがとう 2012年 9月 1日(土)08時43分

 ヤッチャンとは旅人さんの愛称である。僕たちは中・高時代 彼をそう呼んでいた。
彼は今僕の作品を丹念に読み直してくれている。ありがたいことである。
僕は斜光の2号だけを書いていない。いまから考えてみると残念なことである。僕は0号と
1号を書いた後「もういいだろう」との思いで2号をサボったのである。ところが直ぐに近
ちゃんやミッちゃんから勧誘が始まった。「熊さんのは評判良いよ! 特に女性群に好まし
いという人が多いよ!」とか何とか、嘘か本当か分からない、旨い口車に乗せられたのであ
る。そのうちに編集委員にまで引っ張り込まれて、気が付いたらとうとう17号まで書いて
きたことになる。しかし書く作業というのは結構苦しいのである。 編集長の澤田君などは
「書くことなんていくらでもあるじゃーない」と言ってるが、彼はこれまで 文字の中で生
きてきたような人である。しかし我々あまり書くことの少なかった者にとっては、書くこと
は結構きついのである。毎回何を書こうか?ということで散々苦悶し、書き出しても「やっ
ぱりこれは面白くない」ということで また別のものに乗り換える。そうしてとうとう締め
切り期限ぎりぎりに追い込まれ「あっ!もうこれでいいや!」。毎年これを繰り返している
のである。こうして出来上がった作品は、我々にとって いわば血と汗の結晶である。
(ちょっと大げさか?) それをヤッちゃんは丁寧に丹念に読み直してくれている。
「ヤッちゃん本当にありがとう!」




秋の風景 2012年 9月 1日(土)09時00分

 「すばらしい!」荘島君はまたまた腕を上げたのでは! ずっと高い境地に入っていると
  いう気がする。




2013年

ふーけもん会報告 2013年 4月28日(日)15時19分

 第41回ゴルフコンぺが26日市原京急CC行われました。いつもは土屋常任理事がこの報告
を担当していましたが、体調不良で不参加となったため代わって報告します。
 当初は20名5組で予定されていた今日のコンペ、東島君が知り合いに不幸があったとかで
急遽不参加となり、結局19名5組で行われました。
 当日は午後3時頃から雨が降るとの予報で心配されましたが、 結局最終組があがる頃まで
日差しが残ってくれました。しかしながらこの日はかなり風が強く、コンディションとしては
ちょっと難しいという状況でした。
 優勝は井上裕人君。ハンディを上手く利用してトップをさらいました。俺の実力はこんなも
んじゃーないと思い続けて10年、やっと優勝が出来た。次回からのハンディは26とのこと、
これで秋月から今後ライバル扱いされなくて済む。本人はどうもこれが一番嬉しかったようで
す。準優勝は西村昭彦君、3位には小野敏男君の実力者達がつけました。後ろから1番目には
秋月君が座りました。彼はひと頃指定席を変えて自由席に移ったと言われましたが、また指定
席に戻ったか?

・・今回の名物男達のエピソード・・

秋月・・今日パターを忘れたそうである。「パターというのは最後に使うもの、忘れるはずは
なかろう!」「お前説明しろ!」。ここのゴルフ場はバンカーが多い、そして結構顎が高いの
である。ふーけもん会でしかコースに出ない秋月さん、バンカーの練習など全くやってない。
この日はバンカーに入りまくった秋月さんは、6発打って出なかったものだからとうとうギブ
アップしたそうである。普段は球が出れば「お前は早く先ヘ行け」と言って誰かが後の砂地整
地を手伝ってくれるが、この日は誰も手伝ってくれず自分でやらざるを得なかったようで、そ
の時パターを手から離してしまったのである。
後ろの組を回ってこの様子を見ていた西村君曰く「前の組の連中、皆冷たいよなぁ!、秋月が
バンカーで5度も6度も振っているのに、皆秋月を残してさっさと次のコースへ歩いて行った」。

・鶴・・
彼は毎回中央競馬会馬券の胴元を務めている。「熊ちゃん!この馬券の計算を代わりにやっと
いてくれんね、どんどん携帯に電話が入ってきてどうにもならん」と言って携帯を見せてくれ
た。本当に20件以上の電話が入っているのである。彼は会社を辞めても口八丁手八丁。自分
の広い人脈を利用して、自営業を営んでいるようである。今日は金曜日、ゴルフをやりながら
営業もしているのである。横で聞いていると面白い。「あぁ今日は野外研修やけん行かれんた
い!」「今日は血糖値の上がって精密検査受けんといかんたい!行かれんばい」 「今日俺の
口座に30万入るけん、あんたに5万払うたい。遠慮なく取っといてよか!」などなど調子の
よかこと。
中には「パパ!今日はこっちに顔出して」というメールも入っていた。
本当に我が同窓生、変わった個性と能力に溢れた連中が多い。誠に楽しいのである。




トマト 2013年 6月 5日(水)08時46分

昨日のサッカーの試合は良い試合でしたねぇ! ハラハラドキドキ緊張の連鎖で、本当に手に
汗を握るという試合でした。それにしても本田というのは良い度胸をしてますねぇ。
あのペナルティキック、ど真ん中でキーパーの顔を狙って蹴ったのですねぇ!
 昨日近くのスーパーに行った時、真っ赤なトマトが目につきました。佐賀産との表示に、さ
っそく買ってきて今朝のサラダに入れてみました。包丁を入れると、外側だけでなく中身も全
体真っ赤なのです。甘みはそれほどでなく、控え目な風味で、サラダにピタリと合っていまし
た。サラダに彩りを添える効果もあって、また買ってこようと思いました。




ふーけもん会報告 2013年 6月15日(土)19時39分

 第42回ゴルフコンペは 昨日14日(金)市原京急カントリー倶楽部でHDC戦を行いました。
小雨決行ということで、雨具を着たり脱いだりという生憎のコンディションの中、4組16名が
参加しました。
 結果は優勝が小生熊井、準優勝が篠原君、3位が西村君となりました。優勝スコアは省略しま
すが、ベスグロは西村君の89でした。
 私には馬名「ドラコンOB]が付いていて、ゴルフを始めて以来毎回OBを連発してきましたが、
昨日は私のゴルフ人生の中で、初めてOBゼロという珍事が発生しまして、そこで優勝にドラコ
ン・ニアピン・小波賞の他に馬券まで当たりまして、「今日は熊ちゃんデー」だと言われました。
こういう日もあるのですねぇ。
 後の表彰式・反省会もダジャレと言いたい放題の口合戦の中で、和気あいあいと言うより、
70歳台とも思えぬ喧騒の中で賑やかに行われました。




黒いギャング 2013年 7月 3日(水)12時18分

僕が目撃した黒いギャング達の話。
 早朝僕は身体を少し動かそうと近くの小学校の運動場に行きました。誰も居ないその運動場
に突然真っ黒い雲がふわふわと降り立ちました。よく見るとそれはカラスの集団で、おそらく
20羽ちかくは居たでしょう。僕は「妙な飛び方をするもんだなぁ!」と思いました。
 するとその集団の真ん中にトンビが囲まれていたのです。トンビは1・5メートル以上もあ
る羽をばたつかせてカラスを近づけまいと必死です。その羽はもう破れ傘のようにばらばらに
なっていました。カラス達はかわるがわるトンビを痛めつけた後、「もう十分に制裁は終わっ
た」と悠々と飛び立っていきました。 残されたトンビの姿を見て、僕はもう飛べないだろう
な?と思いました。トンビはしばらく地面で休養した後、破れた羽をばたつかせて、飛べるか
否かを確認していました。そして何回かの飛行訓練の後、長い助走をつけて低空飛行に入り、
よたよたしながらも何とか大空に舞い上がっていきました。
 僕はほっとすると同時に、「尾根打ち枯らした姿」 とはこのことを言うのだなと実感した
次第です。




鎌倉能舞台 投稿者:今多迷道 2013年 8月18日(日)18時25分

 堤賢太郎君の能舞台を観てきました。誘ってくれた伊藤さんが突然体調不良で欠席となり、
私が代わりに報告します。
 今日の催しは 賢ちゃんが所属している社中の夏の練成会ということで、全国各地で謡曲
・仕舞を趣味にしている人たちが鎌倉に集まったということです。総勢26人が独吟・仕舞
・舞囃子に参加されました。賢ちゃんそして女優夏樹洋子も仕舞に出られましたが、驚きま
したねぇ。いつも冗談ばかり言ってる賢ちゃんが、「きっ!」と目力の入った謹厳な顔を保
って、社中のプロと思われる4人の朗々たる謡をバックに、実に堂々と演じきりました。
 それも これぞ葉隠武士という雰囲気を醸し出す舞いでした。腹が減ったので途中で帰り
ましたが私が観た中でバックのプロの謡に負けてなかったのは、賢ちゃんと夏樹洋子の二人
だけでしたね。




新風児さんへ 2013年 9月18日(水)08時37分

 台風一過、気温が下がって一挙に秋になりましたねぇ。最近は天候もジャンプして変化す
るようになりました。新風児さんもまさに地獄から天国への旅立ちとなったようで良かった
ですねぇ。
 次のオリンピックが何故8月の一番暑い時期に決まったのか?の質問ですが、前回の東京
オリンピックの時は10月10日が一番晴れの確率が高いということで、日本で決めたので
すが、次回はサッカーとか何とか世界の色々な行事が立て込んでいるので、オリンピックは
8月にしか開けないという制約を受けたようです。
 日本の一番暑い時期に、冷房をばんばんかけて、日本中がテレビにかじりついていたら、
電気は大丈夫ですかねぇ? 電力不足で停電、石油石炭の輸入で日本の貿易収支は大幅赤字
てなことになるのでは?現在でも3兆円の赤字とか何とかいってるのに、せっかく景気回復
しても 石油石炭の購入で日本の富は外国に全部流れ出てしまっているのでは?




どうもありがとう 2013年 9月27日(金)15時56分

 新風児さん・トトさん! 大変良い話、どうもありがとう!
しかし屋上に誘導する時間はあるが、別の場所へ誘導する時間はないという判断は、どこか
ら来たのでしょうか? どんな根拠があったのでしょうか?
そのような感が働いた人は 全くラッキーな一握りの人たちだったのでは? 何故なら殆ど
の人が判断ミスをして亡くなっているのですから。




ボイトレ 2013年 9月30日(月)10時36分

 鳥星さん! 腰の痛みはやっかいですからねぇ。 今度は完全に治してから出てきてくだ
さいよ。
 旅人Mさん! 津軽の旅は無事終えたようで、御苦労さまでした。しかし我々の年代、特
に70を越してからは、筋力の衰えの早いこと早いこと。 Mさんもそろそろ あまり無理
をしない方がよろしいのでは?

 私事です。バンバンドのライブの時、自分の声が全く聞こえないということがたびたびあ
って、自分の声量の無さは何とかならないかなぁと思っていました。 たまたま家の近くに
ボイストレーニングをやっている音楽事務所を見つけ相談に行きました。「70を過ぎてま
だ声がでるようになりますかね?」「大丈夫ですよ」と言われボイトレを始めたわけです。
リップサービスかもしれませんが「熊井さんは上達早いですよ」とか何とか言われて、今も
まだ続けています。先日先生に「生徒さん達の発表会をやります。熊井さんも出てみなさい」
と言われ、独唱で「出船」を歌いました。ピアノ伴奏だけでマイクも何も無し、中ホールの
客席に向かって一人で歌うのですが、自分の声は出て行ったまま帰ってきません。
幸か不幸か?その日は台風18号が関東に接近した16日でした。 客席はガラガラ、大体
家のカミさんにも「台風がくるから聴きにいくの止めた!」と言われたくらいです。どこの
家族も敬遠してくれたようで、お陰であまりあがることもなく何とか歌い終えたわけです。
 そして昨日29日は「安田宗弘と門下生のジョイントコンサート」が開かれ、先生とその
門下生10人がナポリ民謡と日本歌曲を歌いました。もちろん我々の発表会は無料でしたが、
こちらの方は有料¥1500を取ります。それでもホールはほぼ満席でした。
 先生奥田宗弘は昭和16年生まれだそうですから、偶然にも我々と同級生ということです。
武蔵野音大声楽科二期会会員。イタリア留学時はオペラなどに出演、向こうでも活躍したそ
うです。 先生の歌は素晴らしかったですねぇ! 声の迫力・伸び・歌の説得力は圧倒的で
した。その門下生も実力は十分、プロに殆ど遜色なし、その美声はホール中に響き渡りまし
た。後で僕はその門下生に聞きました「貴方はどのくらいやっとられますか?」「僕は大体
20年ぐらいになります」「えっ!20年!、そりゃー駄目だ! 俺はそのころには既にあ
の世に行っている!」。



2014年


ガッハッハッハッ・・・・!! 2014年 1月23日(木)04時34分

 A会長さん! 誠に珍しい記録、おめでとうございます。 ガッハッハッハッ。



      MB会でのノーホーラー&今多迷道さん久しぶり!投稿者:K.A 投稿日:2014年 1月23日(木)
      ついにMB会広報部の方にバラサレテしまいました。
      小生の50年余りに及ぶ「輝かしい雀歴」からは想像も出来ない事が起きました。
      半荘(ハンチャン)を4回やったのですが、全てノーホーラー(1回も上がれない事)でした。
       現役のころ、半荘がノーホーラーの場合は罰金というルールでやっていましたが、ノーホー
      ラーになっても精々半荘1回のみ位でした。
      でも悪運は使ってしまったので、今後は麻雀だけでなく全ての事でツキマクリそうです。
       今多迷道さん久しぶりです。貴方が参加しないとMB会でも勝てません。よろしく!!臣

9

 

落書き2004(3)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月23日(日)16時32分32秒
返信・引用
  .

                 落書き 2004(3)

                             ペンネーム 今多 迷道
                   『落書き帳』






ふ-けもん会報告(その2)   2004年9月22日(水)11時58分

もう10日も前の話である。忘却の彼方に薄れつつあるが、約束であるので「よもやま話」
として思い出そう。
*そうそう宿泊先のペンションの昔のお嬢さんからの写真、いまだ到着せず。おそらく着信
メ-ルはあったが、「ウィルスが発見されたので添付資料を破棄します」のメッセ-ジあり。
多分あれだったのであろう。
*まず第一に報告すべきこと。一日目のペンションでの夕食前、居ても居なくても常に話題
を提供してくれる秋月君を「ふ-けもん会」のアイドルとすることで衆議一決した。
「あの顔で?あの頭で?アイドルとは?」本人自身もかなりの違和感を感じているようであ
ったが、皆が決めたこと、仕方が無い。
*ゴルフで目立ったのは深瀬・山田の両女性であったろう。二人とも女子プロ並みのスム-ズ
なスイング。山田さんは丹下左膳かイチロ-か? 左手のクラブを立ててアドレスに入る。
アドレスに一定したリズムを持っているというのはうまい証拠である。深瀬さんは飛ばし屋
である。男性の飛ばし屋 原・西村・緒方がいくら頑張ってもフロントティ-からの彼女の
飛距離には及ばないのである。副島君曰く「あれじゃ-男か女か分からん」
「深瀬さん!男女同権、お願いだから、貴方も我々と同じレギュラ-ティ-から打って!」
と哀願していたが、さすがに体育の先生「男と女は筋力の差が20%あります、それは駄目
よ!」とあっさりかわされた。
*カラオケとなったら緒方君、マイクを持ったら離さないタイプ。カラオケも同好会で特訓
中らしく、進境著しい分、益々しゃしゃり出てくる。ひとが歌っていると「おい!もっと感
情を込めろ!」とはっぱをかける。この歌は良いなと思うと、一番が終わったところで、ひ
とのマイクを取り上げ自分で歌いはじめる。取り上げられたほうの残念そうな顔におかまい
なし。やっと二度目に回ってきたマイク。二番まで歌えた「やれやれ今度は最後まで歌える
な!」と思った途端、強制的に曲をストップされて「はい次!」。
意外なのが「うどんこ」さんが言ったとうり、鶴君と秋月君。ム-ディな曲を歌うのである。
特に鶴ちゃんは、坊主頭にサングラス、黒っぽい服に身を包んだ姿は、どう見てもどこかの
組のヤ-さん。それが「思い出のサンフランシスコ」とくる、それも英語で歌うのである。
「おぉ-!」感嘆の声が出る。
夜もふけた。明日もゴルフがある。そろそろ寝ようかな?と腰を上げようとすると「俺が今
から歌おうとしてるのに帰るのか?」と緒方君。浮かした腰を下ろして、とうとう最後まで
付き合わされた。
*盛り上がった団欒の中に、辛辣で面白い一言を投げ入れるのが上手い武石君。「緒方!お
前も随分変わったのぉ。高校の頃は処女の如く純情可憐だったのになぁ」。彼の家はどうも
奥さんとギクシャクしているようである。僕の家と同じである。彼がどういう発言をしたか
はここではオフレコとする。ひょとして奥さんがこのホ-ムぺ-ジを覗いていたら、レッド
カ-ドを出される恐れがあるからである。それに比べて仲のいいのが西村夫妻である。聞く
ところによると、10月予定の同窓会を蹴っ飛ばして、二人で沖縄へスキンダイビングに行
くそうである。西村君には海底がいかにすばらしいか、技術についても薀蓄をかたむけて説
明を受け「俺もやってみようかな?」という気にさせられたが「まぁ、勝手にやってくれ!」。
*帰りの車中での話。秋月君の頭の話となった。「秋月、お前も散髪屋に行くのか?」
「当然行くさ」「お前その頭どうやってくれと頼むんだ?」「一度説明して、途中でわから
なくなって聞き返してくるような床屋には、二度と行いかない。ガハハハ!」「いや最近は
散髪時間が短くなってな、若いのが隣で俺が床屋に入る前からやっているのに、はい終わり
ましたと言われたのに若い奴はまだ終わってない。それなのにちゃんと一人前要求されるの
は、何と無く割り切れんなぁ」「秋月お前はいくら払うんだ?」「ちゃんと¥3500円か
ら¥4000円ぐらい払ってるよ。安くていいなんて言われたらプライドが傷つくじゃぁ無
いか。俺はちゃんとはらうよ。ガハハハ!」
「確かにお前の散髪、考えてみると難しいよな。こちら側から長い髪を立ち上げて、こうい
う風にぐるぐるっと廻して・・・・、一本でも髪を落としたら訴えられるかもしれないしな」。
まぁこんな調子である、自分の頭を刺身にしての話に、自分も一緒になって「ガハハハ!」
と笑っている秋月君のこのおおらかさ・底抜けの人の好さ、まさにアイドルの面目躍如であ
った。
*まぁ全工程、腹がよじれるくらいに笑いっぱなしの二日間であったと思っていただきたい。




      ふ-けもん会報告(その2)の感想投稿者:粗衣誼彙  2004年9月22日(水)16時22分

      今多 迷道さん、これは可笑しかった!
      お腹の皮がよじれるくらいだった。
      いや~、もうよじれてまだ元に戻らない!
      助けて~。




テレビチャンピオン   2004年9月27日(月)10時35分

桜井君、街で行き違ったら分からないでしょうが、これでイメ-ジが分かりました。
近藤君から紹介のあった,テレビチャンピオン、見ましたよ! 「NAP」代表安田さんが逆転優
勝しました。おめでとうございます。それにしてもあんな才能ある人達に、安定した仕事が無
いというのは、お気の毒ですねぇ。芸術という抽象的なものの評価は難しいですからねぇ。
一部の認められた人の作品はべらぼうな値段がつき、認められなきゃ貧乏を余儀なくされる。
世の中色々ありますねぇ。




子供に返る。   2004年10月 4日(月)16時46分

歳を取るとだんだん子供に返るといいますが、このところ子供に返ったおじさん・おばさんが
増えてきましたねぇ。




隣の奥さん   2004年10月 7日(木)10時12分

うちの家内は近所の奥さん達と、毎月少しづつ貯めたお金で、 ちょっと豪華な食事とおしゃべ
りを楽しむ会を持っている。 先日も話は大いに盛り上がり、楽しいひと時が終わってお開きと
なった。皆部屋の出口でワイワイ言いながら靴を履きはじめた。 隣の奥さんが「あら!私の片
方の靴が無いわ!」と言った。 「えっ!」と心配しながら捜したが見つからない。そのうち皆
自分の靴を履きおえた。 すると明らかに色合いの違う片方の靴が残った。「誰か他のお客さん
が、間違えて履いていっちゃったのよね?」。 と「あっ!」と言って隣の奥さん、赤くなって
うつむいた。「これも私の靴だわ!」。
やりそうな人沢山居るよな。皆さん注意してください。注意しても駄目か?




言葉集め星創り   2004年10月12日(火)16時33分

車を運転しながらいつものように演歌を聞いていた。 五木ひろしの「横浜たそがれ」に変わった。
   横浜 たそがれ ホテルの小部屋、 口付け 残り香 タバコの煙。
   ブル-ス 口笛 女の涙 ~
「あっ!そうだ!」北君の「言葉集め星創り」と同じ方法・構成ではないのか?
述語を使わず、言葉を並べていって、そこからイメ-ジを作らせていく手法は全く同じではない
のか?と思いついたのである。
北君は斜光のパイロット版より「言葉集め星創り」を連載しているが、俺にはよく分からなかっ
たのである。 「そうだ!言葉一語一語の前後の意味にあまり拘らず、言葉の集合としてイメ-ジ
を膨らませれば理解できるかもしれない」。早速家に帰ってパイロット版を引き出した。
何と無く分かったような気になった。創刊号を引き出した。これも分かったような気になった。
第2号を引き出した。 辞書 掛かる 自転車 職人 とおせんぼ 一緒 混ぜる 牛乳
抱える 沼 やどかり…。
やっぱり我輩の貧困な想像力では理解不可能である。
塩野七生が言っていた。凡人は天才を理解できない。秀才は天才を理解できる。しかし自分
にそれほどの能力が無いことも知っているので、 しばしば悩んだり、嫉妬したりということが
ある。
どうもこの件、この凡人と天才の関係みたいである。
どなたか秀才さん、解説してくれませんかね?




      今多さんへ 投稿者:ランゲルハンス島の住人2004年10月12日(火)19時40分
      「斜光」第4号「特設コーナー-作品に一言」のなかに北 勲氏の「言葉集め
      星創り」を読んでという一文があります。難文を私なりに解釈したもので果たし
      て的を射た物か、今多氏の共感が得られるかは判らないが一読してみて・・・。




      初恋の人が亡くなりました投稿者:藤澤みつる 2004年10月23日(土)17時43分
      初恋の人が亡くなりました。
      奥様から丁寧な通知をいただきました。
      その前文をここに書いてみます。

      夫 M 儀 肺がんにより去る九月二十日逝去いたしました。 享年六十三
      歳でした。
      ここに生前のご厚誼に心より御礼申し上げ お知らせいたします。
      Mは、三十年に及ぶ人工透析に耐え、昨年十月、二週間の入院で頚椎の手術を
      乗り越え、今年八日から肺炎で二ケ月入院しました。 その間も病室で仕事を
      し続けました。 そしてその後肺がんが見つかりましたが、すばらしい医師に
      恵まれ、多くの方達に支えられて、家で最後まで病と闘い共存しながら仕事を
      つずけておりました。 家族にとりましても、Mとの貴重な時間をもてた事は
      幸せでした。
      Mは、亡くなる前日まで肺がんとの共存を諦めておりませんでした。ジェトロ
      認定貿易アドバイザー資格更新のためのレポートを、亡くなる前日に仕上げ、
      亡くなった日に送付しておりました。
      まさに佐賀鍋島藩の武士の血を引く人でした。
      葬儀は故人の遺言により身内だけで滞りなく営みました。
      通知が遅れましたことをお詫びし書中をもってご報告いたします。

      私は彼と中学時代の同級生で、その頃の彼は白面の貴公子で秀才でした。
      彼の人生は壮絶な病気との闘いでしたが、 奥様の文面から彼に対する尊敬と
      愛情が読み取られ唯一救われたような気がしました。

      心からご冥福をお祈りいたします。




藤澤さんへ   2004年10月24日(日)16時52分

何番目の初恋の人かは知りませんが?本当に残念ですねぇ。しかし彼には良い思い出が残
っているようですし、その思い出は今後ますます美しくなるばかりでしょう。
23日は関東の同窓会でしたが、やはり今年も数人の物故者が報告されました。
終幕後の舞台で、舞台を照らしていた沢山のライトが、ひとつひとつと消されていくよう
な、何かそんな感じですよね。しかしまだ沢山のライトは残ってますよ。
まだまだ舞台は明るいんです。
来年は45周年、沢山の人に参加して貰いたいし、そこでまた沢山の人に会いましょう。




藤澤さんへ   2004年11月 3日(水)14時35分

鬼の爪は僕も先週31日に観ています。倍賞千恵子はどこで出てきたか?
前半、主人公・長瀬の家の中、親友の吉岡も呼ばれての食事の場面がありました。長瀬の妹
は吉岡と婚約をした仲。長瀬が言います「今日のお汁は誰が作ったのか?」妹がすぐに答え
ます。「私が作りました」。 「嘘だろう、おみね(長瀬の家に見習い奉公にきている松)
が作ったんだろう」と茶々をいれます。「大根は私が切りました」「これかぁ!」摘み上げ
ると、切れていない大根がずるずると繋がって上がってくる。一家団欒の場面です。そこで
母親役か?伯母役か?(本を読んだのはもう10年も前のことなのでどうも判然としないが)
倍賞千恵子が吉岡に問いかけます。
「長瀬の家と吉岡の家では家格がまるで違う。 それなのに何故妹を貰ってくれるのか?家
の反対があるのではないか?」「嫁を貰うのは私です。家ではありません」きっぱりと現代
風の返答をします。「しかし一つ問題があります」皆何事か!という顔をします。
「これから長瀬を兄じゃと呼ばなくてはならなくなります」。皆がどっと笑う。前半のまだ
平和な時代です。
この場面だけに出てきたはずなので、母親役ではなかったと思いますが?いずれにしても楠
葉さんは必ず観にいくはずですから確認してもらいましょう。
それにしても長瀬・吉岡の着物姿がもう一つピタッときてませんでしたね。一方松の、奥ゆ
かしい昔の女性の何ともいえない魅力がすばらしかったですねぇ。最近はこんな女性見当た
りませんからねぇ。




      今多 迷道さん、ありがとう 投稿者:藤澤みつる2004年11月 3日(水)15時19分
      そうでしたか。 倍賞千恵子は主人公の母親でしたか。あの和やかな場面はしっ
      かり覚えています。 それにしてもほんの一場面だけでしたね。これでゆっくり
      安心して眠れます。 最近、人の名前が思い出せなくなったりしたら思い出すま
      で気持ちが悪いです。 どうもありがとうございました。




間違い   2004年11月 3日(水)17時34分

鬼の爪の奉公人(松たか子)の名は「おみね」でなく「きえ」でした。
中島さんきっちりと覚えていますねぇ。鳥博士の観察眼と明瞭な記憶力はさすが、僕のような
ボ-としてるのとは、ぜんぜん違いますねぇ。




つれづれなるままに   2004年11月14日(日)12時26分

一昨日の晩から塩原温泉泊まりでゴルフをやってきました。遊んだ分溜まった仕事を掃くつも
りで今日は会社でパソコンに向かってます。
新風児さん・うどんこさんのボ-リングの話に乗って、僕の思い出話。
昭和39年東京オリンピックの年に就職して3~4年たった頃だからまだまだ若かった頃、一度
は外国へ行ってみたいなぁと思って、手ごろなグァムへ行くことに決めました。グァムへ行くな
ら英会話と水泳ぐらい出来なくちゃ-と思って、半年ぐらいかけて英会話の勉強を始め、水泳は
横浜の温水プ-ルに通いました。 水泳はいまだに続いていますが、英会話はその後まったくや
ってませんのでまるで駄目になりました。 あのまま続けていれば!と今頃になって後悔してい
ます。
その間友達に一緒に行こうと誘いますが誰も乗ってきません。とうとう一人で行くことにしまし
た。行く段になって友達が「グァムなんて新婚旅行で行く所じゃないか、お前一人でいくのか?」
なんてぬかしやがるので「彼女は現地調達するから問題ない」と言って出かけました。
そう言ったてまえ、 現地についてすぐ、日本人女性3人ずれを見つけてアプロ-チしました。
ところが簡単に撃退されてしまいました。やはり慣れないことをしても駄目ですなぁ。とうとう
一週間の滞在を観光・サ-フィン・スイミング・ボ-リング・映画館等々、一人で遊び回ることに
なりました。
ボ-リング場に行った時、システムは日本と殆ど同じでした。当然と言えば当然の話ですが。
まず申し込み用紙に書き込みます。 ところが何時まで待っても名前を呼ばれません。おかし
いな?と思って確認に行くとやはり僕の順番は通り過ぎています。今度は「K.Ree」と名前を変
えて申し込みました。呼び出しのアナウンスは今度は間違いなくわかりました。靴を借りにいき
ました。
行ってみて驚きました。 巨大な靴が並んでいて、みんなブカブカです。子供用の靴は何処か?
と聞いてやっと自分にあう靴を探しあてました。トイレに行きました。便器が皆高すぎて爪先立
たないと用がたせません。一体小さな子供は何処で用足しするんだろう?と不思議に思ったもの
です。プレイ中もカルチャ-ショックをうけました。周りは外人さんばかりですが、多くの子供
を連れて一家で楽しんでいるグル-プやカップルで来ている人たちばかりでしたが、皆下手糞で
す。下手糞ですが皆、実に楽しそうに身振り手振りもオ-バ-です。僕は一人で黙々とプレイし
ていますが、僕がストライクを出すとまわりから拍手が沸くんです。そのうちに隣のカップルが
点数を付けてやろうと言ってきて勝手に付けてくれます。ストライクを出すと両手を上げて騒ぎ
ます。アメリカ人というのは何と陽気で社交的なことか?とびっくりしました。
当時の日本人といったら、音楽会に行っても手をたたくぐらいが関の山、身体を揺すったり、声
を出して立ち上がったりなんてしませんでした。外タレなどは、日本人はなんと無愛想な奴らだ
ろうと思ったことだろうと思いますよ。いずれにしても少なからないカルチャ-ショックを受け
たことを思い出しました。
僕のスコアも、 一頃は200アップが時々出るということがありましたが、今ではボ-ルが重
くなって、うどんこさんとチョボチョボです。新風児さんの180連発はすばらしい。




ワイン談義から   2004年11月29日(月)15時43分

ワイン談義が盛んですねぇ。味わいかたも色々と奥深いんですねぇ。 人間の恋人はもう無理、
そこで酒こそ第2の恋人という深い思い入れが伝わってきますねぇ。 僕のような下戸にはそこ
のところがさっぱり分かりませんけどね。
確かに先日も山形に行った。 前夜散々飲んで、翌日のゴルフ。昼食時に迎え酒と言って飲み、
帰りの新幹線に時間があるからと言って酒の出る店に入り、新幹線に乗り込む時に又酒を買い
込んでくる。「全く!酒はそんなに美味いののかね?」と言うと、「美味いねぇ、この陶然と
した気分は何とも言えないねぇ!」と言う。 僕には酒は「正露丸」を飲むようなものである。
苦痛である。
「金を出して飲まなくて済むなら、俺は金を出す」と言うと、「お前は何と不幸な奴だ!」と
蔑ま
れるのである。こんな調子だから僕は昔から「アッシ-君」の役を担ってきた。
同窓生の中にも、「これは一人で帰したら危ないなぁ」というヘベレケ状態で送っていった御
仁は沢山いる。
次号の「斜光」は第10号となる。何を書くかネタ探しをしなくちゃ-ならないが、この友達
の酔態(醜態)模様を実名を入りで書いたら受けるだろうろうなぁ!
てなことを言うと、「そんなことは止めてくれ!」 と言ってきそうな御仁の顔は、数名すぐ
に浮か
んでくる。中には、とにかく昨晩のことは何にも覚えていないんだから、自分が書かれる対象
になっていることさえ全く気づかない御仁も居られるだろう。どうしたもんかなぁ!
「ウッシッシッシ」。




郷愁   2004年12月 6日(月)17時56分

先日グレンミラ-オ-ケストラの演奏をかぶり付きで観て来た。昔よく聴いたスタイルをそのま
ま受継いでおり、そろいの服、そろいのネクタイで真面目な紳士揃いの豪華なビッグバンドで
あった。
ある時は、指揮者のラリ-オブライエンが大きなジェスチャ-で耳を塞げという。何事か?と思
うとトランペッタ-が5人も舞台の前面に並んだ。舞台から速射砲のように噴出される音の矢は
会場中に乱反射し反響した。 またある時は、夕焼けに染まった空を背景にした黒いシルエット
の摩天楼街。甘-いメロディ-が夕闇迫る街角に流れ渡る。 トロンボ-ンがあんなにソフトで
繊細で暖かい音色を出すとは?初めて知ったのである。

自分の部屋にはもう新しい本を入れる余裕が無い。それじゃ-買うのを止めて、昔読んだ本を
引っ張り出して再読することにしよう。と思って藤沢周平の「蝉しぐれ」を読み直した。
藤沢作品というのはやはり、馴染んだ服のように自分にしっくりくるのである。何故だろうか?
例えば自然とか季節の描写。 昔九州の田舎で見た、思い出のある自然が描写されている。
日本的な人間の内部に抱いている自然である。描かれる淡い恋や友情も、かって自分もどこか
で経験したことがあったような気がする。
その潤い・情緒・暖かさが懐かしく郷愁を誘うのであろうか。

新風児さん・らくちゃん(この人は僕は知らないけど)・田村さんの妹さんなどの文を読むと、
外国に住んでいるだけに特にこの郷愁が強いのではなかろうか?




テレビチャンピオン   2004年9月27日(月)10時35分

桜井君、街で行き違ったら分からないでしょうが、これでイメ-ジが分かりました。
近藤君から紹介のあった、テレビチャンピオン、見ましたよ!「NAP」代表安田さんが逆転優
勝しました。おめでとうございます。それにしてもあんな才能ある人達に、安定した仕事が無
いというのは、お気の毒ですねぇ。 芸術という抽象的なものの評価は難しいですからねぇ。
一部の認められた人の作品はべらぼうな値段がつき、認められなきゃ貧乏を余儀なくされる。
世の中色々ありますねぇ。




      隠し剣鬼の爪 をみました 投稿者:ランゲルハンス島の住人  2004年12月13日(月)10時54分
      昨日有楽町ピカデリーで「隠し剣鬼の爪」をみました。
      いい映画でしたが何点かの疑問がのこりました。
      1. 先に公開された「たそがれ清兵衛」に筋が酷似。同じ藤沢周平の作品だから
      部分的に似るのはしょうがないが、あそこまでそっくりさんの映画をつくるとい
      うことは、柳の下のドジョウを狙ったととらえられてもしかたがないのでは?
      2. 武士の魂を大事にする生き方なら、決闘の相手を嵌めるような業を使ったこ
      とへの葛藤はないのか?「隠し剣鬼の爪」は結局どういう業だったのか?
      3. 悪家老の暗殺を私憤のみで正当化出来るのか?

      以上の疑問にだれか答えを教えて・・・。
      「烏のかって」ですがどちらかを既に観た人はもう一作は観ない方をおすすめ
      します。




ランゲルハンス島の住人さんへ   2004年12月14日(火)09時45分

だいたい貴方は何かにつけて理屈っぽいんだよ。似ていたっていいんです。そんなことを言った
ら恋愛物だって、くっ付いたり離れたりの繰り返しで似たようなものです。そういう見方をして
いたら小説もテレビも見るもの無くなりますよ!
その筋の中に、「ほろり」とさせるものがあればいいんです。僕はワンパタ-ンの典型と言われ
る「水戸黄門」も楽しくみてます。
「鬼の爪」? 理屈にあわない、見ていても分からないから秘剣なんです。あまり考えないでく
ださい。
今日のテレビで「剣客商売」が又始まる。 楽しみである。




      今田迷道さんへ 投稿者:ランゲルハンス島の住人  2004年12月14日(火)10時37分
      藤沢周平ファンとしては許しがたき批評とおもわれたか、まさに小生狭間弥市郎
      の役どころ、今田氏の秘剣で一本とられましたな。 夫婦喧嘩したときよくカミ
      サンから「貴方は理屈ぽ過ぎる」と非難されます。有無を言わさずぶん殴るとい
      う「肉体言語」を使用した方が後腐れがなくてすっきりするんですかね?
      今まで一度も手を挙げたことはないが、いつか試してみてもいいか・・・。

      たしか理屈をこねてあら捜しするよりにヨン様、ベッカム様と走りまわっている
      人たちが一番幸せな時間をすごしているのかもしれないね。

      「剣客商売」は私も大好きです。今日からまた始まるんですか。




      理屈っぽいついでに! 投稿者:ランゲルハンス島の住人  2004年12月15日(水)09時40分
      疑問に残っていたあの技が判りました。
      今朝、なにげなくあの「隠し剣 鬼の爪」の技はいったいなんだったのだろうと
      つぶやいたら、そばにいたカミサンが「悪家老を暗殺した技よ」と事も無げに言
      ったのであります。 そうか小柄を指の間に挟み鋭く突き上げ家老の心臓を一
      突きにしたあの技(鬼の爪のように見える)だったのだと小生は不覚にもいまご
      ろ納得したのであります。
      これからは、小生の隠し事をすべてお見とうしの技をカミサンは会得しているこ
      とが判明し、ゆめゆめ油断は禁物という結論にいたったのであります。




再びランゲルハンスさんへ   2004年12月15日(水)12時26分

やや! 狭間弥一郎!。 永年、斜光で「狭間シリ-ズ」という小難しい屁理屈を書き綴った男!
まさに狭間弥一郎ではないか!
たまには秘剣を使って奥さんに一矢報いてはどうか? その調子じゃ-、やっぱり無理か?

O-CYANへ。ギャラリ-の写真。夫婦生活経験の短いO-CYAN。久方ぶりの夫婦気取り、なかなか
よく似合っているんじゃ-ないですか?
箱根スカイラインの標識を見て思い出しました。まだ独身時代、ゴ-ルデンウィ-クにキャンプを
張りながら富士五湖巡りをした時、この箱根スカイラインを通っていきました。5月といえば霧
が出て、ここから富士全景を見ることは非常に難しいはずですが、その日は紺碧の青空に雪を被
った富士山がくっきりと見えました。箱根スカイラインを過ぎて富士の裾野に向かう途中、眩し
いくらいの陽光が溢れ、輝く新緑の樹海を駆け下りながら見た富士の裾野の雄大さは、 まさに
圧巻でした。
何度も富士は見ていますが、あの時の富士が一番だったと今でも鮮明に思い出します。




      今多さん、元気? 投稿者:0-chan  2004年12月16日(木)08時58分
      「短い夫婦生活」、「夫婦気取り」ねえ、、、痛い所というか、恥ずかしい所という
      か、ちくちくと隠しもった鬼の爪でつついて憂さを晴らしているのかな?ランゲルさ
      んもやられてたけど、優しい今多さんにしてはちょっと心配な言動です。仕事が大変
      なのかな?それとも持病の腰痛?

      そしてこの恥ずかしさの増したギャラリーは、さっさと他のに変えて下さいね、管理
      人さん。江島さんも居心地悪くもじもじしてると思うよ。

      なーんて書いたけど、全く気にしてないよ。 仲間内でじゃれあっただけでーす。




申し訳ない   2004年12月16日(木)10時04分

大変申し訳ありません!ちょっと悪ふざけが過ぎたようです。そんなにまともに取られると困る
んです。茶化したつもりだったんですから。いずれにしても反省します。

先日の新聞に載っていました。「へそくり」というのは、かっては女房族がやるものであったが、
今は違うそうです。旦那族がやっておくべきだ。なぜなら定年退職した後、今小使いに困ってい
る旦那が非常に多いそうです。
その点は僕は成功しました。退職金を半分にして、こっちはあんたが管理しなさい。こっちは俺
が管理すると言って分割したんです。そして夫々勝手に自由にやっています。が、もともとケチ
な女房、持ちなれない小金を持つとますますケチになったようです。全部渡していたら僕も同じ
目にあっただろうと思いますよ。 「しまった!」と思っている旦那、 相当居るんじゃ-ないで
すか?
もう遅いんです。




ちょっといい話   2004年12月27日(月)10時12分

僕にとっても何も無いクリスマスでしたが、それに因んでちょっといい話。
「社会人になりました」
開店準備に追われ忙しい時、「ガラッ」と店の入り口が開きました。「いらっしゃいませ」と顔を
あげると、一人の青年がキリッと立って、こちらを見据えています。見るとピカピカの背広を窮屈
そうに着ています。
「何か?」 と聞くと、 しばらくの間口ごもり「あの時はごちそうさまでした。本 当に嬉しかっ
たです。社会人になったら一番最初にお礼にくるつもりでした。忘れませんでした」とピョコッと
頭をさげました。
私には思い当たりません。 彼は堰を切ったように話始めました。彼が中学2・3年の頃新聞配達
をしていて、夕方配達する時間に、私がラ-メンを作って待っていてくれたというのです。
思い出しました。雨や雪の降る夕方、手やホッペを真っ赤にして配達してくれた少年が居たことを。
ほんの数回、熱いラ-メンを食べるように言ったことを。
そんな私の気まぐれからしたことが、彼の記憶に残り、 わざわざお礼を言いにきてくれたこと、
かえって気恥ずかしく、「日々感動!」に生きたいと思っている私にとりまして、感激して教えら
れることで、心の中に花が一輪咲きました。
今ではその青年も、さぞ素敵に人生を歩んでおられることでしょう。私こそ、本当に有難うござい
ました。




歳の暮れ   2004年12月31日(金)11時01分

今年もはや一年が過ぎました。仕事も何とかケリがつき、家の大掃除も終わり、正月の飾りつ
けも終えました。今は何もかも終わった時の開放感を味わっています。
今年は日本の内外で、沢山の不幸な出来事が頻発しましたが、僕個人にとっては非常に充実し
た一年になりました。特に佐高の同期生には沢山遊んでもらいました。斜光で、ホ-ムペ-ジ
で、そして色々な同好会サ-クルで。 本当に有難うございました。
今日はこれから雪になるようです。今晩は紅白歌合戦か?K-1か?ゆっくりテレビでも観て歳
を越しましょう。。。

9

 

落書き2004(2)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月23日(日)16時23分26秒
返信・引用 編集済
    .

                 落書き 2004(2)





小池女史のご逝去によせて   2004年6月22日(火)09時27分

「斜光」編集委員の皆様へ
我想龍二郎さんがどなたかは知りませんが、この「小池女史のご逝去に寄せて」を本人の
承諾を得て、斜光9号に載せられませんか?
小池さんとは何度かお目にかかった程度ですが、彼女のイメ-ジからも「なるほど!」と
思える良い追悼文になっている。延期した締切日に一日遅れですがいかがでしょうか?




シネマでジョイ   2004年6月27日(日)13時22分12秒

僕もシネマ会の端くれなので、観た映画の紹介ぐらいはしないといけないだろう。
誰だったか?「塩野七生」に凝って、彼女の著作を殆ど読んだという人が居た。「異風者」
さんだったかな? 僕も今「塩野七生」に嵌り込んでいて、文庫本を次々と買い漁り、読み
継いでいるところである。
塩野七生は、ギリシャ・ロ-マ時代の都市国家の態様・政治システム・ギリシャ・ロ-マ人の
気質・戦争様式・名将達の人間性から戦略・戦術・その陣形まで解説してくれる。
「ハンニバル戦記」の下巻にかかったところで、天才的カルタゴの名将・ハンニバルと同じ
くロ-マの若い名将スキピオとが、いよいよアフリカのザマであいまみえるというクライマ
ックスにかかったところある。僕はちょうどこの時、ブラッド・ピット主演「トロイ」を観
たことになる。
絶世の美女ヘレンをめぐる二大都市国家スパルタとトロイの争いである。
トロイの滅亡はハンニバル・スキピオ時代より少し前であるが、この映画はこの時代の都市
国家の造りや軍船の造り・戦闘の仕方・神々と信仰等々塩野七生が解説してくれたものを視
覚的に補強してくれた訳で、非常に有意義な歴史の勉強になった。
それにしても古代の戦士の「名誉へのこだわりは死に優先する」というのは、洋の東西を問
わず、特に名将と言われる人に強烈に存在していたことを実感したねぇ。現在の特に日本人
はもう亡くしてしまったんではありませんかねぇ?
そういえば高校時代だったと思うが?「トロイのヘレン」という映画を観ている。あの時の
主演はヴィクタ-マチュアだったか?違ったかかな?ヘレン役の女優さんは忘れた。
ヴィクタ-マチュアが「ヘラクレス」という映画の主演を演じたのは間違い無いが?
どなたか「トロイのヘレン」憶えていませんか?




トロイのヘレン   2004年6月28日(月)17時24分

ロッサナ・ボデスタ、思い出しましたよ。そうそうブリジッド・バルド-も評判になりました。
中学生の時でしたかね? そういえば小学生の時は映画館も無い田舎の村に住んでいて、映画
といえば、校庭に白い幕を立てて、裏からも見れる臨時の映写会でしたねぇ。
あのころは母物が多く、随分泣かされましたよ。ちゃんとした映画館に行くのは正月や彼岸ご
もりの時など特別な日で、隣町までテクテク歩いて観に行ったものです。
西部劇も随分観ましたよ。ケビン・コスナ-の出る本格西部劇ね?見逃さないように気をつけ
ておきましょう。
ところで楠葉さん!尾瀬行きはどうなってます。私は泊まりでも何でも結構ですよ!行くなら
早く日程を決めてください。スケジュ-ル調整が難しくなります。それとも延ばしますか?




返信   2004年7月 5日(月)10時05分

O-CHANの英語表現のネタが沢山集まったそうで、暫くは楽しめそうですね?
英語にはあまり縁がなく、あまり得意じゃありませんから、回答をよせるのはあまりやりませ
んが僕のように声無き読者は結構居ると思いますので、めげずに続けてください。
先日のMB会、結構上品だった? やはり新人の女性がはいると、会長も結構気を使っていたん
ですねぇ。
うどんこさんの釣り。この深山幽谷の雰囲気、いいですねぇ! この雰囲気は好きですが、こ
のままじっと立ちっ放しで、待ちっぱなしというのが、僕は考えただけで駄目なんですよねぇ。
釣り同好会の北原君に何度も誘われているけれど、船酔いはするし、釣っても魚を捌くことも
できないし。どうもねぇ。うどんこさんのように、ちょっと出来た時間!さぁ釣りに行こう!
というその原点はどこにあるんでしょうかねぇ? 不思議ですねぇ。僕は、そうして誰かが釣
ってきた魚を、そして誰かが捌いてくれた魚を、ただただおいしくいただくだけですねぇ。
これが一番得ですねぇ。




追伸   2004年7月 5日(月)11時01分

もう一つ書こうと思っていて忘れてしまいました。
鳥星さん。彼の博識ぶりにはいつも感心していますが、何で右翼とまで分かるんですかねぇ。
そういえば「斜光」9号の鳥星さんの投稿に、鳶がからすに取り巻かれますが、からす共を
一羽の鳶が圧倒する場面があります。(これは皆さんまだ読んでないでしょうが、僕は校正
で読みました。)
ところが僕は先日逆の場面を目撃しました。近くの小学校の校庭、僕一人しか居ない早朝の
ことです。茶色の大きな鳥がからす4~5匹に取り巻かれたまま、何か慌しい雰囲気で校庭
に降り立ちました。茶色の鳥は鳶でした。いつもは大空をゆったりと飛んでいる鳶が何で?
と思いました。
取り巻いたからすは、鳶の隙をついて交互に攻撃をしかけます。どうしても鳶のほうが不利
に見え、からすのほうが集団でいたぶっているように見えました。そのうちからすのほうが、
いたずらに飽きたように飛び立っていき、残された鳶は、飛べるのかな?と心配しましたが、
何とか痛々しくなった羽を広げて飛び立っていきました。恐らくもう老齢の鳶だったんでし
ょう?弱くなったと見られた途端、それまで近づくこともしなかった「からす」に弄ばれた
ものと思います。弱肉強食の動物の厳粛な掟を見る思いでした。
それにしても同期には面白い人が沢山居ますねぇ。付き合うのが真に楽しいですよ!




鳥星さんへ   2004年7月 6日(火)09時01分

なるほどねぇ。全く理にかなった作りになっているんですねぇ。
JRの技術陣が新幹線のスピ-ドアップの為、特にトンネルへ突入する時の衝撃と圧力対策に、
鳥を徹底的に研究したそうですが、なるほどと頷けますねぇ。




返信   2004年7月13日(火)09時00分

竜巻のニュ-スを見て気になっていたが、すぐに佐賀情報を流してくれる人が出てきたのは
うれしいね!
女性軍へ。  男に心から愛された経験を持つ女は、一生孤独に苦しむことは無い。
リルケ その通り、よく分かる!と言われる女性は居られますかな?




神奈川創造展   2004年7月15日(木)10時13分

芸術という高尚なものはあまりよく分からない。が、辻君が出展しているというので、たま
にはそういうものに触れてみても良いだろうという思いで、会社をちょっと早めに抜け出し、
横浜に出かけた。丁度辻君は主催担当とのことで会場に居たので案内して貰い、コ-ヒ-ま
で奢ってもらった。
辻君のものもそうであったが、抽象的な絵が多く、特に女性の出展が多かった。
辻君と話をしていて、分かるか分からないかという問題。作品を見ていて何かを感じる。
その感じを言葉にしてみて、言葉になれば分かった、言葉にならなければよく分からない。
沢山の言葉になればその分良く分かったと解釈して良さそうである。
評論家の高邁なる解釈を読んでると、とてもじゃないがそんなとこまで感じることも読むこ
とも自分には出来ないと思うんだが、あれだって作者が意図したこととは全く違うと言うこ
とは沢山あるそうである。当日の抽象画、地球の環境汚染や現代人の心の空漠・潤いを無く
した心象等等を描いたと思われる暗いものが多かった。その中で辻君のは「想い」という題
がついていたが、明るく希望のある想いを感じさせる作品であった。やはりどうせ見るなら
明るいものが良い。昔は暗いものを描いていたそうであるが、現在の彼は、退職して余裕の
ある希望ある心境にあると思ったのである。 少し言葉になったかな? 今後はこのような
絵画展、もう少し見るようにしようかな?




トリオ・ロス・ディアマンテス   2004年7月19日(月)10時16分

teaに関わる人が3名も居たとは知りませんでした。多分あれはあの人だろうと推測をして
いたのが、お陰でさっぱり分からなくなりましたよ。
先日横浜に出た折に、買い物をするために上大岡に寄った。雑踏する駅の夕暮れ時、突然陽
気な軽快な演奏が流れだした。その歯切れの良いリズムに引かれて「ちょっと聴いてみよう
かな!」という気分になって見に行った。殆どの人が足早に通り過ぎる中で,4~5人が立
ち止まっている。
多分ペル-の演奏家、 ちょっと名前が出てこない、あの南米のホラ貝に似た笛とギタ-と
パ-カッションのトオ演奏である。粗末な服、日焼けした肌、永年の強制労働に少しゆがん
だような身体。 しかし陽気に身体をゆすっている。そのうちに、一人が演奏を止めてCD
をどうですか? と売り歩きだした。 僕のところにも持ってきたので、いくらだと聞くと
¥3000円という。 あまり期待できないが、わざわざ遠くからやって来たんだからと買って
帰った。
ところがこれがなかなか良いんである。運転中の車の中はいつもカラオケ・ボックスになる
が、今はもっぱらこの陽気な演奏を楽しんでいる。そうすると今度はトリオ・ロス・ディア
マンテスのあの甘いハ-モニ-を聴いてみたくなった。レコ-ド店に行って捜したが無いんで
ある。今は演歌やオ-ルディ-ズはもうレコ-ド店の中でも片隅に追いやられて、小さくなっ
ている。どなたかもし見つけたら教えてほしいものである。




夏祭り   2004年7月29日(木)09時16分

最近ちょっと書き込みが少ないようなので、仕事中ですが、ちょっとtake five しましょう。
「うどんこ」さん、やはり都会の真中に住んでいると、どうしてもこういう所へ行ってみたく
なるんでしょうな?それに貴方だったら子供達にもモテモテだったでしょう。ちょっと鼻の下
を長ぁ-くしていたとしても。
入会資格は「品格に自信のある人」だって?あの会長が言うんだったら、殆どの人は合格でし
ょう。
7月31日と8月1日は町内の夏祭りである。 かき氷」「やきとり」「やきそば」「綿菓子」
「ヨウヨウ」「たこやき」等々の模擬店、太鼓や踊りの練習と準備に忙しい。
それにしても「神輿担ぎ」が大変である。人材不足で担ぎ手が年寄りばかりになってきた。
その中で僕は、これまで「若さ」で売ってきたので、無理してフルコ-スを担いできた。後の
数日が大変なのである。今、集中編集会議の方に行ったほうが正解だったかなぁと思っている。




夏祭り   2004年8月 5日(木)11時53分

先週の土曜・日曜は町内の夏祭りだった。満月が時々顔を出す暗い夜空に、提灯の列が浮き上
がり、太鼓のリズムにのって、櫓のまわりを浴衣姿が舞う。今年の私は「かき氷屋」の店長と
して氷屋さんになった。小さな子供はもう孫の世代、今年は結構中学・高校の高学年の子供が
多くなった。
小さい時に夏祭りを経験した世代が、大きくなっても顔を出すようになったのである。昔は何
の行事も無い新興住宅地、小さい子供達に郷土に何か思い出になるものを残してやろうと、特
に夏祭りには力をいれてきた。小さい町内であるが、まとまりもよく、夏祭りは賑わうのであ
る。雰囲気充分の日本の夏祭りを満喫した。いまだに神輿を担いだ両肩がヒリヒリしている。

出ん出ん蟲が出てきて、また面白いニュ-スを伝えてくれた。
出ん出ん蟲、ネ-ミングがいいね!
多分佐賀の人だろう。一体誰かな?また「あてっこ」する楽しみが増えた。




質問   2004年8月16日(月)13時48分

新風児さん そんなこと言っとったら餓死するしかありませんよ!
我々が食べている動物性たんぱく質は、全部動物を殺したものだし、植物だって生きているの
を全部殺したものですよ! 苦悶の表情が目に見えるか否かの問題であって、人間毎日見てる
とすぐ麻痺してしまって、何とも感じなくなるんです。考えてみると人間ほど悪逆非道の悪魔
的存在は無いと思いますよ。なぜなら人間ほど何でも食い尽くす生き物は無いわけですから。
動物も植物も何でも食っていますよ。あんな物日本では誰も食ってないと思われるものでも、
外国では珍味と言われているというものは沢山ありますからね! 自分達が食ってない物を、
あいつら野蛮人だとか、その動物がかわいそうだから「止めろ!」なんて言うのは身勝手とい
うものです。
我々はそういう罪深い人間のはしくれ、せめて絶滅品種の保護には身を配りたいものです。

ところで鳥星博士に質問。蝉談義がありましたが、関連質問!
蝉は穴の中には一匹しか入っていませんよね?多分蝉の交尾は地上で行われると思うんですが、
卵はどうして土中に入ったんですか?蝉の死骸は地上で見ますが、交尾したメスは再び土中に
潜るんですか? どうして穴からは一匹ずつしか出てこないんですか?何だか子供相談室みた
いな質問ですが、恥をしのんで質問します。




今多 迷道  さんへ 投稿者:鳥星 2004年8月16日(月)15時15分
セミについてお答えします。
<これを機会に大いに勉強しました。良い機会を与えていただいてありがとうございました>

●セミは樹の幹や枝に卵を産み付けます。
 ハルゼミ・ニイニイゼミはその年秋に、アブラゼミ・ミンミンゼミ・クマゼミは翌年の梅雨
時にその卵は孵化します。

●孵化した幼虫は幹を這い降りることなく、そのまま地上に落下します。
 そして土中へもぐります。

●種類によって異なりますが、二年から五年くらい土中で過ごし、最終令(4-5 令目)で
地上に這い出て、羽化して成虫となります。地上に這い出るのは1匹づつ。這い出る穴は個体
毎ですから、穴には一個体しかいません。ツクツクボ ウシは1-2年、ミンミンゼミは2-4年、
アブラゼミは2-5年、クマゼミは2年だそ うです。

●羽化後4-5日で成熟し、雌は交尾して(地上の樹で)産卵します(樹の枝や幹に)。

●鳴くのは♂。腹部を見ると胸板が対になっています。この板を振動させて音を出します。
 ♀にはこの板がありません。

○セミ科(Cicadiae)はセミ亜科(Cicadinae)とチッチゼミ亜科(Tibicininae)に分
 かれます。セミ亜科(Cicadinae)は6亜科に分かれます。

○多くのセミの羽が透明ですが、アブラゼミは不透明褐色です。外人はこのアブラゼミの羽
 の色を大変美しいと思うんだそうです。

○北アメリカでは13年ゼミ、7年ゼミと言って土中生活が長いものがいます。そして周期的
 に代発生することがあります。

○今年、アブラゼミの異常発生を伊藤洋子さんがお住まいの神奈川県中郡で見ました。
 1本の桜の幹に100頭位の成虫が付いていました。50本くらいの桜がありましたので、
 小さな公園に5000頭以上にはなります。桜並木の下草には空蝉が 鈴なりでした。

○今はツクツクボウシの鳴き声が盛んです。アブラゼミの最盛期は過ぎました。
 アブラゼミは繁殖を終えてその一生を終わり、落命しています。そしてその屍は鳥や蟻
 の食料になっています。万物流転ですね。蝉談義でした。




再質問   2004年8月17日(火)10時50分

素早い回答、大変有難うございます。鳥星さんは結構暇そうだから更に質問。
蝉は永い土中生活中、何を食って生きているんでしょうか?。蝉は数年間の土中生活、種の
存続を図るために一瞬の間だけ地上に出て交尾をし、卵を産みつけるとすぐに死んでしまう
とは、何と儚い人生、いや蟲生ではありませんか?
蝉は何故そのような宿命を担わざるをえないのか?何故土中で永い忍耐を強いられるのか?
その原因・必然性がもし分かれば教えてください。




愚問   2004年8月17日(火)17時54分

鳥星さん、申し訳ありません。先ほどの質問の内、後半の質問は取り下げます。
書き込んだ後、愚問だということに気づきました。こんなことは「何の目的があって、この
ような宿命を持った蝉なる生き物をお造りになったのですか?」と創造主にでも聞かなくち
ゃ-いけない質問だよね。いくら物知り博士でも困っちゃうよね。申し訳ありませんでした。




鳥さんいないよ。 投稿者:近藤 勝  2004年8月18日(水)09時20分

おせっかいと思いつつ、黙ってみてられないので今多さんに申し上げます。
鳥星君はつれあいと仲良く軽井沢の山荘に行ってるハズですよ。21日には帰るといって飛ん
でいきましたから…。携帯電話だけでしか連絡とれないと言ってたのですが、全然繋がらな
いンだ。留守電も聞いて無いようなので…、よほど私達から遠ざかりたかったのか、2人だ
けの時間が楽し過ぎて(フフフ)ソットしておいてくれってことかも(ヘヘヘ)。
それとも連日のバトルで息絶え絶えで言葉も出無い状況かもしれないネ(ハハハ)。勝手に
人様の行動を公言するのもいけないかなと思ったけど、ゴメン、おせっかいやきだけに黙っ
てられなかったんです。
山から降りてきたらスグお答えが書き込まれてくると思います。




了解・了解   2004年8月18日(水)10時05分

了解しました。多分そんなところでしょう!----下司の勘ぐり。




やっぱりかわいそう 投稿者:新風児  2004年8月19日(木)05時55分

そうですか、タンパク供給の為、生き造りになってもだえ苦しむ生きたイカや魚を見て楽し
みたいのですか?僕にはドーしても分かりませんなー。魚や動物を食べるのはかわいそうだ
からいけないという幼稚な事は書いてないのですよ。そのような「食べ方」を非難している
のです。見えないところで「刺身」にしたものと「生き造り」のものとはタンパクの量や質
など変わらないと思いますがねー。
そういう趣味は僕には分かりません。




新風児さんへ   2004年8月20日(金)20時40分

どうも新風児さんの書き込みを一度読んで、すぐに反応してしまい、その時ハヤトチリで違
う土俵で論理を展開したようです。「かわいそう」とか「動物虐待」とかが出てきたので、
反捕鯨団体と同じ論理だと早合点したようです。もともと牛肉をどんどん食っている奴等が
かわいそうだからとか、虐待だから鯨を取ってはならぬとかいう論理に「何言ってやがる!」
と思っていたものですから。僕の立場は「活き造り」という料理法は止めた方がよい、しか
し食べること自体を止めろとまで言う権利は無いということです。
自分達の食文化に無いものを食っている人種は、野蛮人に見えるし、動物がかわいそうと思
うものです。しかしそれを食文化にしてきた人達にはあたり前のことです。それを「動物が
かわいそうだから食べるのは罷りならぬ」と外から喚きたてるなんて身勝手というものです。
牛を食べている奴等が。牛を殺す方法は撲殺だそうです。それはそうでしょう、安楽死させ
るために毒殺でもしたらあの巨体を殺すほどの毒薬は、 当然それを食する人間に何らかの
影響をあたえるでしょう。
結局安全で新鮮な肉にするためには撲殺が一番だそうです。毎日何万頭も殺される屠殺場の
現場は一体どうなんでしょう?考えるだけで「ゾッ」とします。反捕鯨団体はそれを見て
「かわいそうだから殺すのを止めろ!」と言うんでしょうか?どの動物の屠殺場も似たよう
なものでしょう。そう考えていくと食べるものが無くなって餓死するしかありませんよ!と
なったわけです。
失礼ながら新風児さんを同類項と見なしてしまったわけで、改めて落ち着いて読み直してみ
て、そこまで言ってないことがわかりました。申し訳ありませんでした。
僕だって鯛の活き造りを初めて食べた時は、かわいそうだと思ったし、新鮮でうまいなんて
とても思えませんでした。他に食べるものが無かったので食べましたがね。一度ヤキトリ屋
に入った時、我々が食べている目の前で、無神経にも店員が腿のところで切断した豚の一本
足を取り出して、毛をむしり始めた時などは、吐き気を催しました。
何!僕達をエキストラにして実演させてビデオ取りするって?とんでもない僕はそんな悪趣
味は持ってませんよ。願い下げです。




同じくお疲れ様!   2004年8月27日(金)09時50分

彼らは息子か孫の世代。彼らが全身全霊を傾けて闘う姿は、かわいく・けなげで感動的です。
僕も息子がソフトをやってた頃を思い出しました。親のほうが興奮してたものです。応援に
行った人達もそのような興奮を味わったことだろうと思います。
話は変わりますが、オリンピックはメダルラッシュでこちらも面白いですが、レスリングの
浜口親子。娘がほんとにかわいいんですねぇ、あの親父。 あれじゃ-娘の婿選びは大変でし
ょうねぇ。
あんな親父がついていたんじゃ、「娘さんをください」なんて言うにはそうとうの度胸がい
りますよ! そんな男が出てきますかね?心配になりますよ。




50肩?60肩?   2004年9月 1日(水)14時37分

現在事務所の移転中である。近くのビルの2階に親会社と同居することになった。 先日の
日曜日から引越しを始めたのであるが、急に重いものを担いで狭い階段を上り下りしていた
ら、腰が痛いやら左肩を痛めるやらさんざんである。特に左肩は鎖骨にヒビでも入ったのか
な?と思って触ってみたが、何とも無い。どうも50肩のような症状である。 明後日には
山形へ行き、ゴルフをやる予定。次週はやはり「ふうけもん会」のゴルフツァ-が控えてい
るというのに「とほほほ-」である。
ちょっとクラブを振ってみたが、とてもじゃないがゴルフにならない。山形のゴルフはギヴ
アップするが、「ふうけもん会」までには何としても直したいと思っている。
品格ある同志に告ぐ。クラブは握れなくても、牌は握れますから。




グレンミラ-オ-ケストラ   2004年9月 2日(木)14時52分

11月28日グレンミラ-オ-ケストラが横須賀芸術劇場にやってくる。3ヶ月も先の話であ
るが、早めに予約しておこうと思って、今日電話した。ところがA席は後3席しか残ってな
いという。
「S席は?」「やはり3席しか残ってません」という。予約発売日は8月29日であるから、
まだ4日しかたってないのにこの状態である。S席での残りは最前列に1席、右端左端に各
1席づつというので、最前列かぶりつきに決めたのである。前回ピンクレディ-を聴きに行
ったときは、周りが全員立ち上がり、全く視界を遮られてしまったので、今回は絶対にそん
なことが起こりえない席に決めたのである。それにしてもグレンミラ-のオ-ルドファンの
何と多いことか!
演奏会は全国あちこちで行われるでしょうが、聴きたいと思われる方は、早めに手配された
が良いでしょう。横須賀はべ-スがあるので米国人が多い、米国人が沢山買い込んでいると
いう横須賀だけの現象かもしれませんけどね?




ふ-けもん会報告(その-1)   2004年9月14日(火)10時41分

いつも近藤君がやってくれるのですが、彼が不参加だった為、代わりに報告します。
「第12回ふ-けもん会白河ツァ-」は福島県の白河から、東北地方を縦断する山脈の方角へ
駆け上った天栄村(猪苗代湖と那須岳の丁度中間ぐらいの位置)、白河メドウゴルフクラブ
と太平洋クラブ白河というゴルフクラブで、9月10日と11日、一泊二日で行われた。
参加者17名。
江越・土屋名幹事の気配りのもと、東京・上野公園前に集合、サロンカ-に乗っての賑やか
なツァ-であった。コ-スは手入れのよく行き届いた広広としたコ-ス。
ミドルで400ヤ-ドを越すホ-ルがあり、ショ-トも160~170ヤ-ド。激しく地球
の皮を引き剥がして、慌ててタ-フを元に戻すという姿が散見された。
海抜約1000メ-トル。100メ-トルで約1度気温が違うというから、残暑の残る下界
とは約10度の差、贅沢ではあるが涼しいどころか、寒くて寒くて下着を重ね雨具を羽織っ
てのプレ-となった。
第12回ともなるとハンディキャップも実力に馴染んで、誰が出てくるかさっぱり分からない。
一日目の仮優勝者の副島君(これも意外な結果と皆の意見)、酒が入るに従って大言壮語の
我が天下も、一晩だけの夢と消えて、総合優勝は鈴木道夫君(これも意外!)。
準優勝は川副紀幸君。第三位が鶴国人君(これも意外!いや僕が言ってるんじゃない、皆さ
んが言っているんです)。
べスグロはセミプロ原一夫君を一打押さえた西村昭彦君が獲得した。秋月君はいつもの通り
定位置ではあったが、あの長いコ-をでハ-フ56でまわって、密かな自信をつけたようで
ある。「俺は秋月にライバル呼ばわりされる謂れはない!」とうそぶいてた殿方。ゆめゆめ
油断めさるな。
写真が宿泊先のペンション「りんごの樹」の昔のお嬢さんから送られてくる予定になってい
るが、まだ未着である。その2とともに後で載せる予定である。




合掌   2004年9月15日(水)09時12分

内川光一君とは確か2年の時に同じクラスになりました。彼には僕と同じく非常に大人しい
という印象を持っていました。悪たれの多かった空手部に入っているなんて、まるで感じさ
せない雰囲気で、後で聞いてびっくりしたのを憶えています。それにしても空手部はそんな
に亡くなってるんですか?我々にももう近くに来てるんですね。身の引き締まる思いです。
皆、安らかに眠れ!

ふ-けもん会報告その2は、ちょっとふざけるつもりでしたが、タイミングを逸しました。
数日後に書き込むことにします。




9

 

落書き2004-1

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月23日(日)08時26分13秒
返信・引用
  .

                 落書き 2004(1)

                             ペンネーム 今多 迷道
                   『落書き帳』






おめでとうございます   2004年1月 5日(月)09時14分

明けましておめでとうございます。
殆どの人に賀状を出していませんので、ここで挨拶します。
昨年は私にとっては、非常に充実した良い年でした。年末31日に行ってみたいと思っていた
「不忍池」に行き、明治神宮にお参りをしてきました。正月は日本一の人出となる所も、一日
早ければ閑散としていて、大木に囲まれた参道をゆっくりと歩いて心静かに厳かな神社の雰囲
気を味わってきました。
明けて正月は初トレ-ニングをしたり、「歩くハイマ-」会に約束している横須賀コ-ス造りの
ため、時間取りをしに歩いたり、 横浜を歩いたり、本当に暖かい今年の良いお正月を満喫し
ましたよ!
上の神田明神も賑わっていますが、一昨日聞いたラジオ。私はごったがえする神社にお参りに
いきました。私が投げ入れようとした100円玉は箱をはずれ外にこぼれました。すると近くに
いた「おばさん」がすばやく拾い上げ、私の100円玉を投げ入れてお参りをしています。私は
後ろから手を合わせてお願いしました。「神様!あのお金は私のものです。おばさんのお願い
ではなく、私のお願いを聞いてください」。
どうも会社のパソコン、メ-ルの調子が悪く使えません。もし私あてのメ-ルがありましたら、
ごめんなさい。




ギャラリ-   2004年1月26日(月)09時18分

またすばらしいものができましたね!
それにしても逆光はどう見ても写真のものとしか思えない。
組み合わせることができるんですか?
それとも何か他の方法で?




帰省   2004年2月 4日(水)09時11分16秒

お袋が寝込んだままなので様子を見に帰省する。佐賀では中原・菅君達が、前日の7日に宴
会を・8日にはゴルフをセットしてくれている。
関東代表としてあまりみっともないスコアではなるまいと思い、先週日曜日久方ぶりに練習
に行った。 ところがスライスの連続、何とか直そうと思っていろいろフォ-ムを変えている
と、今度はフックの連続。チョロが出るわ、テンプラがでるわで、まともに狙った方向に飛
ばないのである。散々こんがらがったまま、解決の糸口も見えぬまま帰ってきたのである。
意気洋洋とこの場で結果を報告する予定であったが、もし報告が無かったらそれなりの成績
であったとご理解いただきたい。





帰省報告   2004年2月12日(木)18時55分

9日に帰ってきたけど、仕事も溜まっていてバタバタしていて遅くなりました。このところ
投稿も少ないようなので、簡単に報告しておきます。
佐賀では菅・中原君が10人もかき集めて歓待してくれました。7日の一次会は森山さんと
いう同期の女性がやっている店で、二次会は二年前に行った時と同じ「おかもと」という、
雰囲気も体もまぁるいママさんの居る所。
鋭い風刺やダジャレ(菅・中原)のオンパレ-ド。深川君の三波春夫ばりのエンタ-テインメ
ントは相変わらず、少しも衰えていなかったね。両手を広げて「皆様ようこそいらっしゃい
ました!」 酔っ払って好い機嫌になっていたから、斜光の今年度の投稿を固い握手をして
確約したんだけど、明くる日までチャント憶えているのかどうか?不安だね!
宮大工の棟梁北島君は心臓病で、体を約30センチ程も断ち割った大手術をしたとかで、酒
が飲めないと元気がなかった。体には十分注意をしてほしい。同じクラスの犬塚君(今は中
原に改名)・副島君とは卒業以来の邂逅であった。他のクラスからもゴルフの上手い宮地君
とか、来年の45周年同窓会に菅君と一緒に準備に頑張ってくれているらしい吉住さんとか
が同席。本当に皆でこまかな心配りをしてくれて、「僕ぁ 幸せだったなぁ!」
翌日のゴルフ。 前日は雪でクロ-ズしたのが嘘のようにその日は暖かくなり、この晴れ男の
面目躍如であった。なに!成績?あまり細かなことは聞かないように。但し私は準優勝とい
う分厚い封筒を貰って帰ったことだけは報告しておこう。




ギャラリ-   2004年2月16日(月)14時29分

青い波模様を見た時はさすがプロはちがうな-!と思いましたよ。
小さぎや鵜の水面に写った影も捉えているし。但しウサギだとは思いませんでしたよ!
最初は白い猿に見え、次には猫に見え、いやいや中サギの水面の影かな?
うどんこさん!あほな投稿と言わず、黙っておけば私はさすがプロの作品と感心していまし
たよ!
私の目が節穴なのか?いや!立派な作品なのか?皆さんいかがですか?




ギャラリ-   2004年2月20日(金)09時19分1秒

梅は満開。今日気づきましたが、枯れ木だった「こぶし」に、かなり膨らんだ芽が沢山付いて
いました。結構暖かい日もあるし、春はそこまで来ているんだね-。鎌倉の梅見も楽しみだね-。
楠葉さん、マドンナの写真一度乗せてください。
じゃ-一度行ってみようということになるかもよ!




MB会報告   2004年2月23日(月)17時57分

昨日・一昨日(21日と22日)は「梅見とMB会」として、私学事業団「あじさい荘」に泊り
込みでの鎌倉散策とマ-ジャン会であった。
新人(江島・井上・江頭・的野)を含む10名が参加した。
21日。集合予定の江の電「長谷駅」に田村さんが現れない。15分程遅れるという話であっ
たがどうもおかしい。廻り廻って古賀(和)君から携帯にかかってきた連絡によると、今から
品川を出るという。彼女は置いて、江島君の案内で、極楽寺・長谷寺・大仏さんを回ろうと決
まった。道々出てきた話によると、田村さんの「方向音痴」と「時間音痴」はそうとうのもの
らしい。 待ち合わせをしたら、一週間もずれた日と勘違いをしていたとか、 反対の改札口で
延々と待っていたとか、居ない所で散々の慰み者である。確かにこの日も、彼女から長谷寺の
拝観者入り口の近くの公衆電話から電話していると言うが、我々が今そこに居るんだからおか
しいな?と言いあっていたら、実際の彼女は大仏さんの所に居たんだから。
「彼女にはこのような計画の幹事は任せられない、すぐにチグハグになって計画はメチャメチ
ャになる」衆議一決したのである。
マ-ジャンのほうは21日16時から22日10時迄、地下一階を我々が借りきりの形で始ま
た。 開始して早々に北島君がリ-チを掛けてきた。対して江島君、完全な安全牌と自信を持
って二枚あった字牌「北」の一枚を落としてきた。ところがこれが一発の「ロン」。
この事が当日の運勢を象徴するかの如く、勝ち組と負け組が明瞭に分かれていった。
勝ち組に北島・秋月・江頭。 負け組に江島・井上・土屋・熊井、そして女性軍。
特に秋月、酒が入るに従ってメ-トルがあがる。「こんな二軍相手では、やりがいがぜんぜん
無いよ!」「江島!お前のようなヘボが俺から取ろうなんて、10年はやいよ!」
「ガハハハハ!」と例の「悪代官の高笑い」は絶好調である。
特に偉くプライドを傷つけられた江島・井上が、「よし!今度こそ!」と挑戦してもその度に
退けられる。江島君、とうとう反論もならず、しぶしぶと後片付けまでやらされる始末。
         約束があります。今日はここまで。後は明日。




や-めた!   2004年2月26日(木)12時05分

ギャラリ-は郷愁をそそる絵ですね-。楽しみですね-!
MB会報告。明日書くと言って中断したままバタバタしているうちに書く時間が無くなりました。
そうしたらノリちゃんと O-ちゃんからきちんとフォロウが入りましたので、わたしはこのまま
ズル休みにしたいと思います。悪しからず!




蘇るム-ド歌謡   2004年3月 1日(月)12時13分

昨日は題名のとうり、「ザ・マヒナスタ-ズ」と「ロス・プリモス」のジョイント・コンサ-ト
を観てきた。
観客は我々の歳プラス・マイナス10歳というところ。今回はこの前のピンクレディ-と大違い、
皆さんマナ-も良く他人の迷惑も考えず立ち上がるような人は一人も無い。充分に楽しんできま
した。 先日和田弘が亡くなってどうなるのかな?と思っていたら、スチ-ルギタ-はずっと若返
った痩せた人に交代、「和田弘とマヒナ・スタ-ズ」から「ザ・マヒナ・スタ-ズ」になっていま
す。マヒナ・スタ-ズが、日本で初めてム-ド歌謡コ-ラス・グル-プとしてデビュ--したのが、
昭和33年だそうです。我々が高校1年生の時です。それからず-と歌い続けて、今では和田弘
が亡くなり、 バンドメンバ-には、日本に初めてハワイアンを流行らせたバッキ-白片の長男と
次男及びハワイから駆けつけたというハ-フの姪が加わっているという。勿論バッキ-白片も亡く
なっています。遠くから見ると若々しい田代美代子もちょっと声がかすれぎみ。何か遥かな越し
かたを思わせる懐かしさに包まれたひと時でした。
6月には和太鼓の「鼓童」を観る予定である。




回転ドア問題   2004年3月30日(火)13時04分

回転ドアで犠牲者が出て今大問題となっている。 自動ドアに関しては、弊社の親会社、(株)ナ
ブコは老舗であり、日本でのシェアは勿論、世界でのシェアもナンバ-ワンである。
現在のところ問題を起こしているのは三和製ばかりであるが、ナブコも似たような製品を持って
おり、技術部に問い合わせてみた。
「ナブコの製品は大丈夫なのか?、死角があり得るのか?」
回答は、「設計上は死角は無いが、しかし現場での感度調整でどうにでもなる。
要は現場で標準をきちっと守っているか? それとメンテナンスが重要である」というものであ
った。人間のやること、絶対はありえない。問題が出ないことを祈るばかりである。




返信   2004年4月11日(日)12時22分

O-chan 相変わらずやってるね!しかしこういう話を聞くと、俺も安心するよ。

鳥星さん!またまた始めたね! 今度は版画だって? こういうのは俺にはよく分からないが、
絵と版画を見比べてみて、絵のほうがずっと安心して見られるのは確かだ。しかし版画のほう
には海と空(大自然)に押し流されそうな不安を憶えるよ!
カイツブリの話。動物は子を守ろうとする本能を強く継続しているが、最近の人間様は、物の
溢れた都会生活をしているうちに、 この本能を削ぎ落としているんじゃ-ありませんかね?
佐賀のほうが良いのかもしれませんよ。
宇野千代の奔放な生活。歳を取ってくると、こういうものにだんだん寛容になるんですよね?
自分が出来なかったこととあわせ、若干羨望をふくめて。




返信   2004年4月22日(木)09時14分

MB会
そいばってん、皆自信家が多いね-!「一線級だけでやるぞ!」というと皆集まるもんね。
皆自分は強いと思ってる。謙虚なのは土屋君ぐらいのもんだな。

昨日の巨人-横浜戦、見に行った巨人ファ-ンは堪能したでしょう。僕も巨人ファ-ンだけど5点
リ-ドされたところでテレビを切ろうか?と思ったが、ちょっと我慢していたら9対8で逆転。
気持ちが良くなったところでスイッチオフ。 最近不甲斐ない巨人戦、ストレスが溜まってしょ
うがない。
一点差じゃ-又逆転されて気分を悪くすると思ったんだ。そして翌日の朝刊を恐る恐る開く。
最近こういう野球の見方をするようになった。それにしても阪神ファ-ンは立派だね-!負けても
負けてもファ-ンであり続けるというのは、並みの忍耐力ではないよ!

明日・明後日は山形行きである。明後日はゴルフ。新潟では丁度桜は満開であった。山形の桜は
まだ残っているのでは?期待しているのである。




返信   2004年5月 4日(火)09時15分

私は頑張ってますよ! この連休中会社に出てきたのは今日で3日目ですよ!
このところ仕事が忙しいので、 斜光の原稿は連休中に一気に書いておかないと間に合わない
と思い、会社に出てきてパソコンの前に座っているわけです。どうです!この真面目なこと!
皆さん少しは見習ってください。
うどんこさんのギタ-一度聞かしてもらいたいね!一度リサイタルをひらきましょう!
シネマクラブも沢山メンバ-が集まったようだが、高校の時?観た西部劇「リオ・ブラボ-」
だったと思うが、 悪漢達が囚われた弟を取り戻しに攻め入ってくるという前の晩、嵐の前の
静けさという緊張が高まったところで、 ディ-ン・マ-チンとリッキ-・ネルソンが叙情豊
かに掛け合いで歌った「ライフルと愛馬」。あのシ-ンとあの歌が今でも深く心に沁み入って
いる。
うどんこさん!貴方の演奏で俺に「ライフルと愛馬」を歌わせてくれないかな?




      言い訳ひとつ。 投稿者:うどんこ  2004年5月 7日(金)00時00分
      徳島から帰ってもギターの写真がそのままだったので、あわてて代々木公園の
      黄昏れ時の噴水の写真を掲示板に送りました。そろそろお気付きの方もいらっ
      しゃるかもしれませんが、なぜか私の投稿する風景写真が朝日とか夕陽が多い
      のは何時も散歩の途中の景色がほとんどだからです。今回の噴水の写真も散歩
      の途中に見た景色です。この日は風が強くて、噴水の水が吹き流されてました。
      夕焼けが消えてしまわないうちにと全景を撮るか、水しぶきをアップで撮るか
      と一瞬迷いましたが、近寄る間の光りの変化を恐れて手前からの全景にしまし
      た。以前の「ウサギ」の写真も「ウ」と「サギ」が離れないうちにとあせって
      撮った写真でした。いづれもじっくり準備と腰を据えての完璧なカメラワーク
      よりもチャンスとか話題性を求めてシャッターを押したものだけに技術はいつ
      も後回しの出来映えになってます。だな~んて指摘されないうちに言い訳をし
      てしまいました。迷道さん「My Lifle,My Pony annd Me」(間違ってるか
      もしれません)の伴奏でしたら何時でもオッケーです。まかせてください。
      バックコーラスも付けましょうか。楽しみですね。ただしあまりひどい発音で
      唱われるとがっかりですので、しっかり勉強しておくか、誰か英語の上手い人
      に習っておいてくださいね。これを機会にデュオでも組みましょうか。
      2,30分の座くらいなら問題ないと思います。
      ついでにどなたかカントリー系の歌でしたらほとんど問題なく伴奏できると思
      いますので申し出いただければ演奏とコーラスをお受けしましょう。言い訳の
      つもりが宣伝になっちゃった。
        Good Night,Babies.




うどんこさんへ   2004年5月 7日(金)08時57分

それは楽しみだなぁ!しかし発音が云々と言われるとちょっと困りましたねぇ。
黄昏時の噴水、すばらしい色合いで、シャッタ-・チャンスは一瞬だったはず。
空の赤と湖面の赤。 しぶきの下の空色と湖面右手の空色。
バランスが取れすぎるくらいに計算されていると思いますが?




MB会   2004年5月17日(月)13時09分

桜井君が入ってギャラリ-も益々楽しくなった。
先日のMB会、昔はある人を除いて皆紳士であったが、最近は言いたい放題、皆化けの皮が
はがれて珍氏ばかり。あまりにハメを外し過ぎると、そのうちつい言い過ぎて O-ちゃんや
女性
群の怒りを買うということになりかねないぞ!
先日はその一歩手前まで行ったように思えたね。MB会解散!ということもありえるな-!
男性群はもう少し自重しようではないか。四国のお兄さんから毎月のように送ってくる新鮮
な魚が食えなくなったら、それが目的で通っている「くいしんぼう」の我輩としては、非常
に悔いを残すことになりかねない。おさえて!おさえて!
ところでこの辺で、お兄さんにゴマを擂っておこうではないか!
どのように擂るかは来月相談する。




うどんこさんへ   2004年5月18日(火)08時50分

やりましたよ!ちゃんと。O-ちゃんの指導を受けましたから、キングス・イングリッシュに
なっているはずです。もしオクラホマのズ-ズ-弁になっていたら、やはり先生の所為ですね。
歌詞が無いので聞き取りで作成。O-ちゃんにチェック修正してもらいました。
まだ2~3個所不明のところがありますが、ごまかしてもどうせ誰も分からないでしょう。
先生の OK を貰いましたから、早速ごまかしを悟られないようレッスンに入ってます。




      改善を期待して 投稿者:0-chan 2004年5月18日(火)13時51分
      今多さん、よく書いて下さいました。今思うにも、可哀想だったなと涙ぐむほど。
      いつもなら同じレベルの花があと2人いるのに、今回は一人。
      急きょ声をかけた人はA級が感心するくらいの実力。
      若い方がよいというから彼女にしたけど、もう一人の選択肢80才の吉田さんに
      しとけばよかった!そしたら敬意を払って、いくらなんでもあんなに失礼な、乱
      暴な、卑猥な、下品な事は言わなかったと思うよ。「みっちゃんのためならエー
      ンヤコーラ」と懐かしいかけ声をかけてくれたのは北島さん一人。 ありがとね。
      兄にごまなんてすらなくてよいから、私にいっぱいおべっかを使ってね。差し入
      れをしてくれる兄もホームページを手伝ってくれる娘も、一人暮らしの妹が、母
      が皆によくしてもらえる様にと思ってやってくれているんだから。
      でも遠いベルギーから「機嫌を直して」とやさしく諌められたら、もうすぐにに
      たにた。桜井さん、そのうち遊びに行くからね。思いはたちまち遙かヨーロッパ。
      立ち直りは早いよ。というより、すぐ忘れる!




ツバメの巣   2004年5月21日(金)15時34分

ヨ-ロッパの春の華やかさ・色彩感覚は、暗くて永い・灰色の冬の反動ではないんですかね?
ところで鳥星さんも帰っているようなので鳥の話。
去年我が社の玄関にツバメの巣があり、雛が孵ってそろそろ飛び立つ頃に、家主の誰かが糞対
策として巣のすぐ下に板を取り付けた。取り付けるとすぐにツバメの巣は空になった。
それを見て家主の人たちは、「雛も巣立ったようで、よかったね」と言っていたが、僕はそう
は思わなかった。
それは巣のすぐ下にカラスの羽が一片落ちているのを見つけたから。おそらく板がカラスの足
場を提供する結果となり、雛は襲われたのに違いない。カラスの羽の一片はツバメの親鳥がカ
ラスに戦いを挑んだ名残であると推理したからである。鳥博士もおそらくその推理の方が正し
いだろうと言ってくれた。
今年はどうなったか?
巣の下の板は取り払われずそのまま。これまで毎年ツバメが帰り、雛を孵していた巣は空のま
まである。とうとうツバメは帰らず、巣は空家のまま、ちょっと崩れて廃残の姿を晒している。

この様な危険な巣にツバメが帰ってくる訳がない。やはり去年の推理が正しかったことを証明
しているのでは?
動物達は生きるか死ぬか?常に生死の危険と隣あわせの世界で生きているのである。




ふうけもん会報告   2004年6月17日(木)10時09分

辻さんの絵画展の案内は出てきたが「ふうけもん会」報告は出てこないので(そういえばいつ
もは近藤君が報告してくれるのだが、今回は多忙にて欠場であった)私が代わって報告します。

梅雨時に設定された「ふうけもん会」。心配していた雨になるどころか、雲ひとつ無い晴天、
まるで夏日となった。6月15日(火)千葉の市原京急カントリ-クラブにて14名の参加者
を得てもようされた。
優勝者は先程紹介された通り深瀬(小部)さん。ネット66、アンダ-6の圧倒的強さであっ
た。パットがなんと13と14というまるでプロなみのスコア、ロングパットが次々と決まっ
たそうである。
準優勝が土屋雄助さん、今まで優勝圏内には殆ど顔を出していない大穴であった。
3位が緒方雅義さん、彼はグロス41・42で前回優勝しており、安定した実力を見せつけた。
聞いてみると暇になった自遊人、カラオケとゴルフの練習に殆どの時間を費やしているようで
ある。今回は馬を当てる奴は一人も居ないと思っていたら、居たのである。鶴君!。
この60年間、博才を磨き続けてきたに違いない。
話題の秋月君!学校ではいつも一番であったが、今回も定席、やはり一番であった。
打ち上げの席で吼えていた。 「俺のライバル、鶴と江頭は来ているが、近藤・金子・副島ら
3人も欠場しているのはどういうことだ!」「はかりやがったな!」。いつも強気の発言をし
ている秋月君、この頃ことゴルフの話となると極めて弱気である。「ゴルフはいくらやっても
上手くならない。止めようかな?」という思いがよぎっているようである。この宴会部長が
「ふうけもん会」を脱退するというのは極めて重大問題であるというのは、衆目の一致すると
ころ。「何で俺が秋月のライバルなんだ!」とご不満の方も居られようが、秋月君がライバル
と言ったらライバルである。
次回は万難を排して出席するようお願いする。
ちなみに次回は9月11・12・13日、白河カントリ-ときまった。
詳細は後日、江越・土屋常任幹事より連絡があろう。




メッセ-ジ   2004年6月20日(日)12時20分

先日「日本ユニセフ協会」から以下のようなメッセ-ジと振込み用紙が送られてきた。
僕は数年前から、名指しで語りかけてくるこのメッセ-ジに、ついほだされて僅かばかりの寄付
を続けている。今回送られてきたメッセ-ジをそのまま紹介する。

   熊井 浩二様へ
拝啓 平素よりユニセフ(国際連合児童基金)の活動に深いご理解と多大なご支援を賜り、心
からお礼申しあげます。
この度は、親を失った悲しみのうえに、孤独、苦境、絶望、そして空腹に耐えている何千万人
もの子供達がいるということを皆様にお伝えしたく筆をとらせていただきました。
スザナはアフリカ南部の国マラウィの14歳の女の子です。皆様の周りにも14歳の女の子が
いらっしゃるかと思います。スザナも何処の国にも居るような明るい笑顔の元気な女の子でし
た。しかし両親がエイズで亡くなった時から、スザナの世界は一変しました。スザナは14歳
で一家の長になったのです。両親が亡くなって一家の収入は絶たれ、スザナは2人の幼い妹の
面倒をみなければならなくなりました。エイズで親を亡くした子供を引き取ってくれる人は村
に誰も居ません。
村はずれの埃っぽい道をしばらく歩くと、まばらな草地の向こうに壊れかけた小屋が見えてき
ます。そこがスザナと幼い妹達が暮らしている家です。水は片道3キロの道のりを1日3回往
復して運んできます。今スザナの一番の心配事は妹達に食べさせる食事のことです。
「食べ物が無くなると、村に行って何か食べさせてくださいって頼みます。どこにも仕事が無
かったら、隣の村まで行って聞いてまわります。村から村をまわるんです。それでも仕事が無
かったら家に帰ってきて、その日は何も食べずに3人でじっと座っているの」
子供だけで生きている「エイズ孤児」の殆どは満足に食事をとることが出来ません。栄養不良
のために病気になってしまう子供も大勢居ます。しかし病気になっても看病してくれる親もな
く、お金がないために医者に診てもらうこともできません。食べ物を手に入れるために、身体
をお金に変えるしか方法が無い子供も居るのです。
「皆様からの10000円のご支援で、10人の子供に1ケ月間食事を支給することができます」
スザナは仕事を貰えた日には夕方帰ってから、夕飯のために小麦粉を練っただけの糊のような
おかゆをつくります。3人は土間に座り「どうか毎日食べ物を与えてください」とお祈りをし
た後、ひとくちひとくちづつ味わいながら、ゆっくりと食べるのです。食事がすぐに終わって
しまわないように。
子供にとっては親を亡くすということだけでも大変な悲劇です。そのうえに、社会のHIV/
エイズに対する偏見と冷たい言葉や態度が孤児たちに重くのしかかります。誰からの支えも無
く、学校にも行けず、生きるために想像を絶する苦難を強いられるのです。
「皆様からの30000円のご支援で、100人の子供を1年間学校に通わせることができま
す」

        中     略
HIV/エイズはもう大人や限られた人達だけの問題ではありません。支援を必要としている
多くの子供達の為に、どうかお力を御貸しいただけないでしょうか。エイズで親を失った子供
が笑顔を取り戻し、希望をもって生きていけるように皆様のご支援を心からお願いもうしあげ
ます。
                                敬  具

       ユニセフ(国際連合児童基金) 事務局長  キャロル・ベラミ-

因みに、日本ユニセフ協会の会長は、もと日銀総裁・澄田智氏である。
いかがでしょうか?ほろりときた人は、酒を少し慎み、罪滅ぼしをやってみては? 心があっ
たかくなりますよ! 小池さんのこともあるし、歳の順とは限らんぞ!
特に街頭などで強要されるのが苦手な貴方、 郵便局で振込みのできるこの方法は便利ですよ!
ご希望があればお知らせください。振込み用紙を送るよう連絡をとります。。。

7

 

落書き2003

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月23日(日)07時52分51秒
返信・引用
    .

                 落書き 2003

                             ペンネーム 今多 迷道
                   『落書き帳』




ギャラリ-のPHOTO   2003年 1月31日(金)09時03分

昨日・今日と晴天が続きます。日差しもかなりエネルギ-を増して、直射日光は熱い程です。
日も長くなりました。 昨日5時頃退社しましたが、1ケ月前は真っ暗だった空は青く、ビルや
家屋のシルエットの陰に沈んだ夕日の光をうけて、2~3個浮かんだ雲が、茜色に輝いていま
した。ギャラリ-のPHOTOが、真冬の戦場ケ原から明るい花の写真に変わりました。 花の
名前は鳥星さんに任せて、このPHOTOの鮮やかさ・明るさは、まさに「春遠からじ」を思
わせます。




オ-ストラリア自転車一周   2003年 2月19日(水)10時32分

いつも使っている僕のパソコンは今壊れている。昨日から他のパソコンを使ってホ-ムペ-ジ
を覗いている。先週末から数日間ホ-ムペ-ジを見なかったら、その間に沢山のメッセ-ジが
入っており、賑やかなものである。この分なら僕の「小話の箱」が休みにはいっても大丈夫で
ある。小話の箱もそろそろ話のネタが尽きてきましたので、あと数回で慰労休暇を取りたいと
思います。
ところで前に紹介した「オ-ストラリア一周」の件、武藤君から第二便が届きました。

2月6日シドニ-をスタ-ト直後、まさか!たった41km走った地点でパンク。30゜Cの炎
天下、サ-ビスエリアも木陰も無い。東名高速のような所で無気力状態のところ、たまたま通
りかかった道路パトロ-ル車に、自転車ともども近くのキャンプ場まで乗せて貰いました。
2月7日はゴスフォ-ドまで45km,2月8日はニュ-カッスルまで96km走ったところで、
またしてもパンク!これでふんぎりがつき、自転車旅行は中止することにしました。
3日坊主で叩きのめされました。トホホホホ--。

言わんこっちゃない。こんなもんだろうバカタレが!オ-ストラリア一周25000kmと聞く。
早めにギブアップして、むしろ幸いと言うべきか?




もう一言!   2003年 3月30日(日)18時07分

このところ非常に忙しくて、もう一言言いたいと思っていたのが のびのびとなってしまいま
した。墨田公園のさくらの写真も春うららの様子で、「もう止めとくか!」とも思ったんです
が、すばらしい反論が貰えるかもしれないという期待で、もう一言言うことにしました。

仮面ライタ-さんは戦争の悲惨さを直視する視点が欠けていると言われますが、私も「戦争は
いかなる理由があっても犯罪行為である」と認識しています。
しかし犯罪者と言われようと人非人と言われようと それは覚悟のうえで容認論を唱えている
わけで、視点が欠けている訳ではありません。
今球場で野球をやっているとします。 プレ-ヤ-はブッシュや小泉さんたちで現実の政治の
当事者で、それぞれの国の現在と将来を背負って日々政策決断をしています。われわれは観客
席に居ます。あなた達戦争反対論者は、外野席に居て,裁判官よろしくプレ-ヤ-のやってい
ることに判定をくわえ、クソミソに批判している、責任を取る必要も無くヒュ-マニストでい
られる いわば安全な場所にいる評論家にしか見えないんです。
しかし我々は内野席に居ます。グランドの近くに居て、目前のプレ-ヤ-の目線でものを考え
ようとしています。われわれ日本人は日米同盟のもと、経済優先で現在の繁栄を享受してきま
した。その現実のもとで今回、米国について容認論をとるか?反対論を取るか?選択を迫られ
たわけです。非核宣言をした日本が 何でもありの金正日政権を目の前にして、日米同盟重視
の選択を取るのは、日本の将来に責任をもつものとして当然の選択だと思うからです。
フセイン政権も金正日政権も力だけが生き残りの為の手段です、核兵器を持ちたいという衝動
を強烈に持っています。経済力は貧弱でも 一発でも核爆弾を持てば 強力な脅迫手段となり
ます。そうなればこの二つの政権を押えることは非常に困難となります。
フセインも金も「やるならやってみろ!どうせ生きながらえられないなら、死なばもろとも、
お前ら全部道ずれにしてやるぜ!」という奴だとうことは、今までやってきたことを見れば自
明の理でしょう。
普通の神経を持っていれば、一般民衆は戦闘場所から避難させるものです、ところが、フセイ
ンはバクダッドから民衆が避難するのを阻止し、軍隊を民衆の中に移動させて、人間を楯にし
イライラ戦争の時なんか、先ず子供たちを先に歩かせて地雷を爆破させ、その後を安全に軍隊
を通すということを平気でやった人間です。
こんな男が話し合いをやったって約束を守りますか?今回の国連監視団の査察だって、アメリ
カが数十万の軍隊を実際にイラク近辺に展開してはじめて認めたものでしょう。ここまでやら
なければ言う事をきかないんです。こんなことはアメリカが圧倒的な軍事力を持っているから
出来たことではないですか?フセインも金もまったく異質の政権です、いわば癌です、癌は早
期発見早期摘出をしないと全身に転移します。アメリカさんがそれをやってやろうというんで
すから、アメリカ様様ではないですか?テロを覚悟してでもアメリカを支え、応援するのが日
本の国益にかなう選択です。絶対にフセインにも金にも核を持たせることは阻止しなくてはな
りません。

どうか仮面ライタ-さん内野席に下りてきてください。内野席の議論とはこういうことです。
フセイン政権も金正日政権も平和勢力で、話は通じるし、約束もちゃんと守るというなら、そ
れを証明してください。戦争という腕力を使わずとも押さえ込めるというなら、その手立てと
手順及びそれを実行するのは誰かを論証して下さい。 なるほどそんな手があるのか!という
説得力ある説明がなされたら私はすぐに転向します。むしろそのように論破されることを期待
しています




英語表現回答   2003年 4月25日(金)14時26分

ちょっと暇が出来たので考えてみました。山勘で回答します。
鰐はもともと水の中に住んでいるので、泣いているのか 目が濡れているのか解からない。
大人しい鰐も居るらしいが、獰猛な鰐の性質からすると、心とは関係なく目が濡れているだけと
いうことから、 空涙、つまり悲しくもないくせに泣いてみせること。
と推定しましたが、いかが?




色々と!   2003年 5月13日(火)15時37分

まぁショッキングな色が続きますね! 歳を取ってくると、昔は使えなかった色を思い切って使っ
てみたくなるようですが?

数年前に会社の玄関前に出来た ツバメの巣で、今年も雛が孵りそうです。今親鳥が卵を暖め
ている様です。 巣がかなり低い所に出来ている為、去年迄は人が通る度に親鳥が卵を離れて
逃げていたのに、今年は人が通っても居座って逃げないところをみると、やはり 去年と同じ
親が巣に戻っているんですかね? この巣の近くを通る人は悪戯をしないという去年の習熟効
果ですかね?
鳥星さんに質問!ツバメの巣の相続はどういうル-ルになっているんでしょうか?一度作った
巣はその親が毎年使っているのか?それとも第一子に譲って自分は又別の巣をつくるのか?

斜光の原稿締め切り日が近づいてきました。僕はもうひと頑張りしないといけません。
ところでオ-ストラリアに行った武藤君、まだ帰ってきません。斜光に書かせるつもりでした
が無理なようです。
先日送ってきた絵ハガキによると、オ-ストラリア一周の約5分の4ぐらいを巡っているよう
です。
オ-ストラリア大陸の最北端の岬、ケイプ・ヨ-クに行った。ケアンズから300km北のレイ
ク・フィ-ルドから先の700kmは、未舗装・赤土の埃だらけのアップダウンロ-ド。数えき
れないほどの河・小川・クリ-クを渡って進みます。雨季には河が増水して、想像を絶する水
量となり、道は寸断されるそうです。お互い見ず知らずの旅行者との、5泊6日の野外生活で
した。




同感   2003年 5月22日(木)09時01分33秒

熱海MB会報告  秋月夫人を一人入れただけで、会の雰囲気が「ぐぐぐーん」と上品になっ
たという Oちゃんの意見。全くもって同感です。




オ-ストラリア旅行   2003年 5月25日(日)09時35分

このところ 妙に仕事も遊びも忙しく、更に斜光の原稿締め切りにも追われて、今会社に出て
きてパソコンに向かっています。
オ-ストラリア旅行に行っていた武藤君が やっと5月14日に帰ってきたそうです。2月2日に
成田を出発してから3ケ月以上も 向こうでフラフラしていた訳ですが、今は オ-ストラリア
での生活が 夢幻のように感じられ「ボ- 」となってい、日本の山や樹木の新緑が殊更鮮や
かに感じられるそうです。
従って今回の斜光への投稿は諦め 次回に延ばすこととしました。




お灸の奇跡   2003年 6月 5日(木)09時08分

何! お灸で毛がはえてきたって? 秋月教授 是非やってみてくれませんかね!
もし本当になったら、私も前言を撤回して「お灸の会」に入会します。入会希望者が続々と現れ
るんじゃ-ないですか!




ツバメの子はどうしたか?   2003年 7月23日(水)14時06分

弊社の玄関口にツバメの巣があることは以前報告した。
今年も例年の如く春に出来た子供は無事巣立っていった。鳥星さんが教えてくれたとうり、初
夏の二度目の子が三羽孵り、騒がしく餌をねだるほどに成長した。ツバメの糞が玄関のドアの
前にかなり落ちていた。表玄関である。お客さんの通路でもある。家主さんはツバメの巣のす
ぐ下に、糞落下対策として板を取り付けた。数日して子供達の泣き声が聞かれなくなった。
そして家主さんは「子供たちは無事巣立ったようですね!」言っていたが、僕はそうは思わな
い。ぼくは玄関口にカラスの羽を一片見つけていた。おそらく糞対策の板がカラスの足場とな
り、子供は襲われたに違いない。親鳥は死に物狂いの死闘を挑んだ結果が、一片のカラスの羽
だと思うからである。




ツイテナイ   2003年 8月 6日(水)14時49分

先日の日曜日 ちょっと仕事をしようと思って会社へ行った。駐車場へ車を入れようとしたら、
引越し中のトラックが「とうせんぼ」をしている。已む無く会社の前に路上駐車をした。
1時間ほどして「そろそろ動かしておかないと危ないかも?引越しも終わっただろう」と車を
見にいったら、もう駐車違反の紙がベタッと貼られているではないか!書かれていた時間を見
て頭にきた。車を止めたのを見計らったようにチョ-クで時間チェックされ、違反の判定を受
けて紙を貼られたのが、僕が見にいった直前の事である。ものの5分たつか否かというところ
だったのである。
先ほど罰金を払ってきたところである。どうもおさまらない!
だいたい駐車違反という法律は 交通を妨げるような駐車を取り締まるものである。路上駐車
とはいえ、まるで車の通らない場所に置いたのであるから 誰にも何の迷惑もかけていないは
ずである。なのに警察は迷惑になるような車はろくに取り締まらずに、閑静な住宅地の車を取
り締まるのである。行政上の見識がまるで無い。役人根性である。そんな暇があったら、犯罪
をもう少し減らせ! 憂さ晴らしである。




       今多 迷道 さん!  投稿者:鳥星  2003年 8月 7日(木)09時38分
       今朝の朝日新聞の社会面にツバメの記事が載っています。
       「ツバメの繁殖率大幅減」。カラスによる被害もでていますよ。

       先日の校正会の時、伊藤邸から数軒目の玄関にツバメが営巣していました。(今年2回目
       の繁殖)ヒナがだいぶ大きくなっていて、3羽ほどのヘルパーが餌を運んでいました。
       今多さんに教えようとそのとき思いましたが、美味しい朝ごはんをいただいている うち
       に忘れていました。
       今朝の記事を見て思い出しました!




雑談   2003年 8月 9日(土)12時36分

今会社に出てきてパソコンと対面しています。
一人でお茶を飲みながら、ノンビリと寛いで雑談。
それにしても近藤君が描いたのか?奥さんが描いたのか?日比谷公園の盆踊り大会のポスタ
-の女性。なかなか色っぽくていいね!

会社の玄関のツバメの話。カラスに子供達は殺られたはずだと下の階の家主さんに言ったら、
下では今、二派に分かれて揉めています。
「あら!そういえば私もカラスの羽を見たわ!私はもともと糞よけを付けるのは反対だった
のよね。糞よけは取らないと来年はツバメは来ないよね!」という人と、
「玄関にツバメの糞があるのは良くない、取るべきでない!」という人と喧喧諤諤。
はたしてどちらに軍配があがることやら。今は未だ糞よけは付いたままである。

匿名か実名か?の話。確かに実名で投稿者の顔が見えたほうが、イメ-ジも広がって興味が
湧くという効果があります。一方書く側には匿名でペンネ-ムにすると、変身願望というか、
自分の枠を越えて書き込めるという部分があります。人はそれぞれあるイメ-ジというもの
があり、あの人はこういう人だと規定してしまって見る傾向がありますが、本当は人間は極
めて多面的で、状況やその時の気分によってどの自分が出てくるか分からないじゃ-ないで
すか。人間皆ジキルとハイドの側面を持っており、名前を変えることによって自由に普段の
自分と違う自分に変身できるという面白さがあると思いますよ。いくつも名前をもっている
中島君や古賀君は、どうもこの化があると思うんだがいかがでしょう。
あれは多分あいつだ!いやいや俺はあいつだと思うという話題にもなるし。そういえば仮面
ライタ-さんは未だに謎であり、まだ皆 特定出来ずいるが、当人はその仮面の下でニタニタ
ほくそえんでいることであろう。ところが意外と我々の近くに居て、イメ-ジからは全く想像
も出来ないという人かもしれないではないか。




中島君のホ-ムペ-ジ   2003年 8月11日(月)16時00分

ちょっと暇が出来たので、中島君のホ-ムペ-ジを覗きました。いや-!すばらしいよ!全て英語
で説明してあり、彼の絵を楽しめ、そうそう今度行く予定の 軽井沢の彼のコテ-ジもスケッチ
が出ています。これでイメ-ジもできたし、バ-ドウォッチングとマ-ジャンが楽しめそう。
ちょっとサボっていたのは俺だけかな?君のホ-ムペ-ジ、どんな人が、どのくらいアクセスして
いるのかな?




ご苦労さん   2003年 8月12日(火)10時11分

古賀君どうもご苦労さん!
しかしこのポスタ- 非常に重厚で、ビッグネ-ムにふさわしい絵になっているね!




盆踊り   2003年 8月22日(金)16時26分

明日と明後日は我が桜が丘2丁目の夏祭りである。色んな模擬店を開店するが、僕は「かき氷
店」の店長である。天気・気温は「かき氷」には大繁盛間違いなしで、かわいい子供達が沢山
買いに来るのは楽しみである。我が町内の主な催しは これまで我々「成人クラブ」が担って
きた。
この親父達の集まりは昔は「成人ソフトクラブ」と呼んでいた。ところが僕が山形に単身赴任
して帰ってきたら「成人クラブ」と呼ばれており、いつの間にやら「ソフト」が取れている。
メンバ-が高齢化して、もうソフトボ-ルをやる元気が無くなったのである。ところが皆口だけ
は達者である。ある酒席の会合で、提案があり「今年の夏祭りの神輿担ぎは皆でハッピを揃え
ようではないか!いままでの揃いの赤シャツではみっともなくてしょうがねぇ!第一神輿を担
いでも気分がでねぇ!」と言いだした。最近では「どうぞどうぞ!お先にどうぞ!」といつも
逃げ腰の連中がである。やばいな-!と思っていたがとうとう酒の勢い!今年はハッピを揃え
てしまった。
普段からまだまだ俺は若いと強がりを言ってるてまえ、ことしもまた皆に要領よく逃げられて
結局は全工程を担ぐ羽目に陥りそうである。去年同様、肩の皮が剥けて当分の間ヒリヒリを我
慢という結果になりそうで、それを思うと若干憂鬱である。




盆踊り   2003年 8月22日(金)16時26分

明日と明後日は我が桜が丘2丁目の夏祭りである。色んな模擬店を開店するが、僕は「かき氷
店」の店長である。天気・気温は「かき氷」には大繁盛間違いなしで、かわいい子供達が沢山
買いに来るのは楽しみである。我が町内の主な催しは これまで我々「成人クラブ」が担って
きた。
この親父達の集まりは昔は「成人ソフトクラブ」と呼んでいた。ところが僕が山形に単身赴任
して帰ってきたら「成人クラブ」と呼ばれており、いつの間にやら「ソフト」が取れている。
メンバ-が高齢化して、もうソフトボ-ルをやる元気が無くなったのである。ところが皆口だけ
は達者である。ある酒席の会合で、提案があり「今年の夏祭りの神輿担ぎは皆でハッピを揃え
ようではないか!いままでの揃いの赤シャツではみっともなくてしょうがねぇ!第一神輿を担
いでも気分がでねぇ!」と言いだした。最近では「どうぞどうぞ!お先にどうぞ!」といつも
逃げ腰の連中がである。やばいな-!と思っていたがとうとう酒の勢い!今年はハッピを揃えて
しまった。
普段からまだまだ俺は若いと強がりを言ってるてまえ、ことしもまた皆に要領よく逃げられて結
局は全工程を担ぐ羽目に陥りそうである。去年同様、肩の皮が剥けて当分の間ヒリヒリを我慢と
いう結果になりそうで、それを思うと若干憂鬱である。




ピンクレディ-   2003年 9月 7日(日)11時05分

江戸川の遠景もいい、その前の新鮮で色艶の良い桃の絵も良かったね! noriさんなど 涎を
垂らして眺めていたんでは?
ピンクレディ-が再結成して「メモリアル・コンサ-ト」で全国ツァ-をやっており、横須賀芸術
劇場にやってくる。その安い入場券が手にはいるという。あの切れの良いダンス・歌を聴きたい
な-と思っているが、何となく恥ずかしい。沽券・世間体・プライド・諸々が邪魔するのである。
若干年代が違うし、会場に入って周りを見たら、全く自分が場違いの所に居る、ということにな
ったら?と まだ迷っている。




行ってきます   2003年 9月10日(水)09時46分

行って来いという応援者に勇気付けられて、ピンクレディ-見に行ってきます。
楠葉さん フンザ旅行、行くなら充分気をつけて行ってください。
危険な所へ行くという意味で思い出しました。大学の同窓会である友達が、退職したらボラン
ティアでパレスティナへ行くと言うんです。「ボランティアでも行くところは他にもいくらで
もあるだろう。何でそんな危険な所へいくんだ?」と質問したら、敵と味方をクリアに意識す
る世界。危険な所だけに 味方として気を許した仲間には濃密な人間関係が出来て、それでけ
に何かしてあげたいという気持ちになるとのこと。平和な日本には希薄になったものが、向こ
うにはあるとのことであった。退職したら出きるだけ楽しくやろうと考えている自分が、ちょ
っと恥ずかしくなったものである。彼は相当の覚悟で行ったはず。観光気分では行けない社会
が外国には沢山あるみたい。
充分注意してください。




ピンクレディ-   2003年 9月25日(木)10時40分

鳥星さんのお陰で 最近は色んな鳥の姿を見ることができます。それにしても創造主はこの地
球上に何と美しい諸々の動物を造りたもうたことか!驚くばかりである。

ピンクレディ-のメモリアル・コンサ-ト行ってきました。会場に入って自分の席を捜すとせり
あがった後方のど真ん中の席、なかなか良いではないか。横須賀芸術劇場は約2000席ぐらいあ
るはずである。見渡すと空席は数えるほど、満員である。30代・40代が中心か?禿げや白髪
は数えるほどしか居ない。ちょっと居心地が悪い。始まった。スポットライトを浴びて、真っ
黒いドレスに白い肌が浮き立つ。スラリとして体形は昔のままである。45歳と46歳になった
そうである。
「きゃ-」「ミ-ちゃ-ん」「ケイちゃ-ん」盛んに声がかかる。しばらくト-クがあり、その後腹
に響くようなビ-トとともに聞きなれた曲の伴奏が始まった。「ワァァァ-」という大歓声ととも
に皆立ち上がったのである。一瞬俺は人の壁に取り巻かれてしまって何も見えないのである。
他人が自分の後ろに座っていることなど一顧だにせず立ち上がったのである。それも40・50のお
じさん・おばさんがだよ!俺はしばらく茫然自失、その後は憮然となって「俺は絶対立たんぞ!」。
何も見えないが頭上を仰ぐと3階4階の客席は見える。そこでも皆立ち上がって手を振り体をく
ねらせて踊っているのである。40・50のおじさんおばさんがだよ!特に俺の前のいい年をしたお
じさん、電気の通ったウチワを打ち振って立ちっ放しである。
終盤になった。さすがにピンクレディ-の踊る姿をまるっきり見ないで帰るのも癪だなぁと思い
直し、恥を偲んでちょっとだけ立つか。念のため後ろの席を振り返ってみたら、意地を張ってる
奴がもう一人だけいたのである。それも俺のすぐ後ろの席に。
それじゃ-俺も立つわけにはいかない。とうとう最初から最後まで人の壁の暗がりの底に座った
まま帰ってきたのである。場違いなところに行ってしまった。




       ピンクレディ-の今多迷道 さん投稿者:寫香  2003年 9月25日(木)23時33分
       読んでいて、最後まで何度も吹き出してしまいました。
       がんばったねぇ。よく我慢した!立派!
       最前列の席だと良かったのに!
       (それとも、本当のところ、時々は立って見たのじゃないのか。)




       迷道さん、踊らにゃ損です 投稿者:一光  2003年 9月26日(金)15時33分
       私の家内も娘と一緒に、このピンクレデイーコンサートを3階席から聞いていたようです。
       上から見ていると、禿げ上がったり、白髪のおじさんや、腹の出たおばさん達がほとんど
       だったと言っていましたから、迷道さんも場違いじゃなかったと思うよ。
       会場がそんなに盛り上っていたのなら、迷道さんも一緒になって、踊らなきゃー。
       痛い腰が治ったかもしれないのに。




蝉しぐれ   2003年10月 6日(月)15時34分

このHPを見ている人の中には「藤沢ファン」は沢山居るようですよ! 僕も以前書いたことがあ
るが、藤沢物は全部読んでるはずである。最近見つけた文庫本で、短編をいくつか集めた極めて
薄いものが本屋に出ていました。おそらくこの文庫本が最後のものと思われます。まだ読んでな
い藤沢ファンは捜してみてください。
90歳の同窓会なんてすごいですね!恐らく二人だけじゃ-ないですかね?18日に予定している我
が関東同期会は60名参加の予定です。90歳まで続きますかね?
果たして誰が残るのか?




暇が出来たので   2003年10月13日(月)10時32分

昨日予定の健民運動会が今日に延期になり、今日は強風と雨で中止とのこと。急に暇が出来たの
でPCに向かっている。
大久保君のご冥福を祈ります。この様な突然の亡くなりかたは、現在配布中の「斜光」8号にも
書いていますが、すぐ近所の友人で経験しています。ほんの昨日普段どおり会話を交わした相手
がもう居ない。あの笑顔も・あのきびきびした動きも・あの大きな声での物言いも突然無くなっ
てしまうという空白感というのは、なんとも不思議な、騙されているような虚脱感である。
この様に死がやってくるものなら、われわれもどのように死を迎えるか準備をしなくちゃ-。
自分の人生をどう閉じようか?今後をどう生きようか?あらためて考えざるをえない。

MB会の案内。25日なら会社のレクレ-ションで欠席の予定であったが、26日ならOK出席のつも
りである。 僕はMB会への出席率は高いほうである。賭けも無いマ-ジャンが何故面白いのか?
それは皆がベテランでポ-カ-フェイス、無言の緊迫した勝負も面白いのであるが、MB会は初心
者の女性軍が多い。 マ-ジャンというのは運にかなり左右される波乱万丈の局面が多々ある。
いわば人生の縮図みたいなものである。初心者の女性軍にはその喜怒哀楽がまともに出てくる
のである。
特に オ-ちゃんやノリちゃんにはそれが出てくる。「ワ-良い牌が入ってきた。これは大事な
牌だから中に入れておこう」「あっドラを持ってきたな!」と言うと「アハハハハ‥」もう見え
見えである。後ろから見ている。隣がテンパッた。こちらでは切りたい牌がいくつか残っている。
その中にたり牌が残っている。「どっちにしようかな?」「こっちかな?」「いや1やっぱりこ
っちかな!」と当たり牌を握ったり離したり、ドキドキしながら後ろから見ているのも楽しいの
である。
どうか暇な人は是非顔を出してみてください。

ちょっと良いことがあった。会社への通勤定期6ヶ月分を買ったばかりであった。先週末、近く
の体育館に泳ぎに行った帰り。バ-で開閉する自動の駐車場でのことである。駐車券を定期券の
上に重ねてはさんでいた。その駐車券を取り出して差込み、駐車場を出たのであるが、帰宅し
て定期券が無くなっているのに気付いた。かなり耄碌したのを認めざるをえない。駐車券と定
期券を重ねて摘んだのを気付かなかったのである。すぐに取って返したがもうどこにも見つか
らない。
その後駅に問い合わせたり、体育館に問い合わせたりしたが見つからず、諦めて定期券を買い
なおしたのである。ところが一昨日、体育館から遠く離れた警察署から電話が掛かってきたの
である。
最近は殺人・強盗・犯罪が連続している。それも心無い畜生の仕業としか思えない犯罪ばかり
である。日本はいったいどうなってるんだ!と言いたいくらいであるが、それはほんの一握り
の人間のやること。殆どの人がまだまだ心を持っている善人である。そう思わせる良い出来事
でした。




同窓会   2003年10月20日(月)11時00分

藤澤さん!みつる嬢好みの男の範疇に入れて貰って 大変光栄です。
いずれにしても皆さんに楽しんでいただいたのであれば、幹事をやった甲斐があったというも
のです。
皆さんのご協力大変有難うございました。僕自身も一次会・二次会とも楽しませていただきま
した。




忙人の一週間   2003年11月 2日(日)11時57分

NHKの深夜放送での佐賀特集、僕も聴きました。伊万里出身のソプラノ歌手の歌を聴きました。
O-ちゃんへ 下見というから、日帰りでちょっと見てこようかというぐらいだろうと思ってい
たら、どうも一泊して朝方まで囲む魂胆らしい。そういえば先週のMB会、秋月教授に満貫放り
こませてトップを取ったからな! かなり重症になってきたんじゃない?
これはニュ-スでもやっていたが、小泉首相の受閲をうける海上自衛隊の観観式に、ある人に貰
った潜水艦救難艦「ちはや」の乗艦券でその訓練の模様を見ることが出来た。その日は生憎の雨
と強風で、顔に当たる雨滴があんなに痛いものだとは初めて経験した。
観閲部隊と受閲艦艇部隊とに分かれて、風雨の中を縦陣で進む海上の要塞のような艦艇群や艦橋
の中での様子、椅子に座って前方を直視して微動だにしない艦長に向かってレ-ダ-・海図・無線
・電話等々内外の情報が口頭で刻々と伝えられる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に日露戦争時の
日本海海戦の戦闘場面は詳しく語られているが、その様子を彷彿とさせる興味ある一日だった。
あれなら北朝鮮もそう易々とは武力を使えまい、かなりの抑止力になっているだろうと思った。
先週末は会社のレクレ-ションで、横浜埠頭からロイヤルウィングという観光船に乗って、中華
料理のバイキングとナイトツァ-のクル-ジング。横浜の夜景の美しかったこと、それに大桟橋が
模様替えされて二階建てのオ-ル板張りに変化。昔の直線からオ-ル曲線へ。丁度起伏の多いゴル
フコ-スのようで、野原を歩くような楽しい散歩道に変身していた。
昨日は久しぶりにテニス。高木ブ-みたいに ボ-ルの後ろから遅れて追っかけるような、ヘトヘ
トの状態になった。そこで今日は休養。明日と明後日は那須へ紅葉狩りとゴルフ。ア-忙しい。




銀杏並木   2003年12月 1日(月)11時14分

昨日はMB会の日、その前に「うどんこ」さんご推薦の「銀杏並木」を見てきました。
厚い雲が低く垂れ込め、雨がそぼふる生憎の天気でしたが、雨に打たれた幹・枝が黒っぽく
背伸びをして、天高く聳えていました。その分真黄色に生い茂った葉が対照的に鮮やかで、
黄色い長いトンネルを歩くと、次々と枝を離れた葉っぱがハラハラと打ちかかるという、周
りの空間を黄色一色に染め上げたまさに今が見頃というタイミングだと思いましたよ!
MB会も新人が二人加わって賑わい、家に帰りついたのは午前様でした。




匿名談義   2003年12月 3日(水)09時42分58秒

ギャラリ-の写真は、一瞬違う場所かと思った。僕が歩いたのは11月30日、12月1日の台風で
かなりの葉っぱが振り落とされたらしい。よく見ると近藤君も黄色い絨毯のほうに力点を置い
たようだし。これもまた風情があるようだね!
Canadian Birdsの真っ黒い背景も、見易く印象的だと思ったね。

ところで匿名談義。読者から見ると、斜光の色眼鏡・編集後記やホ-ムペ-ジの匿名投稿は極め
て興味を減ずる。ちゃんと名前がわかり、イメ-ジがあるとちゃんと読もうという気になる。
という意見である。お説ごもっとも、その通りであろう。
一方書く方から言うと、名前を変えることで、何か自分の枠を破って別人になって何でも書け
るという気分を味わうことができる。気分だけかもしれないけどね。勝手だけど書き手として
の主張である。それにしても確かに匿名の氾濫状態はあまり良くない。猛省すべきだと思いま
すね!ノリさんも、有名なノリさんと混同されている可能性ありとのことで、早速苗字を入れ
たようですが。僕は今後、斜光には実名で投稿することにします。しかしホ-ムペ-ジはそのま
ま今多迷道で勘弁してください。
理由。僕は大川という県外からの越境入学組、ラグビ-部からかなり強硬に入部を勧められたが、
結局断って、クラブ活動もまるで無し。実名出してもあまり変わり映えしないとおもわれる。
それに僕を知っている人には「はは-ん、あいつだな!」とわかるような書き方をしているつも
りである。
O-CHANへ。 MB会。 昼飯食って美味い晩飯食って、思いっきり飲んでダベッてたったの千円。
新人二人、分かれ際に「今後ともよろしく!」と言っていたから、相当気に入ったみたいだよ!よ!

7

 

落書き-1

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 3月22日(土)19時00分14秒
返信・引用 編集済
  .

                 落書き 2002

                             ペンネーム 今多 迷道
                   『落書き帳』





訂正法?   2002年 6月28日(金)08時56分
小話の箱で誤字あり、訂正したいが どなたか方法を教えて下さい。




      原稿の編集・削除について 投稿者:kazu.k  2002年 6月28日(金)09時20分
      原稿の編集・削除の方法を下記に示します。
      1.この落書き帳の一番下に「管理者メニュー」という欄をクリックしてくださ
       い。(そのまえの空欄のパスワードの記入は不要です)
      2.自分の投稿の削除と編集メニューの画面にかわります。
       目的の原稿の「編集」をクリックします。
      3.原稿の修正を終了し、「この内容で修正する」及び
       「掲示板に戻る」をクリックしてください。


      老婆心ですが、直接投稿欄に書き込むのもいいですが、何かの拍子に画面が飛ん
      だりして、せっかくの文がだめになるケースがあいますので、メモ帳やword
      で作成した原稿を投稿欄にコピー・貼り付けした方が安全です。




kazu.kさんへ  2002年 6月28日(金)17時13分
訂正できました。サンキュウ!
一昨日テレビで今日の運勢をやっていました。何となく見ていたら今日の最悪の運勢の人は
「水瓶座」えっ!と思っていたら、息子が車をぶつけ、仕事では客先からクレ-ムはくる、
このようなミスはする、マ-ジャンでは負ける。このところ ツイていません。




苦労様  2002年 7月 1日(月)08時31分
鳥星さんへ
大変永い間ご苦労様でした。私もつい最近定年退職のお祝いをしてもらったばかりです。
我々の世代は真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争の緒戦の時期に生まれ、戦後を生き、昇竜
の日本を支え、そしてバブルが弾けて停滞の中に居ます。結構波乱の歴史を生きてきまし
た。ちょっと息抜きをして下さい。あなたは沢山趣味を持っているので、暇を持て余すこ
ともないでしょう。




月間読書人さんへ  2002年 8月 2日(金)09時41分
日本百名山に挑戦のようですが、同じ事を目標にしているのが僕の小中学校時代の友達に
居ます。もう40台に乗ったようで、いつも絵ハガキの報告書が届きます。こういうのは
誰か聞き役がいないと張り合いがありませんからね。先日きつそうでない山に登る時は連
れていってくれと頼んだら候補の山が いずれも2千5・6百メ-タ-の山でしたので、
恐れをなしてご遠慮申し上げました。




ツバメの雛があぶない! 2002年 8月 5日(月)15時36分
わが事務所は建設会社(家主さん)の三階に間借りしている。今年の春 ツバメが玄関入り
口の真っ正面に巣作りを始めた。人が出入りする真上にあたるところにである。
これじゃ-ツバメの巣は叩き壊されるだろうと思っていたら どうも壊される様子はない。
そのうちツバメの糞が玄関に落ち始めた。するとその位置にダンボ-ルが敷かれ、”ツバメ
の糞にご注意下さい”という張り紙が貼られた。
ところが玄関である、人の出入りが頻繁である。親鳥が帰ってきたところで 人に出くわす
とUタ-ンしてどこかへ逃げていくのである。その繰り返しである。ピ-チクパ-チク黄色
いくちばしを大きく開けて餌をねだっている姿は、僕は一回しか見ていない。普段極めて静
かである。雛がまだ居るのか居ないのか?同僚に聞いてみると、”親は時々帰ってきてるみ
たいですよ!”それにしてもいつまでも静かなのはおかしいと思っていたら、今日子供の姿
を確認しました。一応ホッとしたが、よく見ていると2匹か3匹しか姿が見えない。それに
子供のくせに泣かないし、元気も無いのである。 今ごろはもう巣立っていてもおかしくな
いのでは?餌が少なくて成長が遅れているのでは?
鳥星さん どう解釈したらいいんでょうか?




鳥星さんへ  2002年 8月 6日(火)15時45分
先生の言う通り 今朝会社へ入る時にしばらく覗いていたら、ツバメが二羽飛んできました。
親鳥が飛んできたのかと思いましたが、よく見ると型が小さい。子供たちだったのです。
もう飛行訓練中だったのです。巣の中には一羽しか見えなかったので間違いありません。
立派に成長していたんです。




O-chanさんへ   2002年 8月 9日(金)14時28分
僕もあまりお金には縁がないほうですが、 2年程前銀行員に勧められて宝くじを買いまし
た。それがなんと10枚のうち1万円・3千円と3百円と3枚当たっていました。こりゃ-
自分にもお金が廻ってくるようになったのか?とおおいに期待をして、その後ず-と買って
いましたが、3百円しか当たっていません。それで半年ほど前からもう買っていません。
それでも貴女より僕のほうがいくらかお金に縁があることがわかって 幸福です。
しかし 買い続けている貴女のほうに 一発逆転の可能性があるわけで、そうなることを祈っ
てます。僕は明日より、9日間の夏休みにはいります。しばらくご無沙汰します。




O-chanへ  2002年 9月 2日(月)17時46分
やっと一人になりましたということだけど、娘さんを送り出したということかな?ところが
今度はすぐに 寂しくて寂しくて・・・となるんではないですか?大学時代 S君という友達
がいました。彼の下宿先は獣医さんの家、高校生・中学生・小学生の娘・息子のいる家庭で、
家族の一員のような扱いをうけて非常に居心地が良いもんで、我々5人の仲間はよくその家
に遊びにいきました。
その頃その家のテレビでよく見たのが「夢であいましょう」でした。 とにかくS君以外の
友達は一人だけのわびしい自分の下宿に帰りたくない、S君が居なくても勝手にその家に上
がり込んでいました。そのうちS君は「これじゃ-俺はぜんぜん勉強できない!この家を出
る!」と言い出しました。さんざん説得したんですが聞き入れません。そして町中から離れ
た静かな新しい下宿先へ引っ越しました。我々は全員で手伝いしました。「これでじっくり
勉強できるぞ!」と本人は大満足のご様子でした。ところが翌週の日曜日には、S君は元の
獣医さんの家に帰っていました。我々はさんざん どくつきました。隣の人に聞くところに
よると、引っ越してきた一日目の夜から 立ってはため息をつき 机に座っては又ため息をつ
き、ため息のつきどうしで、とうとう心配になって 「どうかしましたか?」と声をかけた
くらいだそうです。
そのS君今では美人の奥さんにベッタリで、食事の後片付けが趣味だという、一風変わった
男です。「なにが 勉強できないだよ!」
O-chan あなたもこのタイプだと僕は思うんだけどな!
鳥星さん 第二シリ-ズ面白いよ! 仮面ライタ-さん! 全く同感です!




鳥星さんへ 2002年 9月 3日(火)11時34分
ツバメについての疑問
ツバメがそれほど戦闘的な鳥だとは知りませんでした。ところでツバメは 先ず日本の南の
方に次第に集まり、大集団になって海を渡るそうですが、そのリ-ダ-はどのようにして決
まるんですかね?日本にもそのような大リ-ダ-が出てきませんかね?
もう一つ、越冬ツバメは群れを離れたハグレ者ですか?それとも季節感が解らなくなったカ
タワ者ですか?それとも又別の理由があるんですかね?

Kazuさんは また好奇心が旺盛なのか? 何にでも首を突っ込みますね!趣味の多いこ
と!




      今多 迷道 さんへ 投稿者:鳥星 2002年 9月 4日(水)22時45分
      今多 迷道 さんへ
      ●
      鳥の渡りについては諸説があって、それぞれうなずけます。しかしすべての
      事象をひとつの説で説明できません。
      近因と遠因が作用しているとの説明が妥当かな。近因は温度・日照・餌、遠
      因は?。
      ある学者は気温との関係を調べ、ツバメについてのその渡去日(y)を
      y=235.256-10.694x であらわしています。
      xは9月の最低気温の平均、yは渡去日(1月1日から起算しての通日)です。
      ●
      渡るときは、地域ごと場所ごとのグループで渡るようです。 全国大集合で
      セイノと渡るのではありません。もっともワシタカは伊良子崎や大隈半島な
      ど南方に突き出た半島に全国から小グループが集まり、2週間ぐらいの間そ
      れぞれがグループつくって渡ってゆきます。
      渡るときのリーダーは特定できません。むしろいないのではないでしょうか。
      各個体が行くべき方向を承知しているようです。年長者の経験のあるものが
      帰り道に詳しいということではありません。
      あぁ、それから鳥シリーズで今後出てくるカッコウは、親は先に南へ渡って
      しまい、その年生まれの子供はずっと遅れて渡去します(渡りの経験がない
      に)。しかし、白鳥や鶴の渡りの最小単位は家族です。家族が集まって団体
      ので渡ります。このばあいは、子供は親から学ぶのでしょう。
      ●
      それから、渡りをしないツバメ、越冬ツバメはなぜ渡たらないのか?…です
      が、この理由に詳しい出典を持ち合わせていません。
      推測ですが、渡らなくても餌がとれるから・・・、渡らなくても結構暖かい
      から・・そんな危険な長旅をしなくても結構ここで暮らせるンジャン・・・
      というグループなのかな?
      「仮に、南へ渡ったツバメが天候異変やその他の事前変動で全滅したとする。
      る。渡らなかったグループは生存し続けます。渡らないという行動が受け継
      がれる。このようにして種は進化する。」・・・というのはどうでしょうか。
      種があらたに分化するのは案外こんなことかもしれません。
      ヒヨドリは、50年以上前は渡り鳥という認識がありましたが、今では周年い
      ます。これは環境の変化、特に気温、温暖化がその原因かもしれません。
      (あるグループは比較的近距離を渡りますが)。

      こんなところでいかがでしょうか。




田村さんへ   2002年 9月 9日(月)17時00分
僕はCROWです。いつも自分をより過大に見せようと苦労しています。




田村さんへ  2002年 9月11日(水)14時37分
僕も今は演歌です。最近の息子達が聴いている歌はもうひとつ心に響きません。我が社に
は3人の年寄りとあとは20台30台の若い者ばかりですが、カラオケ・ボックスに行っ
ても若い者には付いていけず苦痛になってきます。会社の中では 仕事は楽しくやろうと、
有線でミュウジックを流していますが、以前はジャズ・クラシック・ポピュラ-・カンツ
ォ-ネ・ハワイアン色々流していました。ところが部屋の中が年寄りだけになると、いつ
の間にやら演歌に変わっています。
結局演歌が一番落ち着くんです。頭の中の配線は 若いうちは柔軟に新しいものに対応し
て切り替え可能ですが、年を取ってくるとそれが段々難しくなり、結局若い頃から永い間
馴れ親しんだものに回帰していくのだと思っています。




鳥星さんへ   2002年 9月13日(金)09時44分
鳥の人生も、いや鳥生も色々あるんですな-。自分も、もっと若い時に、自分の人生という
ものを もっと強く認識していたら、もっと違った道を歩いていたかも? かなり他人にあわ
せて、流されてきた部分が 多すぎたのかも? 一方で 自分の人生 そう捨てたもんじゃな
かったな-とも思ってるけどね!
・・・・迷い道。




O-CHANクイズの回答   2002年10月17日(木)16時20分
あてずっぽうで思い付くのは、mouth・tongue ぐらいです。発想が貧困かな?
健民運動会というのは あなたの近くでも行われているんではないかな?沢山エントリ-す
れば、賞品の日用品が袋にいっぱいになるほど貰えますよ!貴方が参加すれば、頑張り過ぎ
て、翌日か翌々日には身体のあちこちが 痛い!痛い!痛い!という結果になること請け合
いです。
明日は「ふ-けもん会」の ゴルフ!




O-CHANへ   2002年10月22日(火)16時45分
おしゃべりのMOUTHを袋に閉じ込めていたが、うっかり口を開けたら、秘密なんてとてもと
ても、言いたくて言いたくてしょうがない MOUTH がやっぱりしゃべっちゃった。 という
イメ-ジで誰かさんを頭に置いて回答したんですが、やっぱり駄目でしたか!





7

 

小話の箱 2004

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)23時54分48秒
返信・引用
    .

               小話の箱

                          ペンネーム 今多 迷道
                               『落書き帳』
                                2002-2004



    小話の箱では この様な ユ-モア、ダジャレ、エピソ-ド、名言、等々、
    話の種になりそうな小話をゴチャ混ぜにして乗せようかなと思っています。
    しかしながら私の箱には ほんの少ししか入っていません。そんな話なが
    ならこんなのがあるぞ!といくらでも出てくる諸兄が居られるはずです。
    私の箱の空白を埋める意味で ドンドン発表して下さい。(2002/7/3 投稿記事)



*題名は全て『小話の箱』です。題は編集部でアレンジしています。

2004年


2004/1/13
阿川と壇

影が薄いと言われますので、何とか時間を見つけて入れておきます。
9日神戸に行って風邪を貰って帰り、悪寒でブルブル震えて、結局せっかくの3連休をふいに
してしまいました。それにしても、体験的文化比較、なかなか面白いね!
ところで本題。
阿川弘之の娘、阿川佐和子は檀ふみと親友だそうである。そう言えば二人でコマ-シャルにも
出ている。二人の会話からひとつ。
おふみさんに一人の甥があって、彼女この子が可愛くてしょうがない。自ら家庭教師を買って
でて英語を教えている。学校で習う以上の学力をつけてやろうという伯母心であろう。
ある晩レッスンの途中、おふみ先生が例題の一語について回答を求めた。 「エレガントは何
の意味?」 「ええと、ええと、ええと!」 甥は答えられない、おふみさんは気取ってみせる。
「じゃ-ね、伯母さんのことを考えてごらん。伯母さんの姿を日本語で言い表すとしたら、ど
んな日本語を使うでしょう」 「解った!」 中学生は叫んだ。 「象だ!」。



2004/1/15
街おこしカレー1

横須賀市ではカレ-を「まちおこし」の手段として「カレ-の街よこすか」を盛んにキャンン
ペ-ンしている。観光課発行のパンフレットによる「カレ-ライス誕生秘話」によると。
1. 今日本人が一般にたべている「カレ-ライス」はインドのカレ-でなくイギリスのカレ-
です。イギリス人の食事は一般に質素ですが、その永い経験から栄養のバランスのとれたシ
チュ-はイギリス人の好んだ食事でした。イギリス人の船乗りも航海の時シチュ-を食べたい
と思っていましたが、味付けに使う牛乳が長持ちしない為に、永い航海の時には諦ったそう
です。そこでイギリス人はシチュ-と同じ食材(肉、人参、ジャガイモ、たまねぎなど)に、
日持ちのする香辛料(カレ-パウダ-)を使った料理「カレ-」を考案しました。
これが、イギリス海軍の軍隊食として定着していきました。
2. 明治期の日本海軍は、イギリスの海軍を範として成長してきましたので、栄養バランス
が良く、調理が簡単なカレ-に目をつけ艦艇での食事に取り入れました。最初はイギリス水兵
と同様にカレ-をパンに付けて食べていました。 しかしこれではどうも力が出ないというこ
で小麦粉を加えてとろみを付けてご飯にかけて食べたところ、これはイケルということになり

日本海軍の軍隊食として定着しました。 これが現在のカレ-ライスのル-ツともいえるもの
で、今では毎週金曜日の昼食に、北海道から沖縄まで、4万5千人の海上自衛隊員が一斉に
-ライスを食べています。
3. こうして日本海軍の軍隊食となったカレ-ライスは、故郷に帰った兵士が家庭に持ち込む
ことによって全国に広がっていきました。横須賀は海軍の発祥以来、海軍とともに歩んできた
街であり、カレ-は横須賀から広がったと言っても過言ではありません。
このことから、カレ-を横須賀のまちおこしの手段として取り上げ、観光振興及び地元経済の
活性化を図るためカレ-に関する各種施策を推進し、「カレ-の街よこすか」として、積極的
に全国にアピ-ルしていきます。と書いてある。



2004/1/21
街おこしカレー2

前回のカレ-の話の続きである。
「海軍カレ-の街横須賀」キヤンペ-ンに賛同・参加加盟したお店は40店ぐらいにのぼる。
各店舗の前には「海軍カレ-の店」という「のぼり」が立っている。
私はある一軒にはいった。そこで質問をした「海軍カレ-というのは、一般のカレ-と何処が
違うの?その特徴は?」。「海軍では栄養バランスを考えて、必ず牛乳とサラダが付きます。
私どもでは牛乳とサラダをお付けしています」。結構うまい牛乳がついて780円、なかな
かよろしい。ある日次の店に行って同じ質問をした。「じゃがいもに特徴があります。
海軍カレ-のじゃがいもは、とても大きかったそうです」。なるほど!出てきたカレ-のじゃ
がいもは、若干皮も残っていて、全部芋をまっ二つに切った大型の野性味溢れるもので、
かぶりつくと、
「熱!熱!熱!」
なかなか美味い芋であった。
三軒目に行った。二十歳前後の軽いお兄ちゃんが注文を取りにきた。
ここのカレ-は1500円とちょと高い。期待して待っていると、あの軽いお兄ちゃんが膳を
運んできた。いろいろ付属品は付いているが、あまり特徴が見えない。同じ質問をした。
軽いお兄ちゃんは一瞬「ぎょっ」とした顔をした。次にモジモジしだして「すみません!私分
かりませんので、聞いてきます」。引き返した彼は同僚にいろいろ聞いている。それからしば
らく奥に消えていたが、オズオズしながら又姿を現した。「すみません!だれに聞いても分か
りませんでした」。これが結論であった。
哲学も無い、従業員教育もなってないこの店は、遠からず潰れることになるだろうと思ったの
である。



2004/1/28
コンコルド

映画の話で賑わってますが、横須賀からではちょっと遠過ぎて、サ-クルに参加するのは難し
いかな?指を咥えて見てますよ!
俺もかなりの映画ファ-ンと自認していて、高校・大学時代は相当観てますよ。高校の時、あ
る日曜日、朝から映画館に入って3本立てを観て、次の映画館へ移動、3本立てを観て、更に
もう一館回って夜中に帰ってきたという憶えあり。

今トム・クランシ-の「愛国者のゲ-ム」という小説を読んでいるが、その中で飛行機恐怖症の
主人公がコンコルドに乗るシーンがある。皆さんコンコルドに乗った方は居られないと思うの
で、面白いなと思った特性をいくつか紹介する。
コンコルドは時速1350マイルぐらいで飛ぶそうだから、時速2000Kmを越すということになる。
この速さは秒速にすると600m/s,殆ど弾丸と同じくらいの速さだそうである。
高度は59000フィ-トというから、18000メ-トルぐらいを飛び、その時の外気温度は摂氏マイ
ナス50度くらい。機体の表面温度は摂氏38度ぐらいだそうである。空気中に若干の酸素があ
り、その摩擦熱でそうなるようである。機内に居ると意外と騒音がするそうである。マッハ2
以上で飛ぶコンコルドは音より速く飛んでる訳であり、音は後ろに「おいてけぼり」をくらっ
て、音は全く無しではないのか?
音は空気中より物体、特に金属中で音波は速く伝わるから騒音はするんですよ!「あぁ、なる
ほどね!」



2004/2/18
中国こぼれ話-1

サギの話、皆さんいろいろとお詳しいですなぁ。この分だと、この中の誰かはうまうまと引っ
かかった人が居るんでは?
O-ちゃんの投稿が少なくなるとの話ですが、彼女に代わって「文化比較」の格好のネタが手に
入ったのでご披露します。
これは弊社の親会社の人で、中国北京に5年半ほど駐在した人の話です。
「中国こぼれ話」私の乏しい経験の中でも、かなり断定的に言えることがひとつあります。
それは「中国人は面子(メンツ)を何よりも大事にする」ということです。
あれもこれもお話したいのですが、今日はこの面子に関わるこぼれ話を2,3紹介しましょう。
日本でも「それでは私の面子が立たない」などと言うことがありますが、中国人の言う面子は
多少ニュアンスが違います。こぼれ話からその意をお汲み取りください。
(1)中国人は割り勘をしない。
例えば、毎週末になると一緒に飲みにいく仲良し5人組が居たとします。 日本なら例外を除
き、割り勘が普通です。ところが中国人の場合は、必ず誰かが「今日は私のおごりだ」と言っ
てさっさと支払いを済ませます。あとの者は「謝謝」と礼を言います。次の機会には別の誰か
が名乗りをあげます。結果的には割り勘と同じですが、プロセスが違います。5回目になると、
誰が名乗りをあげるべきか、当人は勿論のこと他の四人もわかっています。ところが、まんの
悪いことに、その日に限って当人に持ち合わせが無い。ありえることです。するとそれを察知
した別の者が「今日は俺のおごりだ!」と助け舟を出します。あとの者も、何事も無かったよ
うに平然としています。 どんな事があっても、皆の前で当人に恥をかかすようなことはしま
せん。皆で当人の面子を守る訳です。
話はこれで終わりません。 表向きは鷹揚に構えた四人も、当の本人が居ないところでは、
「あいつはけちだ!」「あいつは、この前も払わなかった!」などと、こきおろすというので
すから、中国人の面子もいい加減なものです。
後は次回に!



2004/3/6
中国こぼれ話-2

ロ-ズ・マリ-さんとは一体誰だ!暫くはいろいろな憶測が飛び交うことでしょう。実名が分
からないと、推理しあうというそういう楽しみもあるわけです。

ちょっと間が空きましたが「中国こぼれ話」その2
「部下を叱るにはこっそりと」
部下がミスを犯した時は、別室で二人きりで叱ることが肝要です。 日本では会議の時など、
満座の前で一人を名指しして叱ることがあります。叱る側には、恥をかかせてやるなどとい
った気持ちはさらさら無く、どちらかといえば、当人以外の者にも内容を聞かせ、他山の石
よと言った意味合いがあるはずです。しかし中国でこれをすると大変です。他山の石どころ
か、事の善悪を抜きにして、出席者全員の矛先が叱る側に向けられます。「皆の前で、あそ
こまで言うのはけしからん。かれの面子はどうなるのだ!」と当人の擁護にまわり、叱って
いること自体が無意味になってしまうことになるのです。
すみません!次の約束の時間が迫っています。ネタは出来るだけ小出しにして、永くもたせ
ましょう。



2004/3/12
中国こぼれ話-3

・・・中国人は2度礼を言わない
当時私の会社の本社事務所には12~3人の中国人社員がいました。私は社長でしたから、
全員を引き連れて飲み食いにいくことがよくありました。勿論ポケットマネ-です。
店さえ間違わなければ、少々羽目を外しても日本円で一万円ちょっとで間に合います。前の
晩、ドンチャン騒ぎをして、翌朝二日酔いで事務所に出てきます。顔を合わせてもだれ一人
として昨夜のことに触れません。日本の場合なら「昨夜はご馳走様でした」くらいの挨拶を
するのが常識ですけどね?
中国では昨夜ご馳走になった事に対しては、昨夜帰りがけに充分お礼を言った。翌日改めて
二度お礼を言うのは面子に関わる、いや!それ以上に屈辱であるとまで考えるのです。
これが中国の常識なのです。「中国人は礼儀知らずだ!」と怒ってはならないのです。
これほど常識のちがい、文化の違いは存在するのです。



2004/3/24
中国こぼれ話-4(最終回)

「田畑君への追悼」と菅君の9号への投稿「愛犬との別れ」同時に受け取りました。
最近このような別れがなんと多いことか? 寂しいね-!

それにしてもここのところ、このホ-ムペ-ジ充実してきたね-!新人の書き込みが増え、井手
君の独特の画風もいい、いろんな諸々の書き込みを読んでいると、情報満載で毎日覗くのが楽
しみになってきたよ。

「中国こぼれ話」最終回 -- 見送り、出迎えには手を抜かない
私が正式赴任で北京首都空港に降り立った時、中国側から三人の出迎えがありました。
既に何度も行っていることや、当日が日曜日だったことから迷惑をかけたくないと思い、出迎
えを固辞し、便名も一切知らせていなかったにも拘わらずです。
この出迎えにも面子がからんでいます。 一つは後日「日本側の代表が正式赴任をした際に、
中国側が出迎えなかった」と言われないための会社としての面子を守ること。次には出迎えの
三人が後日上層部から「何だお前達、出迎えもしなかったのか」と言われない為の、自分達の
面子を守ること。
最後は私の面子を守ることです。「せっかく赴任したのに出迎えが無ければ、社長の面子も立
たないだろう」という私への配慮なのです。このあたりになると、義理人情の世界です。
以上ながながとなりましたが、中国人の思想、行動様式に面子がいかに多く絡んでいるかお分
かり頂けたでしょうか? ビジネスの交渉事でも、こちらがいくら正論だと信じて、且つ誠意
をもって交渉しても、それだけでは解決しません。中国人のもっとも大事にする面子を考慮し
て落とし所を充分に考えてこそ、問題の解決に至るのです。
中国4000年の歴史、永い間文化の中心であったというプライドがそうさせるのですかね-?



2004/4/8
角栄のゴルフ

これは政治評論家早坂茂三のゴルフ談義である。田中角栄「武士の情け」。

毀誉褒貶の十字路を駆け抜けて鬼籍に入った男に田中角栄がいる。年間250ラウンドを几帳
面にこなすゴルフの虫だった。虚実ないまぜの伝説も多い。生き証人の私も折に触れて絶句す
る場面に出くわした。「闇夜で千両箱を拾った」と評された鈴木善幸総理のときである。
東京目白の角栄邸で資料整理をしていたら、書生がすっ飛んできて「先生がお呼びです」。
親方が苦虫を噛み潰した顔つきである。朝刊掲載の「首相の一日」を読めと言う。カッカする
記事は何も無い。「善幸が習志野で43,45を出した」「それがどうかしましたか?」
「あいつは俺より下手なんだ。こんなスコアを出せるはずが無い」「善幸だってうまくなるで
しょう」「クイ-ンでやったに決まってる。すぐ官邸に電話して直に確かめろ」。 私は吹き出
しそうになった。
「そんなバカなことを、総理も忙しいでしょうに」「いや、あれは暇なんだ」。ちなみに習志
野カントリ-には長くて上り下りの多いキングコ-スとフラットで短く年寄り向きのクイ-ンコ
-スがある。私はやむなく主席秘書官に電話した。「財津さん、総理の昨日のゴルフね、あれ、
どっちでやったの?」「先輩、クイ-ンに決まってるじゃありませんか」「サンキュ-」。
その旨を伝えると、角栄がにんまり笑って機嫌が良くなった。「そうだろう。やっぱり」。
私はあほくさくなって茶々を入れた。「レディ-スティ-でやったかどうかも聞きますか?」
「武士の情けだ。そこまで深追いするな」。
軽井沢に堤義明さんがオ-ナ-のゴルフ場72がある。昭和59年8月、親方の別荘を根城にし
て、毎日のように二人でプレイした。クレイジ-ゴルファ-は最低2ラウンド回る。3ラウンド
も平気だ。ごますり政治家が皆逃げ出して、私とツ-サムでやるしかない。
シルバ-コ-スに154ヤ-ド砲台グリ-ンのショ-トホ-ルがある。私はパ-だったのでアイアン
の4番を振りぬいたらグリ-ンの端に乗った。親方曰く「何で打った」「カネの4番です」
「よし、同じのをよこせ」。 ところが十年越しの専属キャディ-がクリ-クを渡した。
「これじゃない」「でも先生、振れませんよ」「いいから、持ってこい。ものは験しだ」。
2,3度素振りしてガツンと打ったらピンそば2メ-トルにつけた。「あれっ、乗った!」。
大声を出した彼女に笑顔をみせた親方が汗まみれで又歩きだした。
「俺が早川如きに負けてたまるか」。
愛すべき男が脳梗塞になぎ倒されたのは翌年の2月である。

5

 

小話の箱 2003(2)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)22時26分34秒
返信・引用 編集済
  .

               小話の箱

                          ペンネーム 今多 迷道
                               『落書き帳』
                                2002-2004



    小話の箱では この様な ユ-モア、ダジャレ、エピソ-ド、名言、等々、
    話の種になりそうな小話をゴチャ混ぜにして乗せようかなと思っています。
    しかしながら私の箱には ほんの少ししか入っていません。そんな話なが
    ならこんなのがあるぞ!といくらでも出てくる諸兄が居られるはずです。
    私の箱の空白を埋める意味で ドンドン発表して下さい。(2002/7/3 投稿記事)



*題名は全て『小話の箱』です。題は編集部でアレンジしています。

2003年(2)


2003/4/8
うらやましい死に方/五木寛之

五木寛之選「うらやましい死に方」というのがある。その中で非常に胸を打った話を一つ紹介
します。これは筆者の妹夫婦の物語です。
日系米人トムは 単身沖縄で軍務に服していました。彼はその沖縄で、血尿がでていると言う
ことで単身入院しました。妹は子供を連れて、あわてて沖縄へ飛び病院を訪れました。
妹は院長に夫が癌であることを知らされます。妹は彼に告知すべきか否か思い悩みます。
彼は 男の面子・意地を人生の美学として生きてきた人、結論は 告知するということでした。
彼は告知を静かに聞いて言いました。3つ条件がある。 ひとつ 延命はしないこと、ふたつ
痛みは除いてほしい、みっつ 家で死にたい。
この条件 日本では不可能、米国へ行って待つことにしました。子供は彼に言いました。
「僕のバ-スデイは5月だから、お祝いに帰ってきてよ!約束だよ!」
彼はそのまま沖縄で約束の5月まで超人的に働いたそうです。  彼は誕生日の一週間前に
辞表を出し帰ってきました。子供を見た途端「パパはちゃんと約束を守っただろう!」その
姿はもう見る影も無く痩せ衰えていました。
妹は、米国人の家主に事情を説明しました。家主は恐らく良い顔はしないだろうと思ってい
たら、「私達の家が 最後の場所に選ばれるなんて、名誉なことだ!」と言ってくれました。
そうして彼は、七転八倒することも無く、下の世話をさせることも無く、男伊達と威厳を保
ちながら 望みどうりの幕引きをしたのでした。

また何と恰好良い死に方か!なんと恰好良い生き方か!
僕もこういう風に行きたいもんです。

「パンドラの箱」ならぬ「小話の箱」として、永らくご愛顧を頂きましたが、話の種も尽き
果てまして最後の希望も残ってません。この辺で 一応幕引きとさせて頂きたいと思います。
「もうちょっとやれ!」と声援を送ってくれる方も居られるので、完全な退職で無く、話の
種がでてきたらその時どきに顔を出す程度にしたいと思います。永らく有り難うございました。



2003/4/15
日本一短い手紙 その1

慰労休暇を取ると言ったばかりですが、新ネタが入りましたので、小出しにしてあと3回続
けます。

福井県丸岡町が募集した「日本一短い手紙」の中から。

母へ

*雪の中 校門をくぐる母さん。僕は初めて 悪い事をしたと 思いました。
*修学旅行を 見送る私に「ごめんな!」とうつむいた母さん。
 あの時 僕 平気だったんだよ。
*「私 母さん似でブス」娘が笑って言うの。私 同じ事泣いて言ったのに。
 ごめんね!母さん。
*亡き継母(はは)へ
 復員した時 ワッと泣いた母さん。俺のおふくろになってくれて 有り難う。
*白い「しゃくやく」天国へ持っていったの母さん、あれから庭に咲かなくなりました。
*母よ! 女房が あなたによく似てきました。実に困ったことです。
*洗濯機の件。泣く場所が無くなるから 母さん! 全自動は止めたほうがいい。



2003/4/21
日本一短い手紙 その2

父へ
*退職の日、飯おごったくらいで 泣くなよ! 俺 親孝行してないなって 反省したぞ!
*「生むだけで 何もしてくれんと!」そう言った私を ノコギリ持って 追いかけた父よ!
                             ( 亡き父へ )
*「人間はな-!」親父の説教は 凄かった。 昨日、息子に「人間はな-!」と始めたら、
   あくびしてた。
*臨終の義父(とう)さんが、たった一言「痛いよ!」としがみついた日、
 嫁から娘になりました。
*「家出してやる!!」と言った時、下駄を揃えてくれた事 憶えていますか?
*遠足の お父さんの 不細工なおにぎり、玉ねぎみたいに 目にしみました。
*「今晩から、もう家で 寝やんのやなぁ!」嫁ぐ日の独り言。
 うれしい日やのに、涙がでたよ。

友へ
*「どうだ!!」と眼鏡をかけた写真を送った。
 「こうだ!!」と禿け頭の写真を送ってきた。



2003/4/27
日本一短い手紙-その3

家族へ
*パパにそっくりね!と言われて、泣きそうな顔をするお前が、パパの宝さ。
*家族全員が居た時の 玄関いっぱいの あの喜怒哀楽の靴達は、今どこですか?
*セ-ルスマンよ! 御留守番ですか?とは何事だ! 老いても俺は大黒柱だぞ!。
*手紙なんだから 金送れだけでなくて何か書け! 余白がもったいないだろう。
*合格発表の時 「車で本読んでる」と言ったお父さん。あの時 本逆さだったよ。
*お前だけだよ、家に帰ると喜んでくれるのは。毎日涙が出てくるよ! ポチ。
*一人前の男になるまで帰らないだと。バカヤロ-! 一人前の書き置き残しやがって。
*君は庭に住んでいるのに、何で我が家の力関係が 分かるんだね?
 (家で飼ってる犬へ)



2003/6/3
好い言葉

久しぶりに顔を出します。それにしても最近写真や絵が頻繁に変わるようになり、非常に楽し
いね。 古賀君は大変だろうが!…

最近出会った 好い言葉。

満足のいく仕事をするには、周囲との円滑な人間関係が重要である。
「自分以外は皆お客様」「自分以外は皆師匠」という謙虚な態度・行動で人に接していると、
自分に対するファンが増え 自然に人脈ができる。

最後まで悪漢でいられる人間は居ない。やさしさはその人の中に眠っている。
          ロッキ-ド事件検事・カミソリ堀田と言われた (堀田 力)

終業のサイレンが鳴ったら仕事のことを忘れてもかまわない。しかし少しでも向上し、何かを
するつもりなら、サイレンは考え始める合図だ。
                           (ヘンリ-・フォ-ド)

人生の財産は ほのぼのとした「縁」人脈にあり。

真の敵は外にあらず、真の敵は 己の中にあり。

世の中には 二種類の人間が居る。
ひとつは「前例を求める者」他方は「前例を創り出す者」。
前例が無いから 出来ない・やらなくても良いという人もいれば、
「前例が無、創り出せば良い」という人も居る。
前例に従うものであれば、何の進歩も無い。
世の中の進歩は前例を創り出す者によってなされてきた。
そして前例を求める者によって足を引っ張られてきた。



2003/6/24


先日京都に遊びにいった。日本庭園の美しさを改めて堪能してきた。源氏物語などの高貴な
姫君が隠れ住んでいたのは 多分このような所だったろうと連想させる 嵐山の散策もまた
楽しかった。それにしても思ったより烏が少ないな-!と言っていたら、さにあらず。
翌朝先斗町の狭い路地を散歩していたら、朝出しのゴミ袋に烏が群がっており、前を歩いて
いたアベックが怖いと言って引き返していったくらいであった。
この烏対策には皆頭を悩ましているがこれは効果的!という発見がなされた。
それはゴミ袋を強烈な辛子味にする方法だそうである。烏は賢くて何やってもすぐに対応し
てしまうが、辛いのだけはなかなか馴れないそうで、この袋をつついた烏が、
「カラ-!カラ-!」と鳴いたそうな。



2003/6/28


僕が毎日出入りしているあるお客さんの工場には、守衛所の横にコンクリ-トでつくられた用
水池がある。これは防火用水として又切削油を冷却するために作られたものである。
この池にこの春頃からひと番のカルガモが遊びにくるようになった。
今ではもう人気者である。
昼になると弁当のご飯がふた皿、毎日餌として準備される。「このカモはご飯は食べるがパン
を出したら食べないんだよ!」「このカモは間違いなく純国産だね!」。
ある日の事このカルガモが居なくてマガモが一匹泳いでる。僕は質問した「あのカルガモ達は
どうしたんかね?」 「いやちゃんと居ますよ! このカモはあの番が居ないときを狙って餌
を食べに来るんですよ。あのカルガモが帰って来るとこのカモは追っ払われるんです。」
もうこの池はちゃんとあの番のテリトリ-になっているようである。
「あのカルガモのねぐらはどこにあるんでしょうね?」
「いや時々カモはここに泊まるんですよ。頭を180度後ろにまわして羽の中に突っ込んだまま、
プカプカ浮かんで寝てますよ」
「ほほう!ここはそんなに安全なんですかね! それにしてもどこかに卵を産んで孵す為の巣
は持ってるはずですよね!」
「ところがそこの草むらに卵を産んだんですよ、ところがちっとも抱かないんで、私があった
めてます!」
「ええっ!」守衛さんが湯を使ってあっためているらしいが、果たしてうまくいくだろうか?。

鳥星さんに質問!。
カモはどんなところに巣をつくるのか?もし池の側の草むらを巣としてカモ君が認めてくれるよ
うな環境にするには どうしたらよろしいか?。
これが分かったら、僕は知ったかぶりしてながながと講釈をたれようぞ!
それにしても、この番の後ろに子供達がゾロゾロと付いて歩くカルガモの行進を見たいものである。



2003/7/8
浦賀来航150周年

今年はペリ-が浦賀に来航してから、丁度150年目になる。地元横須賀では、各種の記念行事が
企画されているが、8月1日から3日にかけて行われる「横須賀開国祭」がそのメ-ンエベントで
ある。
そのイベントのひとつ。「開国歴史絵巻」というサブタイトルでパレ-ドが行われるが、盛んに
次のような呼びかけがされている。「幕末から明治にかけての開国期に、活躍した歴史上の有
名人に扮して、パレ-ドに参加しませんか?」。テ-マが五つあり、1.ペリ-来航 2.幕末の動乱
 3.大政奉還 4.激動の明治維新 5.華麗なる鹿鳴館 というから、どのような人物が登場す
るかは、およそ見当がつくであろう。総勢100名でパレ-ドと寸劇を演じることとなるようであ
る。
ペリ-他外国人には、ベ-ス(横須賀米軍基地)在住の人達が、嬉々として多数参加するはずで
あり、さらには山車・神輿や踊りの団体・大道芸人がサポ-トするので、このパレ-ドは日米混
こうの華やかなパレ-ドとなり、横須賀特有の雰囲気を醸し出すであろう。
しかし貸衣装代は自己負担であり、一番高額な衣装は¥30000というが? すべての女性役は
早々に受け付け終了となったそうである。興味のある方は ご足労あれ!



2003/9/14
浅利慶太と三島由紀夫との交遊録その 1

文芸春秋の浅利慶太の連載ものの中に、三島由紀夫の性格を活写したものがあった。
面白かったので、読んだ人もあるだろうが紹介します。

最近の人は、作品の格調、亡くなり方の激しさから「三島由紀夫」というと硬派の厳しい生き様
の人を連想するらしいが、本当はやんちゃ、ぼんぼん、駄々っ子。だが天才的頭脳とヒラメキを
持つ悪戯っ子。生まれっ放しの坊やが三島さんなのである。
帝国ホテルの旧館には風情があった。 三島さんはここが気に入って、新作を書く時はこの帝国
旧館にこもる。そして私に電話してくる。「今日から始めるぞ」「ああそうですか、頑張ってく
ださい」「仕上がったら読みたいか」。ここでの返事が大切である。 「いいえ」とか「あまり
興味ありませんね」などと言おうものなら大変である。 向こう数ヶ月は口を利いてもらえねく
なる。「すごく読みたい。是非読ませてください」。満足気な声が返ってくる。
「仕方ない。じゃ出来たら電話してやる」。一週間ほどするとかかってくる。
少し疲れた声である。「一幕は出来た。来るか」「伺います。何時に行ったらいいですか」
「何時でもいいさ。まあ、気が向いた時に来い」。
三島さんはええ格好しいである。実はすぐ来てほしいのだ。そこで少し意地悪をする。劇場人は
忙しい身である。電話があったのは一時頃だが、わざと夕方出かける。ここが三島さんらしいと
ころなのだが、部屋のデスクの上にきちんと原稿を置いて、驚くなかれ自身は正装をして待って
いるのだ。私に礼をつくすはずは無いから、作品に対する、あるいはそれを書き上げた自らの魂
に対する思いなのだろう。 その日は白いタキシ-ドのようなものを着ていた。
「キ、キミは一体、イッままで何をしていたんだ!」真っ赤になって怒っている。要するに彼は
電話を切った一時からず-と待っていたのだ。 普通三島さんを待たせる人はあまり居ない。
だからああは言っても、すぐ来るに違いないと思い込んでいたらしい。
「あれ、いつ来てもいいって仰言いませんでしたか」「ソ、ソレは言ったさ。でも…」
「拝見しますよ。いいですか」「イヨシ、読め」。

約束の時間がきてしまった。あとは次回へ。



2003/10/6
浅利慶太と三島由紀夫との交遊録その 2

書きあがったばかりの匂い立つ三島文学に目を通す。いくら天才の作とは言っても、芝居の
台本の場合、演出家の目から見ればさまざまな欠点が見える。作劇においては演出家は作者
の身内、両者は一心同体なのだ。三島さんもそれはよく知っている。しかしプライドの高い
人だから悪口は言われたくない。私が読んでいる間中体を固くしている。 この大作家が、
まるで初めて異性の前に素肌を晒した処女のような緊張振りである。原稿用紙を一枚めくる
度にホッと息をつく。
又ちょっと意地悪して、「これは…」と読む流れを止める。 すると間一髪も置かず「あっ
そこはだな」と説明しようとする。「いやちょっと読みにくかっただけです」「そうか…」
がっくりと椅子の背にもたれる。一幕をざっと読みおえる。正面から三島さんを見る。先刻
真っ赤だった顔は今や真っ白である。「ど、どうだった」やっと一言言えたという感じである。
「すばらしいですね!」 一間あって「そうか」また顔色が戻る。こしオ-バ-なくらい絶賛
する。とみるみる三島さんはリラックスする。そして多弁になる。この一週間の苦労をすべ
て吐き出してしまいたいようだ。
要するにこれは儀式なのである。二幕を書かせるためのパワ-の補給、空中補給のようなも
のだ。絶賛が三島さんの体内にエネルギ-を生み、第二幕を書き出すパッションに火を付け
る。
もし、ここの伏線が弱いとか、この構成が甘いなどと言ったら三島さんは激怒するだろう。
そしてすぐガックリして、書き続ける気力を無くしてしまう。  芝居を書いている途中の
劇作家は、子供を出産中の妊婦。励ますしかないのである。ちょうど時間となりました。
また次回へ。



2003/10/13
暇ついでに、三島由紀夫と浅利慶太の交遊録-3

「喜びの琴」の年の秋、次の三島さんの書き下ろしの芝居「恋の帆影」を日生劇場で上演した。
亡き人には申し訳無いが、この作品は三島戯曲のうち、そう高い所に位置するものではない。
と私が考えていることを三島さんは表情から読み取ったらしい。稽古に入る前「君は何かとい
うと作家に書き直しを要求する演出家らしいが、俺は一行も変えないよ」と宣告した。
「結構です」私は憮然と答えた。やがて稽古は中盤にさしかかった。三島さんは時々やってくる。
その表情がだんだん心配そうに変わる。ある日こう言った。
「おい、君が演出上の都合で‥‥少し直して欲しいと思っているのなら、話だけは聞いてやるぞ」。
日頃見かけない堂々たる態度である。というより、思いっきり虚勢を張ってと言ったほうが正確
かもしれない。
「では言わせていただきますが、ここの所です」「そこがどうした」 「ここで観客を感動させ
るなら、その前のここに伏線を張っておくといいんじゃないでしょうか」「なるほど‥‥で」
「とすれば、この場はこうなりますね」「うん、うん」「とすれば前の幕のここですけれど」。
私の修正提案に三島さんはどんどんのめり込んでくる。 このやりとりが三十分ぐらい続いた後、
三島さんはバタッと台本を閉じた。「おい貴様!お前は俺に全部書き直せと言ってるんだな!」
その通りなのである。しかし私は言った。「とんでもない。僕はこうしたらもっと良くなると
申し上げているだけなんですが」「許せん!貴様は!」。
憤然と三島さんは席を立った。 それから一週間余が過ぎたある日、日生劇場七階の稽古場に
秘書が駆け込んできて叫んだ。「先生、急いで降りてきてください」「何だ」「三島先生がいら
して、すぐ浅利を呼べと怒鳴っていらっしゃいます」。慌てて行ってみると役員室の中央に三島
さんが仁王立ちになっている。そして怒鳴った。「おい、全部書き直してきたぞ」。としっかり
抱いていた茶封筒を私に投げつける。
人生色々なことを経験したが、瞬間的にあんなに感激したことはなかった。世紀に一人とも言
われる大作家が私の言う通り書き直してくれたのである。三島さんの姿はあっと言う間に消え
た。感動に震えながら私は新台本を開いた。



2003/12/10
紅葉と頭髪

神宮外苑の銀杏並木の写真、もう少し見たかったのに、と思っていたら、ちゃんと後ろの方に
残っていました。
紅葉というのは、秋から冬にかけて寒くなると、木は葉を落とす為に、葉の付け根に離層とい
う膜をつくる。そうすると葉と幹の栄養分のやり取りが妨げられ、葉緑素が老化して赤や黄色
に変色する。それが紅葉だという。我々の髪も似たような現象なのだろう。髪はなが-い友達
とも言うが、俺の髪はそんなに永く付き合う前に、だんだんと「おさらば」していった。
一生懸命「リアップ」を振りかけているが、効いているのやら効いていないのやら?微風にも
そよぐか細い残り少ない髪。僅かな粘性があれば、整髪料として使い続けているんだがね!
そういえば近藤君! お灸が髪に効くとかで、自分が実験台になって報告するとか言っていた
が、あれは一体どうなったの? 「お灸の会」なんて俺は絶対は入らんとは言いながら内心密
かに期待していたのに! ちゃんと報告せい!



2003/12/25
ちょっといい話

楠葉さん!しっかりしてくださいよ!もう骨も折れやすくなってるんですからね!まぁ一ヶ月半
で回復するでしょう。しかし二度あることは三度あるというしなぁ!
「ホワイト・クリスマス」俺も見たいなぁ。ビデオショップへ行けば、借りられるのかな?
ちょっといい話が続いたので、俺も思い出した。わが社に以前居た、美人の女性の実体験の話。

(彼女は、取引先の組合委員長にどうしても彼女をくれと粘られて、仕方なく手放してしまった
ので、今はいない。話はそれるが、わが社には美人が多いんです。 多いというほどじゃ-なく、
2~3人ですが、粒ぞろいなんです。それも歌がうまくて酒が強い、お客さんの宴会によく招待
されるので、「よし!それじゃ- 5時以降は、コンパニオンとして派遣業を開業しようか?」と
言っていたくらいです。「女性は熊さんの好みで入れてんだ!」とか「熊さんはいいなぁ、うら
やましいなぁぁ」とかよく言われたものです。現在はちょっとバラバラになりましたがね。)

彼女には幼稚園に通う女の子が居ました。一緒に町を歩いている時の話。女の子が一円玉を拾い
ました。どうしようか?ということになり、その子は「おまわりさんに届ける」と言うんで近く
の派出所に行きました。そこに丁度若いおまわりさんがいました。その若いおまわりさんは女の
子の顔の高さまで屈みこんで言いました。「いやぁいいことしたね!落とした人は喜ぶよ!
何かご褒美あげたいなぁ。そうだ落とした人に代わってお礼をしておくね!」と言って、女の子
の小さな手に百円玉を握らせました。
なかなかシャレタおまわりさんが居るではないか!



5

 

小話の箱 2003(1)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)21時30分28秒
返信・引用 編集済
  .

               小話の箱

                          ペンネーム 今多 迷道
                               『落書き帳』
                                2002-2004



    小話の箱では この様な ユ-モア、ダジャレ、エピソ-ド、名言、等々、
    話の種になりそうな小話をゴチャ混ぜにして乗せようかなと思っています。
    しかしながら私の箱には ほんの少ししか入っていません。そんな話なが
    ならこんなのがあるぞ!といくらでも出てくる諸兄が居られるはずです。
    私の箱の空白を埋める意味で ドンドン発表して下さい。(2002/7/3 投稿記事)



*題名は全て『小話の箱』です。題は編集部でアレンジしています。

2003年(1)


2003/1/8
オリンピック 主役20人の秘話-1

「オリンピックの主役20人の秘話」というのを読んだことがあります。
その中から面白そうなのを幾つか紹介します。

東京オリンピックが昭和39年。我々が学校を卒業してピカピカの社会人になった年。
高速道路があちこちで開通し、テレビが普及し、そうだ!3Cの時代。
日本が登り龍の如く経済成長を遂げるスタ-トをきった時でした。 オリンピックの開幕早
々、三宅義信が重量上げで日本最初の「金」を取ります。あれで日本中「わっ!」盛り上が
りました。あの時の興奮は今でも明瞭に憶えています。
その「三宅義信」。 彼はロ-マで銀、東京で金、メキシコで金、ミュンヘンで4位となっ
ています。
私は高校の時練習で1日に20トン、大学の時は50トン、オリンピックの前は80トンを
揚げていました。そうすると身体中の軟骨がはみ出してしまうんです。
今でもはみ出したままになっていますけどね!しかし選手にとって本当に辛いのは、練習で
はなく、精神的なことなんです。
最近は「楽しんでオリンピックに参加している」などと言う人がいますが、金メダルを取ろ
うと思っている人には、楽しめると言うものではないんです。金メダルを取ろうと思ったら、
楽しんだ瞬間負けてしまうんです。私はロ-マで銀でしたが、自分自身では金確実と思って
いたんです。
比叡山にこもったり、将棋をさしてみたり、色々と精神修養を試みました。それでも試合の
1週間前から眠れなくなります。24時間、365日競技の事ばかり考えて、身体は横にな
っても頭は安まらないんです。せめてもの工夫で試合の2日前には全く眠らないようにしま
した。そうすると翌日はどうしても眠たくなりますから、15分でも眠れば当日は回復しま
す。
ロスの時、柔道の山下が「先輩!全然眠れないんです、どうしたらいいでしょう?」
「眠れなくて当たり前だ!」
1週間、殆ど眠らなくても勝てる人だけが、確実に金メダルを取れるんです。



2003/1/15
オリンピック 主役20人の秘話-2

Kazuさん!写真が代わっていくというのは又面白い試みですね!

オリンピック主役20人の秘話--その2

「白井 貴子」-山田監督は偉大なる嘘つき
モントリオ-ルでのソ連との試合中のこと、策士として知られるギビ監督が 突如セッタ-
を交代させたんです。セッタ-と言えば野球のキャッチャ-と同様、チ-ムの要なんです。
「ギビさんは チ-ムを信頼していない!選手を愛していないんだ!」 と思いました。
「山田監督に愛され、こんなに練習してきた私達が 負けるはずがない!」と直感したんで
す。
あの時の直感は、私だけのものか皆のものだったのか? なにしろ私達は仲が悪かった。
皆自分が一番と思っている個性の強い私達が、金メダル目標に一つになれたのは山田
監督の存在があったからなんです。
山田監督は 頭ごなしに「あれをやれ!これをやれ!」とは言わず、「このチ-ムには何が
必要だろうか?」と考えさせてくれるんです。 自分達が考えた結果「やはりもっと練習が
必要だ!」となるんです。
山田監督のうまいのは、私と二人きりになった時「君だけが頼りなんだ!」と訴えかけてく
るんです。山田監督は結構良い男ですからね、 そうやって情熱的に迫られると「よし!山
田監督に金メダルを取らせよう!」と奮い立つのが 女心と言うもんじゃないですか!
と気づいたのは 引退して冷静になってからで、全員に同じ事を言っていたんじゃ-ないか
しら?



2003/1/21
オリンピック 主役20人の秘話-3

「塚原 光雄」
メキシコ、ミュンヘン、モントリオ-ルに出た、あの月面宙返り(ム-ンサルト)の体操選手
です。大車輪から宙に浮きあがり、身体をひねり、それからまるで蝶が舞うようにゆらゆらと
舞い下りて「ポ-ン」とマットに立ったときには、「オ-ッ」という驚嘆の声が上がったもの
です。
あの映像は強烈でした。この世の人間技とは思えなかったのです。
果たせるかな「月面宙返り」というネ-ミングが付き、テレビ・新聞・雑誌は沸きかえりまし
た。

あれは僕が自分で付けたのでは無く、マスコミが付けてくれたんですよ!   最初はNHKの
鈴木文弥アナが 「忍法フニャフニャ」 とか 「忍法木の葉落し」 とか言われてたんですが、
ミュンヘンの時読売新聞の人が「宇宙遊泳しているように見える」と言われて、結果この様な
ネ-ミングになった様です。
この技は、トランポリンに「ハ-フ・イン・ハ-フ・アウト」という、宙返りしながらのひね
り技があるんです。それをヒントにして開発した技なんです。



2003/1/28
オリンピック主役20人の秘話-4

今回はマラソンの「有森 裕子」
ミュンヘンだったか?有森裕子が銅メダルを獲得した。
インタビュウで「自分で自分を誉めてあげたい!」と言った。その言葉を聞いた時、僕は何
かキザで厭な感じを受けた。しかし--

私がオリンピックを目指した、この4年何ケ月の期間の中で、練習中もまたレ-スの最中で
も、自分のライバルは、ただただ自分自身だけでした。 自分に打ち勝つ事が闘いだったん
です。その手強い自分というライバルを打ち倒すことができた自分に対してあのような言葉
が出てきたんです。私にとっては 何度も口に出来るような、軽々しい言葉ではありません
でした。オリンピックで闘うということは、結局は孤独との闘いなんですよね!

必ずしも才能に恵まれているとは言えない彼女が、ただただ自分自身に鞭打って勝ち取った
メダルだったんです。僕はこれを聞いて納得しました。
しかしこの言葉、以後ブ-ムになって、誰でも軽軽に真似をするようになった。
それは不愉快極まりない。



2003/2/4
オリンピック 主役20人の秘話-5(最終回)


「節分」昨日は豆まきをやった方もおられるかも?イワシと柊を玄関に下げておくという所
もあるらしい。イワシの頭の腐った匂いと柊のトゲで、鬼は入ってこないということらしい。
僕は南南東に向かって、黙って太巻きを一本平らげると良い、とのことで食べさせられまし
た。こちらは何故なのか不明である。どなた
かご存知の方は教えてほしい。 いずれにしても昨日までは去年の運勢、今日からは今年の
運勢らしい。去年は宝くじは300円のみ、それじゃ-今年の運勢を試してみるか!

オリンピック主役20人の秘話-最終回
「君原 健二」 かれは東京オリンピック・マラソンで8位、メキシコで銀、ミュンヘンで
5位とな
った。東京では42.195キロを円谷幸吉と共に、国家を背負って走った。

私は子供時代はスポ-ツは下手くそでした。勉強も出来ませんでした。野球ではライトで
打順はいつもビリ、勉強も5段階評価の下から2番目が多かったんです。「温良ではある
が、絶えずボンヤリとしていて真剣味が無い。積極的に努力する気がみられず、態度に明
るさが無い」と書かれました。--そう言えば小学校の一年生の時、僕も似たようなこと
を書かれた覚えあり--そんな僕がマラソンを始めたのは、友人に誘われ、断れなくて、
しかた無く駅伝クラブに入部したのがキッカケでした。 そのまま退部を申し出る勇気も
なく、引っ張られていくうちにここまで来てしまいました。円谷さんは東京で銀を取られ
ましたが競技場に返ってきて大観衆の目の前で抜かれたのを、非常に屈辱として気にして
おられました。「次のメキシコでも日の丸を揚げる! それが国民に対する約束なんだ!」
と言っておられました。
円谷さんも私と一緒で、素質に恵まれた人ではなかったですね。

円谷選手はメキシコに向かって猛練習を開始するが、足を痛めて走れなくなる。
その後「お父さんお母さん幸吉はもう走れません!」と言って自殺を遂げる。
その自殺の様子は、自衛官らしく、 見苦しくならないように気を配った、立派な最後だ
ったと聞いている。
残された遺書は、新聞・雑誌に掲載され、僕も2~3度読んでいるが、誠実で、純で、
素朴なその文章は何度読んでも涙するものであった。もう一度読み返してみたいと思い探
してみたが、どうしても見つからない。どなたかまだお持ちの方は、この欄でご紹介願い
たい。
いろいろ言う人もいるが、彼が自分の一番輝いた時に、自らの意志で、自らの人生を閉じ
たことを、僕は評価している。



2003/2/11
柳川に帰省

先週神戸出張のついでに、足を伸ばして九州に帰ってきました。家内の実家の柳川に立ち
寄った時、僕の好物「うなぎのセイロ蒸し」 を食べようと、家内の両親と「お花」まで
食事に行きました。「お花」というのは、柳川の殿様の別邸で、川下りの基点であり北原
白秋の生家も近いことから、柳川観光の基点にもなっています。庭園は四季の花が咲き、
仙台の松島をイメ-ジして造られた池にはカモが集います。邸内はホテル・レストランに
改造され、幾部屋も続く陳列室には 初代立花宗茂(戦国時代)以来の歴代藩主の甲冑
刀剣類や御姫様達の雛人形・衣類・道具類等々が並べられています。
ホ-ルに入るともう豪華で艶やかな雛人形が飾ってありました。レストランに入ると品の
良い老婦人が4人食事中である。「あら!お父さん 文子(あやこ)さんじゃなかね!」
ということで、お互い「久し振りですね!」という挨拶になった。「これはうちの娘婿で
ございます」と僕も紹介され「あら!天童にいらした方ね!」と向こうはこちらをご存知
の様子。 我々も席に着いてから「あの人は?」と聞くと、「ここの御姫様たん!ここの
経営者でもあるし、ホ-ルの雛人形はあの人の子供の時のものたん!」「あれで94歳じ
ゃもんね!」とてもとても70歳ぐらいにしか見えない。「文子さんは、お父さんの習字
の生徒さんじゃったもんね!」と言うことで、やっと納得がいったのである。お父さん、
「ここの庭園の隅にテニスコ-トのあろが、文子さんは若い頃、あそこでようテニスばし
ょうらしたじゃん。私達はこっそりそりば覗きに行ったもん。学校の先生がまだ羽織袴の
時代にあの人は今と同じ、白い短いスカ-トに白い帽子を被ってしょうらした。いや-!
眩しかったもんばん!」「文子さんの旦那さんというのが、雨村海軍大将の息子さんで、
雨村海軍大将といえば、日露戦争の日本海海戦の司令官を、東郷にするか?雨村にするか?
議論になったという人ばい」
ホホゥ ここで東郷平八郎が出てくるのか?「本日天気晴朗なれど 波高し!」と打電して
横須賀を出撃。日露戦争の雌雄を決するという日本海での海戦で、ロシア連合艦隊を撃破
し、有史以来初めて黄色人種が白人国家を破って、アジア国家群の独立を鼓舞した。
あの歴史上の人物 東郷平八郎が乗った旗艦「三笠」は、今、横須賀の三笠公園の岸壁に
係留保存されている。
あの遠い歴史上の人と思っていた人物が、知り合いの知り合いとは言え、その細い糸を辿
っていくと、そんなに近くに存在したとは!知り合いのおじいちゃんの世代でしか無いで
はないか!。
何か 不思議な感慨におそわれたのである。



2003/2/18
オリンピック秘話-続  

有森裕子の「自分を誉めてあげたい」という言葉の話を、側面から補足するような、小出監督
のインタビュ-記事が見つかったので紹介します。

スポ-ツは結局身体の素質だけじゃダメ。身体の素質が良い選手は一杯居るんだよ。
やはり心、こんな小っちゃな脳みそで判断したことが、人生を替えていくんです。
例えば有森はあんまりしつこいから、仕方なくリクル-トに入れたけど、「オリンピックに行
きたい」と言った時は、頭がおかしいんじゃないかと思ったよ。だって中学生より遅いんだも
ん。ところが真剣なんだよ。
「監督,私は小学生の時、作文にオリンピックに行きたいと書きました」
「そうか、簡単だぞ。チケットを買って俺と一緒に応援にいこう」と答えた時、彼女はこう言
った。
「他の人が一時間しか頑張れないところを私は二時間頑張れる。だからやらせてください」。
「よし!それじゃ-俺の言うことを聞け。  一年間で日本記録を作らせてやる。そのかわり、
お前は素質が無いから人の倍はやらなければならない。しかも日本で一番になる練習は、二番
になる練習とも三番になる練習とも違う。もしかしたら死んじゃうかもしれないぞ」
と言ったら「それでもいいからやります」 と言うんだ。凄いでしょう。
日本の男子の倍は練習したよ。いろんな人から「小出の野郎、メチャクチャやってる」と言わ
れた。でも、一年ほど経ったところで、日本最高記録を一分以上速めたの。
さあオリンピック、という話になった。そうしたら有森が、「監督、煙草を止めて下さい。
監督が死んだらオリンピックに行けなくなります」と言うんだ。 僕は毎日ショ-トホ-プ
四箱は吸っていて、おっかあに三百六十五日、止めろと言われても止められなかったんだ。
それなのに、以来一本も吸わなくなった。

有森の凄さが解る。 小出監督も彼女には頭が上がらないようである。 永くなるがもう一つ
エピソ-ド。
有森に対して、僕は一歩も二歩も下がって、「有森先生」という態度で接していた。 それで
おっかあと喧嘩になったことがある。夜中に有森から電話がかかってきて、「そうだなあ、ど
うしょうか?」なんて話していたら、「おとうさん!こうしなさい!ああしなさい!と言うの
が監督でないの!」と怒るんだ。「じゃあ、お前がやれ!」と言ったわ。(笑い)
有森の凄さと同時に、小出監督の人間的魅力を発散するエピソ-ドでもある。



2003/3/4
トイレの落書き

先週はちょっと忙しかったんで投稿をサボってしまいました。  久しぶりに開いてみると、前
回見たメッセ-ジはもう前ぺ-ジの彼方へ。
梅見の会のほうは雨に祟られたようですが、やはり「晴れ男」の私が入らないとこういうこと
になりますね!
楠葉さんへ--あまり張り切らないで下さい。 歩く時間は4時間前後、昼の弁当は戸外で持
ち寄りぐらいにして費用は安めにしたほうが気楽に沢山集まるとおもいます。
年に1回ならともかく数回企画するんであれば、そのくらいにしたほうがベタ-だと思いま
すが?いかがでしょうか。
鬼平ゆかりの店は、ウォ-キングの後2次会希望者で行くようにしたらどうでしょう?
池波ファ-ンの私としては、是非行ってみたいところです。 それでは江戸情緒の残った下
町探訪楽しみにしています。火曜日8チャンの「剣客商売」、ほのぼのとした池波作風の雰
囲気を出していると思います。

それでは近所のある飲み屋のトイレの中で見つけた落書き

             40・50は洟垂れ小僧
               人生の本番は 60になってから
             70になってから お迎えがきたら
               今 留守にして 居ないと言え
             80になってから お迎えがきたら
               まだ 早いと 言え
             90になってから お迎えがきたら
               そう急がずとも よいと言え
             100になってから お迎えがきたら
               時期を見て こちらから 行くと言え



2003/4/2
お袋

イラク戦争の件では僕が聞きたいと思っている論点については、仮面ライタ-さんのみな
らず、新聞・ラジオ・テレビ上の反対論者からも 説得力のある議論を殆ど聞いていない。
これ以上続けてもすれ違いばかりで、水掛け論となるばかりなので、もう止めます。
結局は読書人さんが言う通り、色んな考えの人が居るんだということを、認めなきゃなら
んということでしょう。これで元に戻ります。

先週ラジオで聞いた話 (心のスケッチブック)
私は小さい頃 世田谷に住んでいました。 その頃の世田谷は今では想像も出来ないくらい
田舎でした。田んぼや畑ばかりだったんです。私のうちも大根や白菜などを作って、毎朝
洗って市場に出していました。冬のある寒い朝のことです。朝ご飯を炊く為 米をとごうと
したおふくろが「ウッ 」と言って顔をしかめました。見ると母親の手の指は「あかぎれ」
で赤い割れ目が沢山出来ていました。 私は見るにみかねて「かあちゃん 俺が手伝うから
とぎ
かたを教えてくれよ!」と言いました。私はその朝あまり出来のよくないご飯を初めてた
きました。その日の晩のことです。 おふくろは 膏薬をあかぎれの中にすり込み、真っ赤
に熱したヒバシをその傷に当てていました。
明くる日からは毎朝ご飯を炊くのは私の日課となりました。「ありがとうね!お前が炊い
てくれたご飯本当においしいよ!」私は、寒い冬の朝、あの晩のお袋の姿をよく思い出し
ます。

そう言えば昔 俺のお袋もあかぎれだらけだった。 そのお袋は今は動けなくなって 九州
の老人ホ-ムで寝たきりである。「東京に出てこいよ!」と言っても、「そんな友達も居
ないような遠くへは行きとう無か!」と言う。俺は高校卒業後、九州を出たまま、息子ら
しいことを何もやっていない。

5

 

小話の箱 2002(2)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)19時12分16秒
返信・引用
    .

               小話の箱

                          ペンネーム 今多 迷道
                               『落書き帳』
                                2002-2004



    小話の箱では この様な ユ-モア、ダジャレ、エピソ-ド、名言、等々、
    話の種になりそうな小話をゴチャ混ぜにして乗せようかなと思っています。
    しかしながら私の箱には ほんの少ししか入っていません。そんな話なが
    ならこんなのがあるぞ!といくらでも出てくる諸兄が居られるはずです。
    私の箱の空白を埋める意味で ドンドン発表して下さい。(2002/7/3 投稿記事)



*題名は全て『小話の箱』です。題は編集部でアレンジしています。

2002年(2)




2002/10/3
昭和天皇のエピソ-ド(ある侍従長の話)

*侍従長になりたての頃の事、庭園に雑草がボウボウと生い茂っている。これは何というこ
とだ!
私は早速庭の手入れをさせた。奇麗になった庭園を眺めて満足していると、陛下のお呼びで
ある。陛下「何で庭の草をカットしたのだ!」「はい 雑草が生い茂って あまりにもみっと
もないものですから!」「雑草という草はありません、どんな草にもちゃんと名前が付いて
います。こん度からは こんな事をしてはいけません!」
陛下は名にし負う 植物学者である。冷や汗たらたらだったそうである。

*大きな台風が沖の永良部をかすめて 東支那海へ抜けていった。私は何の気無しに「台風
が九州を通らずによかったですね!」と言ったら「何を言うか!沖の永良部がやられたでは
ないか!」

*陛下の筆記用具を見て驚いた。消しゴムは小さな丸になっているし、3~4CMになった
 鉛筆にはキャップが付けられている。竹製の定規は擦り切れてしまっていたのである。

*陛下の所には 陛下の署名を求めて 内閣の書類が頻々と送られてくる。
 陛下は高熱でウンウン唸っている時でも、ガタガタ震えながらも 筆で必ず署名されてい
 た。ご高齢でも とにかく代理が居ないのである。
 天皇は4~5歳になられると親元を離れ 帝王学の教育をほどこされる。昭和天皇は乃木
 さんのスパルタ教育が 大きく影響していたのでは?



2002/10/10
昭和天皇のエピソ-ド(2)

安田講堂での警官隊と学生との攻防には、当時日本中が興奮の「るつぼ」と化した。時の
警察庁長官(と思うが?)後藤田さんは 天皇の御下問を受け、状況説明を行った。専ら警
察側の被害状況等をお話したら、(天皇)「それで 学生達の方は どうだ!」「学生達の
方も重傷者は 出しておりません!」と答えると、「おうそうか! それはよかったのう」。
陛下が警官隊も学生側も全く同列に見ておられるのに「ハッ!」としたそうである。
「天皇は我々俗人とは全く視点が異なっているのだ!」としきりに感心していたそうである。

戦後占領軍として日本に乗り込んできたマッカ-サ-に対し、天皇は敗戦国の国主として
自ら赴いて会見された。翌日の新聞にマッカ-サ-と天皇とが並んだ会見時の写真がのった。
そこには颯爽とした背の高いマッカ-サ-と彼の肩まであるかないかの小さな冴えない天皇
が写っていた。国民はこの写真一枚で、日本が敗れたことを改めて思い知らされたのである。
しかし会見の模様は、予想されたものとは少し違ったようである。
「私はどのようになっても構わないが、国民は救って貰いたい!」。
いきなりこう切り出した天皇に、マッカ-サ-は一挙に好感と尊敬の念を感じたらしい。
その事を物語る証言や文献は多々あるが、その中の一つ。

1946年、女性に参政権が与えられて39人もの女性議員が誕生した。加藤シズエはその
女性議員を代表してマッカ-サ-に会っている。
マッカ-サ-は軍人的で堅苦しく威張ったところは微塵も無く、大きな笑顔を見せて、社交
的で快活且つ親しげに話してくれたそうである。
「天皇裕仁のような立派な人物は珍しい! 自分を犠牲にしても平和を願っていた」「戦争
責任を一身に被ると言う陛下の真摯な発言に、私は非常に感銘した」「歌を詠んだり 絵を
描いたり 動植物を研究したり、大変な文化人である。あの人物が健在なら国民はついてく
る。そう考えて私は天皇制を存属させることを決めました」そう言ったそうである。



2002/10/16
伊藤さんから突然の電話があった。

10月14日横須賀芸術劇場で行われる「10ケ国軍楽隊演奏会」のチケットが、急な結婚式
招待で余ってしまったという。遠慮なく頂いて 行ってきた。
その演奏会は海上自衛隊創立50周年記念として、東京湾で行われている「国際観艦式」関連
の最後の催しであった。出演国はチリ共和国・インド・タイ王国・マレイシア・ロシア連邦・
イギリス・大韓民国・フランス・アメリカそして日本の10ケ国であった。会場に入ると中央
に海上幕僚長他関係各国のビップの貴賓席が設けられ、各国の記者らしい人達もカメラを持
って動き廻っており、国際色豊かな会場になっていた。
最初はチリ共和国の演奏。颯爽とスマ-トな軍服姿で、直立不動のアクションの全くは入ら
ない演奏はマ-チとお国の民謡で始まった。いかにも軍隊という感じでスタ-トした演奏も
インド・タイと進むに従って、なんだかホンワカと砕けてきた。タイ国王が自ら作曲された
という曲などは、昔見た映画「慕情」を思わせるようなラブロマンスの名曲という感じであっ
たし、マレイシアに至っては、まるでキャバレ-の中にでも居るような錯覚を覚えるくらい
であった。最近は軍隊もえらく砕けてきたもので、戦争やってもあまり強くないんじゃない
か?と苦笑せざるをえなかった。
その後は今度は急に本格的になってきた。ロシアの演奏では二人の独唱がはいり、これがま
たプロのオペラ歌手ではないか?と思えるようなバリトンで、その朗々たる声量は咆哮する
管楽器を更に凌駕するほどであった。視覚に訴えたのはイギリス。真っ黒の軍服でズボンの
両サイドと上着には襷掛けに真っ赤な太い直線が走り、真っ白のカブトに小太鼓を抱た艶や
かな姿で、バッキンガム宮殿の衛兵よろしく、キビキビした一糸乱れぬアクションが魅力的
であった。
圧倒的だったのはアメリカの第七艦隊。トランペットやトロンボ-ン等をフィ-チャ-して
順番にソロを聴かせる、そのテクニックがまた抜群で、管楽器のあの歯切れの良さは全員プ
ロではないのか? 最後のトリは日本の横須賀と関東の合同軍楽隊。残念ながらアメリカの
すぐ後ではいかにも見劣りがして、アメリカの三倍ぐらいの人数でカバ-しようとしても、
とて
もカバ-しきれるものではなかった。  しかし僕は充分に堪能してきました。
有り難う伊藤さん!このホ-ムペ-ジ上でお礼をさせて頂きます。

その前日、13日は東京湾を臨む我が「望洋小学校」で健民運動会がありました。望洋学区
の六町内で競うのであるが、いずれにしても参加者には全員に賞品がでる。ドンジリでも何
かしら貰えるから結構参加者は多いのである。どの種目もかなり多めに賞品が準備されてい
る。60歳以上の「お掃除お任せグランドマザ-&ファ-ザ-」という種目には120個の
賞品が準備されていたが、エントリ-者を集計したらなんと196名。運動会も60歳以上
が主役となったのである。
変われば変わるものである。やはり同じくお年寄りの「玉入れ」の種目があった。
「熊井さん!はいってくださいね!」引っ張り出されたのである。まわりを見て「ショック!」。
ちょっと腰の曲がった人、何かヨタヨタとしている人、この人達と同じ仲間に入れられたの
である!俺のプライドはズタズタにされてしまった。「トホホホホ・・・・・!」。



2002/10/23
ゴルフ/大沢在昌

箱根の同窓会・幹事さん達大変ご苦労様でした。夜中に不協和音をステレオで聴かされること
も、足で蹴られることも無く、充分に楽しみました。 その前の「ふ-けもん会」のゴルフの
出来は 散々でしたが、バックティ-からのショットはなかなかの醍醐味がありました。
ところで「新宿鮫」の大沢在昌のゴルフの話。
…………………………………………
とにかくゴルフがあまりに面白いので、私はつきあう女性にもゴルフを勧めた。好きな人と好
きな遊びをすれば、倍楽しいはずだ、という理屈で。だが不思議なもので、初めのうちは”師
匠”に従順であった彼女も、一年・二年と過ぎていくにつれ、なぜか逆らうようになる。ゴルフ
というのは他人の欠点はよく目につき、その上自分の欠点はわかっていても直せないときてい
る。こちらの注意に最初は、あっそうか、なんてカワイク頷いていたものが、度重なるにつれ、
「わかってるわよ!うるさいわね!」おっかない顔をする。だいたいが夫婦で和やかにゴルフ
なんて夢物語で、ハ-フも終わるころには、ろくすっぽ口もきかなくなっているのが常だ。
やがてその女性を妻とするにあたり、私はある条件をつけた。それは決して私よりいいスコア
で廻らないこと。たとえ十八番グリ-ンで五パット・六パットをしても、私より叩くこと。
それから幾星霜。とある名門コ-スでのこと。キャディ-が妻に言った。「お客さん、うまい
わね-。あたしこんな上手な女の人についたの、初めて」「キャディ-さん、俺、俺が教えた
んだよ」言った私をじろりと見て、彼女は答えた。
「ああら、お客さん、教えるのは、上手なのね!」
…………………………………………
ゴルフには色んなドラマが生まれ、これを誇張してワイワイやるのが、また楽し!



2002/10/30
先週に続いてゴルフの話。

文壇でもゴルフの付き合いは色々あるようでして、その中の一つ。
大岡昇平は他人のゴルフに関して、大変意地悪な皮肉屋である。年中その毒牙にかかってい
たのが吉川英治・獅子文六・石坂洋次郎さん達であった。はたから見ているとどうも弱いも
のいじめに見えた。
ある日風呂にはいっていると、突然凄まじい音がして、誰かが叫びながらそれもスパイクを
履いたまま風呂場に乱入してきた。「おい!昇平いるか!どこにいる!」吉川英治さんであ
った。
「おい!ざまをみろ!お前じゃなしに、この俺が優勝しちまったぞ!」
吉川武蔵、まさに天敵小次郎を袈裟懸けに切り倒した気分だったろう。

もう一つ。大晦日、川奈の富士コ-ス、優勝してすっかり御満悦の吉川先生、終日相好を崩
しっぱなしであった。一夜明けて翌日元旦になってもその気分が続いていた。
「おめでとうございます」
「いや!ありがとう!」「おめでとうございます!」お!女中さんまで祝ってくれるのか!
「いや!ありがとう!」「おめでとうございます!」「ありがとう!」?????????。

更にもう一つ。やはり吉川さんの話。この日は吉川さんチョロにつぐチョロで散々!
オ-バ-ドライブしていた奥さんが、
「あなた!そのボ-ルを私が打ちますから、あなたは私のをお打ちになって!」
むっとした吉川さんが、
「無礼なことを言うな!老いても俺は武蔵だ!」と一喝したそうな。
このあたりは案外意地悪な大岡さんの創作かもしれない。



2002/11/7
先週ラジオで聞いた ちょっと良い話。

40年ほど前のこと、当時私は小学校6年生で、熊本に住んでいました。
私は熊本駅近くのデパ-トによく遊びに行っては、デパ-ト主催のミニコンサ-トを見てい
ました。
その日は強い台風が通り過ぎた直後でした。デパ-トは客も少なく、開催予定のコンサ-ト
は中止かもしれない?と、内心諦めていながらも、もしやとの思いで会場を見に行きました。
会場には誰も居ませんが、中止の貼り紙も無く、舞台には譜面台と椅子が4セット置かれて
いました。「東海林 太郎来る」という書きなぐったような貼り紙が一枚、無造作に貼って
あります。
私は、昔は非常に有名だった歌手なのに失礼だな!と思いました。
時間がきました。すると伴奏者が席に着き、続いてメガネをかけ背広をキチンと着た歌手が
現れました。私は思わず後ろを振返りました。やはり私の後ろには誰も居りません。
その歌手は直立不動で歌い始めました。一生懸命・心のこもったいつもの歌い方でした。
私は手が痛くなるほど手を叩きました。するとその歌手は直立不動の姿勢から私の方へ視線
を向け、「ありがとう!」と言いました。
結局コンサ-トが終わる頃には3~4名に増えましたが、東海林太郎は小学生の私一人の為
に歌ってくれたと思っています。あの日の思い出は私の脳裏に鮮明に残っています。そして
あの日の情景は、その後の私の生き方に強い影響を与えてくれています。



2002/12/12
「男の作法」その一/池波正太郎

巣を横取りするイソシギの話、次回がどうなるか?楽しみです。しかし小鳥の世界では夫婦
対夫婦の対立という構図になるケ-スが多いように思えるが、雄雌同体格なので体力も同じ
なのですかね?体格が違う動物は雄同士の対決となるんでは?しかし面白い!

池波正太郎は僕の好きな作家で、殆どの著作を読み漁った作家の中の一人である。その作品
の中に「男の作法」という本がある。読まれた方も沢山居られると思うが、僕が面白いと思
ったところを2~3回に分けて紹介します。

「今の若いもんは!」という池波正太郎の嘆きが聞こえてきます。
いわゆる「明治の男」が居なくなって、年をふるにしたがって昔の男が持っていた「男の矜
持」が急速に弛緩して、今では政治家も医者も、官界・経済界も日本のどの世界にも尊敬を
集める存在が無くなってしまいました。
僕自身もその世代間の落差を実感した経験があります。
僕達が小さい頃には「男のくせに!」とか「男がそんなことで泣くもんじゃなか!」とか、
「お前は男だろ!金玉下げとっとか!」とかよく言われて、男であることをかなり意識して
育ってきたように思う。親しい友達が隣町の不良高校生に取り囲まれいるのを見て、内心は
ドキ
ドキしながらも平静を装って、その輪の中に割ってはいったりしたのも、
「ここで逃げたら俺は男で無くなる!」という思いからであった。
とかいう話を中学生の息子に話した時、
「相手が弱い奴だったら助けにいくけど、強そうだったら俺は逃げる」
「大体そんなバカらしいことをするような奴は、今時居ないよ!」
とアッケラカンと言い放った時には僕は唖然とするのみであった。

「男の作法」その一
約束・・・時間、自分の人生も一つであると同時に、他人の人生もひとつ。それほど時間は
貴重なものです。 従って時間において他人に迷惑をかけることは恥ずべき事である。昔の
作家はそんなことはしなかった。夏目漱石・泉鏡花あるいは森鴎外・島崎藤村も、自分の生
活で例え女狂いをしていようと、会合の時間に遅れることは決して無かった。それにくらべ
て最近の作家は!と続くのであるが・・・。池波正太郎自身、重要な会合には一時間前には
会場に着いて、近くで待機していたそうである。

死・・・・男を磨くときも磨き時というものがある。例えば巨人から阪神にトレ-ドされた
時の小林投手が、まさに彼にとっての男の磨き時であった。 そういう苦境に立った時は男
を磨くか?それとも下に落っこっちゃうか どちらかなんだよ。あと自分が何年生きるか?
と死を時々考えることによって、今自分は何をするか、何をしたいかを考える。
「死ぬことに向かって生きている」ということだけが、はっきり解っていることであってあ
とは何も解らない。この事をきちんと意識すべきだ。そうすると仕事の面でも違ってくる。

顔・・・・その男の人生は顔に出てくる。若いうちは「人間はこういう風に生きねばならぬ」
と割合考えた。人夫々にロマンがあった。今はマイホ-ムだけ。感覚的にだんだん人間が鈍化
している。白か黒か?そういう決め付けだけがあって中間色が無い。「人間とか人生とかの
味わいというものは、理屈では決められない中間色にあるんです」。
現代は男の意地・夢・ロマンというようなものが確かに見つけにくくなった。まだ戦国時代
のほうがそういうものがあったように思う。

組織・・・・長島は名選手で大スタ-であったけれども、監督の器ではない。長島は天才な
んだよ、宇宙人みたいなところがある。コツコツ努力しなくても感覚的にできるる奴は、人
もできると思ってしまうか?できない奴を理解できない。 下積みの苦労をしていない人は、
人間的に選手を理解できない。そこが長島と川上の違いなんだよ。
人間というのは矛盾の塊なんだ。矛盾の生き物が集まって作る組織は、人間が解る人でない
と統率は難しい。
                               次回へ!



2002/12/17
「男の作法」 その二/池波正太郎

O-chanへ
貴方はいつも僕のことを今田・今田と言っていますが、僕は今多です。
「道に迷うこと、今だ多し」の多しです。以後よろしく!
環境破壊の件、お説ごもっともです。人間があまりにも横暴なのは間違いありませんし、人
間がこの人口増加を止められなければ、おそらく自らもそして地球も破壊してしまうでしょ
う!
しかしな-!僕はゴルフが好きだしな-! 都合の悪いことには ダンマリ!

「男の作法」 その 二
池波正太郎の作品には「食べる」シ-ンが沢山出てきます。僕の様に食い意地のはっている
者には、生唾がゴクンとなるような場面が沢山あります。僕は消化器官が丈夫に出来ていて、
病気でウンウン言ってる時でも、食欲が落ちるということがありません。我が一生を振返っ
ても食欲が無くなったという思い出は一度か二度ほどである。いずれにしてもその「食べる」
シ-ンは池波作品にワサビや生姜のように、風味を加えているのである。
さすがに池波正太郎は食通である。

寿司屋・・・
*ガリ、ムラサキ、シャリ、アガリ・・いずれも寿司屋仲間の隠語である。
 客が使う ことは無い。
*トロばかり食べるのも良くない。寿司屋にとってトロというのは仕入れが高く儲からない
 か損になるサ-ビス品である。
*ビ-ルを注ぎ足すのは愚の骨頂、1/3か半分を注いで、飲み干しては入れ、飲み干して
 は入れするのが良い。新しいビ-ルを溢れるほど入れたら、飲み干せなくなくなり、時間
 がたってしまう。

てんぷら・・・
親の敵にでも会ったように、揚げるそばからかぶりつくのが良い。前に置いていつまでもシ
ャベッているのは良くない。てんぷらというのは、材料が新鮮である事と油の加減が大事な
んだよ。てんぷら屋の親父は一番うまい油加減でつくるよう気を使っているのに、いつまで
も食べないと待っていて温度調整をやり直さなければならない。
      そこんところをチャンとやると、親父は喜ぶ訳よ!

刺し身・・・
ワサビは醤油に溶かさず、刺し身の上にのせる。醤油に溶かすとワサビの香りが抜けてしま
うんだよ!

椀盛り・・・
蓋の付いた塗り物のお椀で出されるもので、熱いものはすぐ食べなければならない。
そうでないと良い料理人が泣いちゃう。本当の良い料理屋あたりになると、もう本当にすぐ
食べられるように神経を使って、その吸い物の温度なり何なりを考えて出してくる訳だから
ね!

どうです!男の作法少しは勉強になりました!「何 そんなの常識だよ!」と言う人もおられ
るかな!



2002/12/25
男の作法・・・その3 (女性に関する事)/池波正太郎

母親・・・男というものが、どのように生きていくか?という、その問題は結局溯っていくと、
幼児体験に突き当たる。人間というものは幼児体験というのが、一生つきまとうんだよ。小学校
にあがる前まで、母親の影響というのはこれは大きいんだよ!

女性・・・女というものは結局、自己本位の考え方、生き方と言う面において強い訳だから、
自分の女房にする場合にまず考える事は「女のなかでは 他の事にも、割合に気がまわる
女かどうか」
例えば公衆電話で人が待っているのも構わず、ながながとやっているような女は駄目!
「あっ!今人が来ましたからこれで失礼します」とか「公衆電話ですので、また後でお掛けし
ます」とか言う女でなくちゃ駄目!一事が万事だから、そういうところに気が付く女が良い。
本屋でも紙が破れるようなペ-ジの捲り方をしている女がある。こういうのを女房に貰ったら、
絶対男の運が落ちちゃう。昔は朝の家事をするでしょう。 洗濯しながらご飯の火加減を見
る。 同時に赤ん坊の事に気をつける。という風に同時に2つも3つもやる訳だ、神経を働
かせて。これが人間社会のことにも全部働いてくる訳ですよ!今はそういう神経を働かせる
訓練を若いうちからしなくなっちゃったから駄目なんだ。
やはり今の機械文明が、感覚を麻痺させているのは事実。

嫁・姑・・・言いたいだけ喧嘩させる。そして僕は両方とも叱る。
姑「うちの子はそんなものは食べません」とやったから、僕は「俺は一人で食うから、俺のを
家内がつくれ!」「家内が給仕をする間に、お袋が二人のを作って、後で二人で食べろ!」
僕はこれを最初にやった。以来今でも僕は一人で食べている訳です。13の時から世間に
でて、女というものが大体解かった。女はわがままなんだから、母親だって年取っているから
偉い訳じゃないんです。

*何だか女性群から苦情が出そうなことも書いてありましたが、これはあくまでも池波正太
郎の意見であって、私がそう言ってる訳ではありません。念の為!

3

 

小話の箱 2002(1)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)17時15分1秒
返信・引用 編集済
  .

               小話の箱

                          ペンネーム 今多 迷道
                               『落書き帳』
                                2002-2004



    小話の箱では この様な ユ-モア、ダジャレ、エピソ-ド、名言、等々、
    話の種になりそうな小話をゴチャ混ぜにして乗せようかなと思っています。
    しかしながら私の箱には ほんの少ししか入っていません。そんな話なが
    ならこんなのがあるぞ!といくらでも出てくる諸兄が居られるはずです。
    私の箱の空白を埋める意味で ドンドン発表して下さい。(2002/7/3 投稿記事)



*題名は全て『小話の箱』です。題は編集部でアレンジしています。

2002年(1)


2002/6/27
時は天正10年5月の事。

このところ鬱々として楽しまない明智光秀が、心知ったる盟友達を集めて、連歌の席を設け
たのは 5月28日のことでありました。(この頃は旧暦なので 今で言えば約1ケ月ずれる)
  光秀   「時は今 天が下しる 五月かな」 超有名な句。
          それを聞いた 西ノ坊、里村紹巴    「むむむ・・・!」光秀の腹の底を悟ります。
  西ノ坊    「水上まさる 庭の まつ山」
  里村紹巴   「花落つる 流れの末を 堰とめて」 と結びます。

そして日本の歴史上の希有の大天才 織田信長が、本能寺の紅蓮の炎の中に没したのが
享年49歳6月2日のこと。約400年前の 丁度今頃、梅雨の 真只中の事でありました。



2002/7/3
これは関西のある大学の先生の話です。

最近の学生は授業中なかなか私の話を聞いてくれませんでね。彼らの注意を引く為に私はよく
ダジャレを使うんです。
(例)私は最近ちょくちょく沖縄へ行くことが多いんです。行くついでにヘビの研究をはじめ
ました。面白いですね!さすがに沖縄のヘビは英語が解るんです。私はヘビに尋ねました。
お前毒を持ってるだろう?そうだろう? ヘビは答えました。”Yes I ハブ”。

田村先生!どうですか?一度使ってみたら?

小話の箱では この様な ユ-モア、ダジャレ、エピソ-ド、名言、等々、話の種になりそうな
小話をゴチャ混ぜにして乗せようかなと 思っています。しかしながら私の箱には ほんの少し
しか入っていません。そんな話ならこんなのがあるぞ!といくらでも出てくる諸兄が居られる
はず、私の箱の空白を埋める意味で ドンドン発表して下さい。



2002/ 7/12
西欧の神話

むかし昔のそのむかし、人間には性(男女の区別)がありませんでした。手や足は4本ずつ
頭は2つ、当然目や鼻も2セット、前後を同時に見ることができます。当時の人間は山野を駆け
谷を跳躍し、それはそれはすばらしい力を持っていました。人間達はその自らの力に溺れ、
神の国に攻め入って宇宙を支配しようと企てました。それを聴き知った神神は、この不届き
な人間どもをどうしてやろうか?と考えた末、人間を真っ二つ断ち割ってしまいました。
その後の人間は誰かが側に居てくれないとどうにもならない、現在の弱い人間になってしま
いました。しかしながら 昔のその片割れを探しあてれば、もとのあのすばらしい力を回復
することが出来るそうです。

僕はこの話を 結婚式の スピ-チで何度か使っている。
それはともかく、我が女房殿は 僕の昔のこの片割れでないことは間違い無い。



2002/7/18
レ-ガン大統領は2月6日 僕と同じ日に生まれている。

誕生日が同じというのは 365分の1の確率であるから、結構自分のまわりにも居るはず
であるが、あまり見当たらないのは どういうことか?
俳優あがりの大統領として はじめて彼の写真を見た時、”あっ!彼は見たことあるぞ!”
僕は高校・大学時代 相当西部劇を見ているが、その中のひとつで見ている。題名は忘れて
しまったが 牧童の下っ端で、非常に卑怯な男の端役であった。あれほど後年の彼のイメ-
ジとかけ離れた役をやっていたとは!アメリカとは 面白い国である。
彼はユ-モアのセンス溢れる政治家として とみに有名である。

精神病らしい青年にピストルで撃たれ、担ぎ込まれた病院でのこと。手術の為に全身麻酔
をかけられる寸前、医師に向かって”君が共和党の支持者であることを祈るよ!”とウィン
クしてみせた。
政治家としての度胸を上手く伝えている。



2002/ 7/24
先週(レ-ガン大統領)の続き。

ピストルで撃たれた後。退院して間もなく、どこかの州の共和党大会で、押しかけた満員の
党員達を前に演説中のこと。景気づけに持ち込まれていた 沢山の大きな風船のいくつかが、
手を離れ天井に溜まってしまい、その一つが大音響と共に爆発した。全員がぎょっとして身
を竦ませた瞬間、壇上の彼もまたはっとして身を縮めた後、風船の爆発音をピストルの音と
勘違いして慄いた聴衆に向かって、ニヤッと笑い”弾は外れたね!”言った瞬間、大笑いだ
けでなく 大歓声・大拍手の嵐だった。

鳥星さんへ
紹介のあった小鳥達をじっくり観察する余裕は 僕にはありませんが、この欄を覗くのは楽
しみにしていますよ!声無き声を聞いてください。樹間の中で姿なき声をいつも聞いている
ように!



2002/ 7/30
先日28日(日)横須賀芸術劇場
(横須賀にもこういうハイカラなものがあるんです!)


にて、 YOKOSUKA JAZ DREAMS 2002 という催しがあり、久しぶりに音の世界に遊
んできました。
第一部、小曾根 真(ピアノ)と GARY BURTON (ビブラフォン)との二重奏。小曾根のピアノ
のテクニックはそれはすばらしいものでした。 第二部、原 信夫とシャ-プ&フラッツ、
17名
のビッグバンドの猛獣達の咆哮の様な迫力を満喫。ここにジョ-ジ川口が特別参加!彼は
75歳の高齢・原 信夫も恐らく70台?シャ-プ&フラッツの3分の1は若いが あとは
高齢者ばかり、まるで敬老会の様な組み合わせでしたが。ジョ-ジ川口、一頃の汗を滴ら
せてのエネルギッシュなドラムではありませんでしたが、チンドンヤみたいに派手な背広
に身を包み、終始にこやかに、楽しそうにやっていました。好々爺。最後は渡辺 貞夫と彼
のグル-プ。
そこにアフリカン・パ-カッションのN'GOMAMAKAMBA というグル-プが合流。
重層の 打楽器だけの叩きつける様なアフリカのリズムは陽気・激しい情熱の中に鬱積した
怒りも混入しているように感じた。そこに渡辺貞夫の 澄んだフル-ト?が加わると、奥底
のほうに 深い悲しみが漂う・・・・・。
一転してブル-ス調の静かな曲に変わると、哀調を帯びたサックスが やさしくゆりかごを
揺らす。それにしても渡辺貞夫の 円熟し達観した境地、仲間達とのハ-モニ-を 自由に
のびのびと楽しむ姿・挙措が非常に印象的であった。アンコ-ルがまた圧巻、全出演者が揃
っての舞台は、一流どころがうち揃っての豪華も豪華!極めてゴ-ジャスなフィナ-レでし
た。



2002/ 8/8
先週8月3・4日、横須賀は開国祭で賑わった。

黒船が浦賀沖に姿を現し、開国から150年目が来年にあたる。従って本番は来年、今年は
その予備練習ということであった。
黒船来航時、日本国中大騒ぎとなり、黒船を一目見ようと色んな人が横須賀を訪れているが
坂本竜馬もその一人 彼は妻のお遼さんを同道した。ところがそのお遼さんが発病、横須賀
でなくなっている。 お墓が横須賀にあり、毎年11月にお遼祭なるものが催されている。
ところで坂本竜馬は誰が殺ったか?はいまだはっきりしていないが、 司馬遼太郎は直参の
佐々木唯三郎説をとっている。当時の京都には新選組のほかに見廻組があった。
直参の子弟から志望者を募って組織し、官営テロの指揮を取った。佐々木唯三郎は特命があ
った場合、その都度腕ききの者を選んで出動、清河八郎の暗殺もやっている。
刺客がいかに腕達者だったかといえば、 竜馬が受け止めた鞘ぐるみの刀を、打ち込んだ刀
で鞘を削ぎ刀身まで削いでいた。坂本は初太刀で頭をやられてほどなく死んだが、中岡慎太郎
の方は めった切りにされながらも 数日生きて死ぬのだが、かすかな意識のなかで立ち去っ
て行く敵が 小唄と詩吟をうなってゆくのを聴いたという。中岡は「たいしたものだ。幕府
に人無しと見くびっていると ひどい目に会うぞ!」
当時 殺すも殺されるも 双方スポ-ツの様に 乾いた気持ちがあったのかもしれない。



2002/ 8/13
ミョウガ

夏休み中はご無沙汰の予定でしたが、会社にちょっと顔を出しましたので、ホ-ムペ-ジを
覗いています。田村先生の出題・赤のイメ-ジは日・英とも共通だということが解りましたが、
グリ-ンとなるとどうですかね?日本では青とも言いますので これは共通とはいかないので
は?なんて考えていたら 無い知恵を絞っても迷答にしかならないという結論になりました。
回答は誰かに譲りましょう。

江戸の笑い話
「あのお客さんの荷物には 高価な品物がいっぱい詰まっている。何とか忘れていかせる方法
はないかしら?」宿屋の女房が亭主に耳打ちした。「だったらミョウガを食べさせるといい」
と亭主が言った。ミョウガは物忘れをさせる食べ物と信じられていたようだ。その晩、女房は
汁にも菜にもミョウガをたくさん入れて、客にふるまった。ところが翌朝、客が出立した後に
部屋を探しても 何一つ忘れ物は無かった。
「お前さんミョウガは効かなかったようだよ」
「そんな事はないよ!宿賃払うの忘れていっちまったよ!」

そういえば伊藤さんちでもミョウガが出たが、俺はシャ-プペンシル忘れてきたよ!



2002/ 8/23
「受賞の言葉」/米原万里

ちょっと古いんですが 今年の4月大宅壮一ノンフィクション賞が発表され、米原万里さんの
「嘘つきア-ニャの真っ赤な真実」が受賞しました。彼女は 国際会議やテレビの同時通訳。
ゴルバチョフ、エリチン、サハロフなどの来日要人の随行通訳を務めたその道の有名人らしい
んですが、彼女の「受賞の言葉」を読んでショックを受けました。読んだ方もおられるかもし
れません、チョット長いんですがそのままご紹介します。 これを読むと我々が斜光の原稿書
きに苦労するのなんか、甘っちょろいもんです。

…………………………………………
二足のワラジのつもりだった。物書きとしてネタの宝庫たる通訳現場を離れるわけにはいく
まい。
通訳業の産業廃棄物をチョコチョコっとリサイクルして、出版業界に流しては甘い汁を吸っ
ていこうと。ところが甘いのはこちらの読みだけだった。第一原稿締め切りと会議通訳の準
備が両立する程 編集者も顧客も寛大ではない。それに原稿書きと調べ物は やればやるほど
増えていくという恐ろしい生業だ。いつの間にか片足がズルズルと深みにはまり、通訳現場
で踏ん張るはずのもう一方の足もろとも 身体ごと引きずり込まれている恰好である。
バリバリの現役通訳時代は 月百万を軽く超えていた衣装代が 限りなくゼロに近づき、毎日
入っていたはずの御風呂に何日も入らなくなり、そのうち朝顔を洗い、歯を磨き、髪を梳か
すことさえ省略するようになった。それもただただ原稿書きに追われるが為に。時々己のお
ぞましい姿を鏡の中に認めてハッとする。こんな風に人生最後の日迄 突き進んでしまって
いいんだろうか?これからはそういう時、今回の賞のことを思い出すことにしよう。
「それでいいんだよ!」と囁いてくれるだろう、悪魔のように。
あっ勿論 受賞式には 斎戒沐浴して臨みます。
…………………………………………



2002/ 8/28
たばこ

団 伊玖磨に「パイプのけむり」という 恰好の好いタイトルのついた随筆がある。明治37年
明治政府は日露戦争の戦費調達目的で、たばこ産業を民営から官営に転換、4種のたばこを
発売した。本居 宣長の「敷島の 大和心を人問えば 朝日に匂う 山桜花」という句から取っ
た敷島、
大和、朝日、山桜である。当時たばこは 日本の命運を担い、全幅の信頼を受けた隆盛期で
あった訳である。勿論嫌煙なんて言葉も無かったはずである。ところが昨今は ビルの片隅
で何か罪悪人みたいに小さくなってたむろしている姿や、家庭では暗がりのベランダで一
人寂しく煙りを吐いている姿しか見なくなった。受難の時代である。近藤君は小さい頃、親
父が書斎の机で 煙をくゆらせながら考えにふけっている後ろ姿に、「恰好いいな-!」と
思ったそうである。もうこれからは子供が「恰好いいな-!」と思えるような姿を見る機会
は無くなってしまったのである。親父の権威がまた一つ無くなった。



2002/ 9/5
先週の続き(親父の権威について)

親父の権威失墜の原因はいろいろあるだろうが、一つの大きな原因は 給料の銀行振り込み
制度である。昔は給料日ともなると 奥さんはご馳走をつくり、晩酌も多めにして待ってい
た。「はい!今月の給料!」旦那が渡す。「ありがとうございます。大変ご苦労様でした!」
子供達は毎月この儀式を見ていたのである。ところが銀行振り込みに変わった途端、ご馳走
や晩酌は次第に減っていき、何時の間にやら普段と同じになってしまった。子供達は奥さん
から小遣いを貰うようになり、旦那まで奥さんに頭を下げて貰いながら「今月は給料少なか
ったわね!」と皮肉られる始末。
犬や猫でも直接ご飯を食べさせてくれる人が 一番偉いのである。休日ともなると親父はゴ
ロゴロ粗大ゴミとして又奥さんに怒られる。これじゃ-子供が尊敬するはずがない。
そこで私は考えた。毎月奥さんには一定額の食費を渡し、残りは別の自分の口座に入れる
のである。子供にはわたしが小遣いを渡し、特別出費がある場合は、わたしが奥さんにその
分を渡すようにしたのである。こうして我が家は親父の権威を保っている。(・・・・と思
っている。)
いかがですかな!今からでも権威を取り戻したいと思われる方は 一度試してみたら?
「何!もう遅い!、定年を過ぎて収入はゼロ、稼いでいるのは奥さんの方?」そういう御仁
はキッパリと諦めて、主夫に徹するしかあるまい。



2002/ 9/11
「ダイアナと「ライフルと愛馬」

近藤君にオ-ルディ-ズ・ヒットパレ-ドというCDを貰った。約40年前・高校から大学時代
にかけて、毎週聴いていた「今週のヒットパレ-ド・ベスト10」等の番組で、ベストワンの曲
が軒並み網羅されている。
私達が高校2年の時・学校での音楽の時間、オンボロ教室ではあったが、佐賀県に一台か
二台しかないだろうと言われたビッグなステレオがあり、音楽鑑賞ということでクラシックを聴
かせてくれた。そのすばらしい音色と迫力に感動したものである。ところが我々は曲が始まって
しばらくすると、皆机にうつ伏せになって”グ-グ-・ピ-ピ-”。曲が終わる頃にパッと目が
醒めるという状態であった。私はどの曲も 出だしと終わりしか聴いてないから、はたして途中が
どういう曲だったかひとつも憶えていない。先生の名前は忘れてしまったが、我々がそんな状態
でも 何度も聴かしてくれた。 当時としては非常にゴ-ジャスな時間を持たせてくれた訳で、
佐高にも粋な先生も居たもんだな-と思うのである。
ある日の放課後のこと、誰がいたずらしているのか?そのビッグなステレオのボリュ-ムをいっ
ぱいにあげて「ダイアナ」の曲が校庭に響き渡った。それが又陽気で、リズミックで、とても楽
しくて ウキウキと心が躍ってくるのである。それまで聴いていた演歌とは全く違っていたので
ある。私は一遍にポピュラ-党に変わってしまった。それからは毎週毎週ポピュラ-番組をよく
聴いた。浪花節党の親父に「なんじゃ-そりゃ-、騒がしかばっかりじゃなかか!」と言われな
がら。
ところが何回聴いても英語では何を言ってるのかさっぱりわからない。が どうしても憶えたい
と思って歌えるようになったのが、最初の衝撃の「ダイアナ」と西部劇「リオ・ブラボ-」の主
題歌「ライフルと愛馬」である。悪徳牧場主が荒くれ牧童と大挙して襲ってくるという緊張した
場面、嵐の前の静かな一時、ディ-ン・マ-チンとリッキ-・ネルソンがギタ-を弾きながら掛
け合いで歌ったのがこの曲である。その何とも言えない雰囲気に痺れてしまったのである。
「ダイアナ」はスナックやカラオケ・ボックスで時々歌っているが、「ライフルと愛馬」は曲が
無い。CDやカセットを探してももう廃盤になっていて、どうしても見つからなかった。ところ
がこの曲が、近藤君のCDにちゃんと収まっていたのである。車を走らせながら 今おもいっき
り歌っている。一人で口をパクパクやってると、行き違う対向車の運転手に怪訝な顔をされて
いるが!



2002/ 9/18
日本

敗戦直後に書かれた 永野 護の「敗戦真相記」を読むと、半世紀以上前の戦争の敗因と今日
本が直面している問題とが、驚嘆するほど似ているそうである。
官僚の無責任主義、政治家の人材飢饉、科学の軽視、教育の荒廃等々。50有余年の歴史が
飛んでしまって、まるで現在書かれた本であるかのようである。日本人の気質は 本質的に
何も変わっていないと書かれている。
*自らの安全を 自らの力によって守る意志を持たない場合、いかなる国家といえども独立
 と平和を期待することは出来ない。
*指導者を持たない群集は 無価値も同然の存在である。
*弱体な国家は常に優柔不断である。そして決断に手間取ることはこれまた常に有害である。
*次の二つの事は 絶対に軽視してはならない。
 ・忍耐と寛容を持ってすれば、人間の敵意といえども溶解出来るなどと思ってはならない。
 ・報酬や援助を与えれば、敵対関係すら好転させうると思ってはならない。
*民衆とは、キケロも言ったように 無知ではあるけれども真実を見抜く力は持っている。
*長期に渡って支配下におかれ、その下で生きるのに馴れてしまった人民は、何かの偶然
 でころがりこんできた自由を手にしても、それを活用することができない。
*まったくもって情けない現実だが、人間というものは 権力を持てば持つほど それを
  下手にしか使えないものであり、その事によってますます耐え難い存在と化すもの
  である。
                 以上 マキァベリ語録より。



2002/ 9/25
筋トレで元気・81歳の女性

スポ-ツジムに杖をついた小柄なおばあさんがやってきた。きよさん(81歳)。愛知県高浜
市の市営施設「いきいき広場」に、週5日通う常連だ。
筋トレを始める前、きよさんは腰と足に力が入らず、食事とトイレ以外は横になっていた。
伝い歩きしかできず、家にこもっていた。今、手押し車と杖を頼りに一人で出かける。
介護が必要なお年寄りがマシンを使って筋トレする「パワ-リハビリ」が、今注目されている。
筋肉を鍛えることで、車椅子の人が立ちあがり、テニスが出来るようになった例もある。高浜
市も昨年10月、高齢虚弱者対象に筋トレ教室を始めた。キヨサンは、一期生6人の最高齢者。
終了した今も、自主トレを続ける。この日のきよさんはいつものメニュ-。椅子に座って両足
で板を押すマシンの負荷を60キロにセットした。立ち上がりに使う筋力を鍛えるトレ-ニン
グだ。10回やって1分休み、計30回。
10キロから始めたきよさんは、負荷を増やすうち、すっと立てるようになった。「姿勢がよ
くなって、この年で身長が1.5cm伸びたよ。ほいだで、やればできるんだよ。」
いくつになっても、ひとには変わる可能性がある。身体が変われば、心も動く。きよさんは、
ジムで友達になった女子高生達から「豪傑ばあちゃん」と呼ばれ、「今が一番幸せ」と言う。
                             朝日新聞より。

1

 

山形より横須賀へ

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)11時30分19秒
返信・引用
  .

                     山形より横須賀へ





 山形へ単身赴任してから早6年が過ぎた。専務からの転勤の打診を即座に引き受けた。
関連会社の横須賀事業所を作りたいが、その責任者にどうか?というものであった。いつ
までも光明の見えない不景気の中で、手かせ足かせばかり増えいく現在の仕事に飽き飽き
していたところであった。
 〔まーこれで自分の行く末も見えてきた。比較的責任も軽く、プレッシャーも少ない所
で、自由に伸び伸びとやろう。〕
 引っ越しはどうせ横須賀の我が家は狭いからと、生活用具は全部他人に譲って帰ってみ
ると〔あれはどうした?〕〔これはどうした?〕〔今のが古くなっていたので使おうと思っ
ていたのに、何の相談もなく勝手に処分して!〕と女房殿に散々怒られながらも、占拠さ
れていた自分の部屋や洋服ダンスから占領軍を追い出し、何とか我が陣地を獲得して現在
はそこを我が空気で満たしてやっと落ち着いたのである。
 それにしても我が女房殿は〔この6年間、私一人でやてきました。〕と随分と鼻息が荒
く、以前と比べてまた鼻が高くなっているではないか!
 確かにこの6年の間に、長男が大学を、次男が高校を卒業した。一番難しい時期であっ
たのは認めるのであるが?

 そうこうするうちに、仕事の方もなんとか軌道に乗ってきた。
 ある程度年を取ってくると、気持ちの持ち方や事の処し方が段々上手くなってくるもの
である。自分の人生を充実させるには、仕事の時間も生活の時間も楽しくしなくてはなら
ない。
 昼休みにはテニスをし、週に一、二回は泳ぐ為のプールも見つかった。最年長ながら、
ソフトボールのチームにもはいった。ゴルフの練習場も決まった。
 次第に生活のリズムも固まって〔ふむ横須賀での生活もなかなか良いではないか!〕と
思っていたところに、妙な話が飛び込んできた。
 町内の役員がやってきて、〔今の自治会長はもうかなりのお歳で、去年から引退したい
と言っているが、後釜がどうしても決まらない。熊井さん是非引受けて貰いたい。〕
 〔自治会なんてとんでもない、そんな役は定年退職した悠々自適の人に頼んでください。〕
〔いや!それが居ないんだよ!〕……押し問答のすえやっと帰って貰ったが、その後が又
大変!。女性パワーを中心に、連日連夜大挙して押しかけてくる。
 我が女房殿のたまわく〔私は絶対反対ですよ!〕
 そういう中で、とうとう引き受けてしまったのである。
 愛は―愛なんて言葉は、気恥ずかしくて過去一度も口にしたことは無いが―若い頃は、
自己や肉親・恋人など、自分自身や身近な人々に向かうが、歳を取ってくると、段々社会
的・抽象的な物に対象が変わってくるものだ。とそんな事を誰かが言っていた。
 そろそろ自分もそういう歳ではないだろうか?と考えた訳である。
 という事で今は、頻々と電話は掛かってくる、突然誰かがドアを開けて入ってくる、毎
日2通以上の封筒が届く、月の内数回は、会合への出席要請を受けるという風に、以前と
同じように多忙に陥り、その都度我が女房殿にブツブツ小言を言われているのである。
 〔わかっちゃいないよな!〕
 

山形春秋 その2

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2014年 3月19日(水)11時15分12秒
返信・引用 編集済
  .

                     山形春秋 その2






 「電話が掛かっています」と言われて受話器を取った。「近藤です!」突然大きな声が
飛び込んできた。「えっ!」面食らってしまった。最近近藤姓でつきあっている人は居な
いはずだが?「佐賀高校の同級の近藤でーす!」瞬間あのにこやかで快活な高校時代の彼
の姿が浮かんだ。あー昔とちっとも変わっていないな!
 斜光への投稿依頼の電話であった。直接山形迄電話が掛かってくるとは驚きであった。
近藤君の頼みじゃしょうがない。今回は不精な筆に鞭打って、気ままに山形の生活や人情
をすこしでも知って貰えばと思います。

 こちらは車社会である。わが工場も従業員三百名、男性も女性もほぼ全員がマイカー通
勤である。商店、オフィス、工場、役所そして山形空港も、充分な無料駐車場を備えてお
り、寒い雪の日もドアーツードアーで用事を済ませることができる。ドアーツードアーは
ちょっとオーバーかな?雪の日はスタートする前に先ず車の雪下ろしをなくちゃならない
からな!いずれにしても、車が無くては生活できないと言った方がよいかもしれない。し
かし車さえあれば極めて便利に生活が楽しめる。太平洋にも日本海にも車で約一時間弱、
春の青葉、秋の紅葉、様々に彩りを変える山や渓谷を走り回ることができる。私も充分に
山形の独身生活を楽しんでいるのである。

 ところが人間安きに堕すると禄なことはない。赴任当初、工場の操業開始時の忙しさも
あり、車ばかりの生活をしていたら完全に運動不足に陥った。身体がブクブク太ってきて、
ある日サッカーボールを追ってダッシュした途端「プツン」と音がして、ふくらはぎの筋
肉を断裂してしまった。それからは一念発起、出勤前早起きして近くの学校のグランドで
運動することにしたのである。その最初の朝、グランドへ向かう途中、散歩をしている老
夫婦と行きちがった時、「おはようございます」と声をかけられ、あわてて「おはようご
ざいます」と挨拶をかえした。
 次ぎにおばちゃん達四、五人連れに又声をかけられた。次の日も皆が皆声をかけてくれ
るのである。横須賀や神戸ではこういう事は一度もなかった事であり、ちょっとしたショ
ックであり、又この様な所に住める事を嬉しく思ったのである。
 最近では小学生や中学生にも挨拶される。その中にニタリと妙に気になる笑いをする奴
が居る。グランドを走り廻り、ゴルフクラブを振りまわし、鉄棒にぶら下がり忙しく動き
回っている姿をどこからか見られている。「いい年をしてよくやるよ!」とやや変人視さ
れ、評判になっているきらいがあるのである。しかしながら、一度始めたらトコトンやる
のが我輩の良いところ?。最近では腹も引っ込み、スマート?になった姿を皆さんに見せ
られないのが残念である。

 こちらの人が人情味豊かで、ホスピタリティに富む事例をいくつか紹介する。つい先日
の事グランドで運動中、時々隣の畑の手入れをしているお爺さんに「お茶がはいったから
寄ってらっしゃい」と声を掛けられた。のこのこと顔をだしたら、近所の数人に取り囲ま
れて、色々と質問責めに会ってきたのである。
 そうそうこういう事もあった。山形への赴任したての頃、一人で自炊生活をする事にな
った俺の為に、わが家の奥さんは生活必需品を買い出しに街に出て行った。「クリーニン
グ屋は平日は帰社時には既に閉店、休日は休業しているから、出すのも引き取るのにも困
っている」という俺の愚痴を聞いていた奥さんは、日曜だろうが夜遅かろうが起きてさえ
いればいつでも出し入れ可能という個人経営のクリーニング屋を捜し出した。そこのお婆
さんに「私が山形に出てきた時に、自転車があると便利だな」と言ったら、「ちょっとお
待ちなさい」と言ってどこかに電話をしている。しばらくすると自転車屋さんが車で迎え
に来てくれたそうである。自転車屋がお客のために車で迎えに来るというのもあまり聞か
ない話ではある。

 僕の住んでいるのは天童市であるが、勤務先の山形工場は隣の村山市にある。市といっ
ても村山市は人口三万人、天童市は六万人の小さな会社である。我が社は村山市では唯一
の東京一部上場の大会社、県や市を挙げての誘致運動の結果進出した企業である。ここで
は我々は大変大事に扱われ、勢い県や市、警察、消防署、労働基準監督署等々との付き合
いも多く、知人も増えるのである。横須賀時代はどこの馬の骨かわからないような存在だ
った我々だが、こちらに来た途端地方の名士扱いとなった。先ず冠婚葬祭が多い。特に結
婚式の主賓で招待される事が多い。年頃の女性を中途採用したら、一週間後には招待状が
届き、相手側の代表が市長であるという。この女性、一ヶ月後には結婚式を挙げ、新婚旅
行で休暇を取り、一年後には子供が生まれて産休を取った。何かこちらが利用されている
みたいで、近頃の女性は厚かましいというか、逞しいというか、感心しているところであ
る。
 こちらの結婚式は親戚縁者知人を広範囲に招待するから、普通二、三百人、多いときは
四百人という大人数となる。こういう結婚式をいくつもやっていると、何度も顔を合わせ
る人が沢山でてくる。そうするといつも同じ事をしゃべる訳にもいかず、話題づくりにも
苦労しているのである。
 これは初代の工場長の話。村山市にクワハウスと呼ばれる温泉付宿泊施設があるが、彼
はここに数日間泊まった。最初は豪華な食事に喜んでいたが、毎日毎日似たようなメニュ
ーが出てくるので段々飽き飽きしてきた彼は、女中さんにちょっと不満を漏らした。翌日
たまたま市の観光課長と会ったら「昨日は失礼をば致しました。早速何らかの対策をする
よう指示をしておきました」と言われたそうである。「いやぁ熊さん、ここでは迂闊な事
はしゃべれんぞ!変な事を言ったらすぐに街中に噂が広まってしまうぞ」。以来車のスピ
ードも最高七十キロに自制、スポーツカーと並んで止まった交差点で、青信号になると同
時に発進加速して「やった!勝った!」。加速時の背中に残るあの快感も今は諦めている
のである。
 いくらか窮屈ではあるが、古き良きものを沢山残している村社会、山形での独身生活を
大いに楽しんでいるところである。




 

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