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編集後記

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 7月20日(月)18時43分42秒
返信・引用
 
2014年末、二十年ぶりの会話


 急に思い立って、20年近く箱の中にしまい込んでいた後藤氏作の絵ハガキを取り出し
た。どれも大分色があせてしまい、中には細い輪郭線だけが残り色が殆ど消えているもの
もあった。達筆で書かれた文章を一枚一枚読みながら、この人とも大分疎遠になっている
ことを痛感させられる。
 これまでどんなに人にバカにされても、なじられても、私がへこたれにこられたのも、
こんな人との出会いとハガキや手紙にあった励ましの言葉がどこか頭に残っていたからだ
ろうと思う。もう大分お歳をとられていることだろう。無線のスペシャリスト・元祖秋葉
系のバリバリ科学少年かつ日本画家である後藤氏は元気にしておられるだろうか。互いに
元気なうち何でもっと交流しなかったのか、出会いを大事にしなかったのかと悔やまれた。
あわてて絵ハガキをスキャンして画像を保存した。これでもう色褪せることはない。
 たまらず、最後のハガキの住所から電話番号を104で聞き出しすぐに電話をかける。
かからなくてもダメもとだ。いらした、いらした!!。本人と話せた。その後の様子を伺
うことができた。声が若々しい。あれから何度か中国にスケッチ旅行に行かれたという。
半時くらい話した。あんまりお元気で、20数年前に一気に戻ってしまった。

  手紙やはがきを読み返した後、続けてこの中国縦断記録を読みはじめた。以前読んだと
きとはまた違った読み方をしている自分に気が付く。20年の時の経過がもたらしたもの
だろう。行間にある筆者の思いが伝わってくる。筆者は大正生まれの「ニッポン男児」の
頑固さと律儀さ、今の若者に勝るとも劣らない合理性と割り切り加減を備えていることに
気が付く。しかも生半可なものではないのだ。旅日記を改めて読んで、数十年ぶりで心が
沸き立った。無性にこの旅日記を多くの人に読んでもらいたくなった。

復刻補足
  ・復刻はできるだけ元本に添ったが、地名の漢字表記は簡体のものを一部繁体に直した
  ものがある。
    それに応じて読みにくい地名には振り仮名をふった。
  ・会話部分を「」でくくり読みやすくした。
 ・文中の挿絵は、著者自身によるものの他、私が撮した写眞、集めた写真、描いたもの
  を使用した。
  ・後藤孝絵画作品集は、当旅行記と直接には関係しないが、慰霊の旅と同時にスケッチ
  の旅でもあることを考え数点の中から選び、ここに掲載するものとした。

                                    古賀由子

66

 
 

後藤 孝 絵画集2

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 7月19日(日)08時47分51秒
返信・引用
  .

年賀状他


                  





                      


                 



          


           

                                                色紙 単品
                

2015年

64

 

後藤 孝 絵画集1

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 7月19日(日)08時15分8秒
返信・引用 編集済
 
中国スケッチ


京広線「英徳」プラットホーム



                       河南省南陽市南陽国際飯店前
                      

64

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記 補遺2 (T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月28日(日)08時42分26秒
返信・引用
 
戦中、南陽を移動した詳細を丹念に思い出し、また戦友たちからも聞き取り調査をしたの
でしょう。これを見ていると自由旅行記は、ほぼこの戦時中著者が辿った経路と同じ事が
わかります。南陽に向かう手前襄城で民家宿営と記されています。旅行記の中で南陽駅に
夜到着した著者がなんと民家に飛び込み宿泊をしましたが、これも再現したかったのかも
しれません。開封にあった赤煉瓦の兵舎、そして自由旅行で飛び込んだ民家も赤煉瓦でし
た。白河で中国残留の日本人と二人で、戦死した友へ祈り・平和への祈りを捧げる姿がま
た目に浮かびます。


軍歴、年月日順経過、地名と交通手段



S.19.11.25
仁四二二二部隊・星野部隊、開封城外。大阪隊(星野隊長のはがきに寄ると、はじめは城
内放送局、次に城外南方2㎞くらいとのこと。S20年当時、開封駅舎爆撃のとき、右後方
に見えたとあります。これが兵舎の位置で、赤煉瓦造りの兵舎で、今でも残っているでし
ょうとのこと。(大阪隊)   *ママ

S19.12~S20.3
兵舎から開封城壁まで架線作業に出た。せいぜい2~3㎞であろう。又近くの新郷通信所
に出張。

S20.3.3~
●開封兵舎出発。開封駅から鄭州へ。ここで京広線にて南下する。
新鄭→許昌にて下車。ここから自動車及び徒歩行軍3/7→
襄城3/8→ 奉安鎮3/22-23→ 方城3/24→ コーデーワン・白河渡河3/28→ 南陽4/1
→ ガリュウコウ4/5→ 西田営4/7


○開封兵舎→2㎞ 駅舎→
鄭州→ 許昌→40㎞→襄城 →24時間→ 奉安鎮→
列車    徒歩 宿営・民家宿営   自動車

方城→12時間→ コーデンーワン渡河→54㎞→白河岸→10㎞→南陽→16㎞→
→ ガリュウコウ→20㎞→ 西田営


      
          著者手書きを復刻したもの

            
                 著者手書き

62

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記19(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月28日(日)08時36分56秒
返信・引用
 
第20日目 香港→成田→神宮前自宅



9月29日(晴)気温27℃

 少し早めに起床。洗面、歯磨き後外出。セブンイレブンでカステラ、牛乳パックを買っ
て来て食す。久保木さんに残りをお菓子にしてもらう。そして昨日描いた水墨画1枚を贈
呈していよいよお別れ挨拶の後出発。グランドホテル前まで歩きバス停にてリムジンバス
を待つ。5ドル硬貨を入れ乗車。やがて空港到着。早速出国申請書に書き込みタイ航空カ
ウンターにて搭乗手続きを済ませる。搭乗待合所にて待機。やがて出発カウンター開始。
ここでは先着順にゲートに入る。エコノミーとファーストに別れ搭乗する。新しい航空機
である。手持ち鞄は足元に置く。やがて出発離陸する。出発後30分、ベルトサインが消え
る。大変上手な機長の感じがする。スチュワーデスの一人でとてつもない程の美女が世話
をしてくれる。タイ人と云うか印度人と云うか、日本女優で云うと顔つきは名取裕子によ
く似ている。プロポーションはもっと素晴らしい。この人をスケッチして絵にしたら良い
作品になるなと思ったがもうスケッチブックは鞄の中で身動きできない。カメラは室内光
では無理。…中々諦めきれなかった。機内食や飲み物でお腹もいっぱい。

 とうとう、夕刻近くの成田空港に到着。入国書に書き込みパスポートと共に提出。税関
の検査。何も買わなかったと云うと何度も「本当ですか」と聞かれた。スケッチブックを
見せて「私はこれが土産です。これだけ。…」それだけ云うと「じゃあ結構です」。二つ
の鞄を持って出口へ。京成電車成田駅に向かうバスに乗る。外は雨が降っている。何と久
し振りに見る窓の風景だ。夜景とは云え、やはり日本の風土は雨で塵が流される為だろう。
箱庭的綺麗さが先ず先に立って見える。美しいと云うのでなく「綺麗」につきる。上野ま
での切符を買う。地下のホームで指定の席に座る。やれやれ東京か。疲れが出て車中一眠
り。上野到着9時15分。上野から地下鉄銀座線で表参道、ここで千代田線に乗り換えて
次ぎは明治神宮前。二つの鞄が益々重くなる。足慣れたイタリア製快歩靴も今は底に穴が
空いていた。まあ良く行軍したものだ。

 そして表参道の我が家に無事帰還した。
「ただいま。帰りました」
「どうもご苦労様。如何でしたか」
と家内は云う。
「まあ我ながら良くもあれだけ歩いたものだ。中国の42年前とは変わった。何もかも古い
物は無くなってしまう。残念だが仕方ないな。…沢山の人民とも話ができた。住所録がで
きたよ。不思議な事もあった。現在は中国人だが元は日本人だと云う柳さん、日本円で80
円で泊めてくれた民宿と其の部屋の人々。写生も沢山出来た。整理が大変だなあ」
家内が入れてくれたお茶を飲む。日本の緑茶、やっぱり美味い。

             完

        


補遺

初版 第一頁 (ガリ版印刷/実寸)



初版 奥付

62

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記18(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月28日(日)08時35分21秒
返信・引用
 
中国縦断の旅も19日目。いよいよ帰国一日前となりました。


第19日目  ― 香港 ―



9月28日(晴)気温27℃

 窓辺の明るさで目が覚める。暫く横になったまま外の景色を眺めている。だんだん上の
方から太陽の光が建物に反射してオレンジ色に見える。町の朝の音が少しずつ聞こえてく
る。出発時と違いクーラーの音が消え、静かである。起床し洗面、歯磨き後、鞄を開きス
ケッチブックを出す。
 久保木さんが起き、預けていた鞄を持ってきてくれた。久保木さんと約束していた土産
の小作品を描くことにした。色紙を20枚持参してあったので、この1枚に描くものを考え
た。セブンイレブンに出掛けブドウパンと牛乳1箱を購入、久保木さんと一緒に飲んだ。
 久保木さんが買いものに出掛ける。小生、中国凜江船下りを水墨画で1枚描く。スケッ
チの素描にも彩色作業をした。

        

 其の内に久保木さんが夕食材料を仕入れて帰る。夕食の仕込みに入る。小生休養。夕方
近くに買いものに出る。
帰宿最後の夕食を久保木さんと共にする。煮物、鍋物、味噌汁、漬け物、御飯、缶ビール
を完了する。いよいよ明日帰国である。一浴して歯を磨きやすむ。
最後の香港の夜を過ごした。
      つづく

   *画像 Y.K

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中国縦断4300粁単独自由旅行記17(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月28日(日)08時32分36秒
返信・引用
 
第18日目 広州 → 深圳 → 香港


9月27日(朝小雨後晴)気温27℃

 朝6時に目が覚めた。どうも風邪気味が治らない。7時に起床し洗面、歯磨き後そのま
まにして、F1の食堂に向かう。ニラと玉子を散らしたスープと万頭、鶏の炒め物、ヨーグ
ルトで食事をし、再び部屋へ。持ち物の準備し水筒の水を交換、ホテルの感想文を記入。
8時頃ホテルをチェックアウトして汽車(タクシー)にて近くの河原に向かう。岸辺を散
歩してから駅まで行き、早速深圳行きの切符を購入するために並ぶ場所を探す。「兌換票」
と印された窓口にて購入。こう書くと簡単なことのように思えるが、切符1枚買うにも大
変な騒ぎなのである。行列がなかなか前に進まない。なぜか。だんだん近づくと小さな窓
口に脇から何人もが手を差し込んで切符を買おうとする者が何組もいる。私の後方に居る
外国人達も怒っている。私はこの女達に列に並べと云うが、聞かない顔で入り込んでくる。
高い位置から監視している警備官がいるので、この男に大声で不正者を排除するよう告げ
た。あまりにもひどいので警備官はこの女達を連行して行った。それからは流れよく売票
が済んだ。売票とは正しく字のとおり切符を売ること。まあ、こうしたトラブルは枚挙に
暇がない。
 改札の時間がきた。大変な人の列について南方向行きのホームに登る。列車番号を確か
め、この硬席(一般席)に座る。3人ずつ両側に座した中央に、伸び出したテーブル、網
棚には大きな荷物が山積みである。やがて定刻に発車した。
 30分程走ると奥の方で大声を上げて騒いでいる。何を騒いでいるのかと思って振り向く
と、1人の男が亀の様なものを吊し上げている。どうも鼈(スッポンの様である。そして別
の客席で、突っ立った男は偏平なボール箱を同じように吊り下げた手を差し上げて皆に見
せて何やら早口でしゃべりまくる。其の度に大きな声で大勢の乗客がヒャーヒャーと悲鳴
の様な声を上げる。この藁縄でくくった箱は片方が食い切られ穴が開いている。其の内別
の所でスヒャー ヒャーと云う声。総立ちとなり、声の方を向く。皆足元を覗き込んでい
る。私の足元を何かガサガサ触れた様な気がした。小生体中の神経が一度に凍り付いた様
にゾクゾクとした。恐る恐る足元を見たが何もない。何度も同じ状態が続くので、足先を
前方に置くとしばらくしてまたガサガサ。後方の男がおどかすために、自分の足先をわざ
と接触させてくるからだと判った。「鼈に噛まれたら最後、雷が鳴っても放さない」とは
中国から来たことを実感した。それで騒いでいたのである。ともあれ、逃げた鼈は人には
噛みつかなかった。

                
              

 深圳に着いた電車は乗客が荷物を降ろすのとスッポンで大混乱を呈したが、私は全部自
分の足元にあったので素早くホームに降りる事が出来た。私は長々と続く行列の後ろにつ
いて歩く。細長いコンクリート舗装の通路を通り最後にエスカレーターにて上階へでた。
ここはもう通関所だ。出国申請書に書き込み、パスポートと共に提出。OK。パスポート
と一緒に鞄を持ってゲートを出る。次のカウンターは香港入国査証検問所のコーナー。入
国申請書を記入してパスポートと一緒に提出。直ちに返還され入国OKとなる。荷物の検
査もそこそこであった。ゲートを出ると今度は元からドルに切り換える切符を購入。そし
て羅湖→九龍の切符を1枚。約30分程待ちで出発の急行列車にて一路九龍へ。嗚呼やっと
香港に入ったとの実感が車窓から湧いてくる。緑の中に立つ建物が洋風の建物に一転する。
約2時間の旅で終着駅九龍に着く。

 長い地下通路を通り、九龍海浜公園側に出て海岸通りを散歩しながら、中心街商店路を
抜けグランドホテル前の交差点を越えて、チムサッチョイの大和ハウスに入る。扉の前で
押釦(ジョシボタン)を押す。やがて扉が開き、久保木君の顔が。…
「ヤアー!!」
「ヤアー!!後藤さん心配してました」
「やあ申し訳ない。何処かで電話しようと思いながら、いつも電話でと思うが電話が空い
てなくて…。九龍でも空いてなくて。短気なもんでとうとうここまで来てしまっというわ
けよ…。色々とご心配お掛けし申し訳ありませんでした」
「まあ腰掛けて。今お茶入れますから。それに後藤さんが使っていた部屋空けてあります
から。まず荷物を置いてください。……中国は如何でしたか」
「いや色々ありましたよ」。
南陽の柳さんのことや行きに出会った女性達の話、スケッチの話で時間があっという間に
過ぎた。
「ともかく、私が出すから一緒に夕食を食べに行きましょうよ。日本料理食べたいな。
久保木さんいいとこ知らない?」
「日本料理ですか。やっぱりね。もう少ししたら毎日食べられますよ」
と笑いながら久保木さんは出掛ける支度をし、錠をかけ私を連れて外に出る。
 地下鉄チムサッチョイ駅のある大通りを渡り北京路に向かって3百m程右側の横丁を百
m進むとやっと店を見つけた。日本料理屋らしい内装で暖簾なんぞを下げ、畳敷きの腰掛
けを設けてある。早く出来る方が良いから、カツ丼、お銚子1本、新香、ナメコの味噌汁
を注文し中国の話に花を咲かせる。二人で差しつ差されつ食べている内に、もう満腹であ
る。そろそろ宴会を閉めることにして、精算金額を店の人に聞く。「気前よく支払いだ」
とばかりに、私の物入れから出した札束は何と中国元である。やむなく久保木君に立て替
えてもらう。我ながら恥ずかしい事である。これも少々大陸的になったためかも知れない。
素直でぼくとつな人間性の表れとして受け取られることもあるが、どこか抜けて見える場
合がある。これが大陸の人の善意のようなものかも知れない。余り細かい先まで頭で考え
ない。体で考える。本日、久保木さんも久し振りに日本酒を飲んだと云う。この場は久保
木さんに支払ってもらい、店を出る。
 やはり香港は暖かい。夜の繁華街は大陸の夜とは全く異なる。実に華やかだ。私なりに
感じることは今日一日が何であったか、明日はどんな町か?など旅情を求めるとすれば中
国だ。今のいやなことを忘れたい。そして、明日何がおきるだろうと、明日に希望をかけ
たい人々が集まって来るのが香港なのかも知れない。現実は厳しいが、そんな中でも互い
に信じ合える者同士が力を合わせて生きて行く町、一つかみの土地を手にして強(シタタ)か
に生き続ける民衆こそが香港のもつ力、魅力なのだろう。
富も貧しさも、生きるも死するも自由な土地、諸国が利権と国益の追求のみに明け暮れた
歴史の、象徴的な土地、香港の風景は私にはどうしても仮初めの栄華に見えてならない。
こんな事を心に描きながら宿舎大和に戻る。早速彼に立て替えてもらった金額を日本円で
支払う。
 それよりも、驚いたのは、小生が出発前に久保木さんに買ってもらった帰路の航空券を
何とここに置き忘れていたことである。「後藤さん、飛行機の搭乗券」と云って金庫から
出してくれた。…私が「えっ、どこにありましたか」と尋ねると、なんと護美箱に入って
いたとのこと。学生や若い人達は使用済みの航空券を皆護美箱へポイと捨てていくのだそ
うだ。久保木さんはその時も又誰かが捨てて行ったなと思って拾って見たら、タイ航空の
チケット。あれと思って中身を調べて見て驚いた。後藤さんの航空券である。護美箱にに
捨てた人は台湾人の「リー」さん。中国旅行案内の本を見ていたら、これが挟まっていた
と云う。空っぽの券と思ってポイと捨てたらしい。何と冷や汗の出る思いだった。久保木
さんには本当に申し訳ない。感謝感謝である。「有難うございます。本当にお騒がせしま
した」と頭を下げて拝受。彼とまた話、そのご一浴して歯磨き、ベッドに横になる。休ん
でいて思い出せば、今日は私の誕生日であった。明日からは63歳か……。

                

  つづく

   *絵 Y.K

62

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記16(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月11日(木)17時26分1秒
返信・引用 編集済
 
第17日目 鄭州 → 広州


9月26日(晴)気温28℃
             

 車中の夜明け。仰臥で見る火車の天井は青白い光が絶え間なく薄暗い蔭を走らせている。
軽快なレールの響き、トン・トン、トコ・トコ、トン・トン、ゴーオー、トントン……。
軽く車輌が揺れ続ける。少々早めにと思って鞄を開きポリエチレン袋から歯磨き用具とタ
オル、ホテルの小さな石鹸を持って、鉄梯(テツバシゴ)をつたわって通路へ。連結部にある
洗面所で洗面、歯磨きをする。朝食の準備か、車内を係り員が行き交う。洗面用具を自席
に置き夜明けの風景を補助席から眺める。まだほとんどは眠りの中。全部の窓ガラスがぴ
しゃりと降りている。青白い蛍光灯2、3本が点いているだけ。少し眺めているだけでも
外はどんどん明るくなる。其の内あちらから、こちらからと男達が補助席に座って煙草を
出しライターで火をつけスパスパ始める。そして痰を吐き飛ばす。これをしない男性はほ
とんどいない。つまり、90%以上が気管か気管支に炎症を起こしているのだろう。このこ
とは中国男性の健康管理の上で重要な問題となるだろう。少なくとも煙草を止めるかマス
クの使用を考えなくてはなるまい。朝食の予約を取りに係り員が廻ってくる。注文する。
火車は湖北省に入っている様子である。まもなく岳陽(ガクヨウ)だ。朝食が配達される。
今回の旅先で食してきたものと同じような献立である。特にご飯がバラバラでキャベツが
混じっている。半分はごみになってしまった。
 8:45列車は岳陽駅に着く。大きな駅である。ここでは弁当売りがホームを窓から窓へ
と声をあげて通る。車内の人々は窓から身を乗り出して買っている。ホームに降りて太極
拳をしている乗客もいる。小生電車のデッキからホームの人々をスケッチする。やがてホ
ームのベルが鳴った。中国語で何やらアナウンス。しばらくして、ガッタン、グゥーガッ
タンと火車が動き出した。自席に戻ると中医共の彼が風邪の具合を尋ねた。「サンキュー。
とても良くなりました。謝謝」彼に礼を云う。

 京広線最後の火車の旅もいよいよ今日で終わりだ。昼頃に長沙(チョウサ)。3時頃衡陽(コウヨ
ウ)を過ぎた頃から中医共の彼はバッグを降ろし荷物を整理しだした。列車は、4時頃韶関
(ショウカン)に着いた。彼と「お元気で」と握手し礼を述べて別れた。小生窓からホームを見
たがもう彼の姿は見えなかった。列車は再び発車。経過時間を読み取り、やはり広州で一
泊することを予定する。

        
         韶関→広州 車窓の景色

 広州省に入ると外の景色はみるみる変わり緑が多く水田が続く。そして農業で働く人民
の生活も又異なる。主役が水牛に変わり、沼や池が多く、建物が白に変わった。しっくい
壁の農家がほとんどである。家の植え込みにも芭蕉の木が多くなる。日も西に傾く頃、愈
々終着駅の広州である。小生も鞄や手提げ袋に荷物を入れ、降車の客についてホームに降
りた。久し振りの歩行である。何だか身体がぐっと軽くなった感じである。階段を下り、
地下道を抜け降車出口に向かう長い通路の両側は鉄格子に囲まれている。構内には3箇所
出口があるが、どこも係り員の姿はない。切符を持ったまま押し出された。例によって駅
前の流花賓館に入る。正面右側の綜合受付にて初めに宿泊した時の領収書を見せた。そし
てパスポートを出し「一泊」と筆談で示すと宿泊申請用紙を出してくれた。記入し終了。
部屋はF5と決まる。小生ここで4千円を百元で受けろと交渉し兌換券を受け取る。前回よ
り日本円が高くなっているのである。
 エレベーターにて5階のフロントにカードを渡し部屋に案内してもらう。行きと同じく
ツインの広い部屋である。窓からの展望は眼下に広州駅を全部見下ろせるパノラマ風景で
ある。先ず夕食を取りにF1に行く。食堂は2箇所あるが、宿泊者専用の食堂にした。焼き
飯、蟹入り野菜とイカ、クラゲのスープにビール1本を頼んで食した。部屋に戻ると早速
風呂。久し振りに旅の汗を流した。洗濯も済ませ直ぐに干した。水滴が落ちなくなってか
らハンガーにかけ窓際に吊した。日記やスケッチブック、筆記具等の整理、通関や国境越
えのための下準備をして、残っている現金、元・ドル・円それぞれ紙に書きとめる。何か
土産物をと思いホテルの一階ロビーに見に行く。何を見ても買って帰りたくなる様な物が
ない。酒等は重いし、薬は漢方藥、ジュースとか、どこにでもあるような菓子類ではつま
らない。写真機、電算機、ラジカセ、これらは私が今ここに持っているマイコン型電算機
より遙かに低質だ。たまたま横にいた中国人が私の電算機を見て「売ってくれないか」と
云ってきた。「No」と答えると「お前は何者だ」と云う。「ペインター」と云うと頭を
かしげている。こんな奇妙な会話だけで、結局何も買わずに部屋に戻った。
 湯冷めしてはと、最後の中国での一夜を部屋で過ごすことにした。TVも見ずいろいろ
の過ぎし日を思いながら床に入る。部屋の空気も来た時と異なる。火車とともに秋風を一
度に運んできたようだ。寒くなり布団を出して掛けた。最後の一夜は涼しい、乾いた空気
で喉がまたヒリヒリする。ビロードの黒いカーテンの隙間からチラチラと星の光が見えて
いたが間もなく夢の奧に消えて行った。この夜は満天の星空を飛び歩く自分の姿を見るこ
とができた
  つづく

   *画像 万理久利



          
           京広線「英徳」ホーム。韶関と広州站の間に位置する。(後藤孝作)

56

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記15(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月11日(木)17時00分6秒
返信・引用
 
第16日目 鄭州 → 広州 車中泊



9月25日(晴 夜一時雨)気温27℃

 6:50起床、洗面、歯磨き、洗濯物の取り込み。下着は整理してビニール袋に、アロハは
そのまま直ぐ着る。直ちにフロントに鍵を預けてエレベーターにてF1の食堂に行く。
7時からの朝食準備で忙しそう。一番奥の白布を掛けたテーブルにやっと料理が並べられ
た。気の早い客は出されたものを直ぐに持って行く。小生も出て来た料理を見て、これと、
あれ、直ぐに決めて紙幣を掴んだまま差し出す。係り員は直ぐに計算して合計金額を取り
お釣りも入れてくれる。万頭を2個別に買った。お粥と肉類と野菜を必要最小限取り食べ
ればもう充分だ。食堂の青年ともお別れ。「今日でお別れ」と書くと「再見、再見」と言
って握手の手を差し出す。直ぐ部屋に戻り荷物の整理をし再点検を終えると下に降りて鍵
を返した。その時初日に支払った金額の2分を返してくれた。「サンキュー」。フロント
の女性達に引き留められているところに王衛華さんがやって来た。「何のお役にも立てな
くて…」としきりに申し分けないといった様子。
「貴女も元気で頑張ってくださいね。日本語を話せる人が一人でも居たことは嬉しいです
よ。…日本に帰ったらきっとお便りしますよ。…皆さん元気でさようなら」。

 二七賓館を出発。直ちに鄭州站(駅)に向かう。二七記念塔の方向から沢山の自転車通
勤者が走ってくる。何しろ歩道は人が動かない、いや、のろい。自慢ではないが、日本で
の小生の歩調はここの自転車と同じ早さだ。私は車道に出ていちもくさんに進んだ。駅西
端から中央にかけて人混みの中、改札口を探す。売店の女性に尋ね、指差す方向へ歩いて
行くと列車番号と行き先票が下がって
いた。一列に並んで待つ人々の姿もある。小生だいたいの位置がわかったので駅舎を見学。
出発10分前になったので先ほどの場所に戻るともう誰一人として待つ人の姿はなかった。
入り口にいた女性職員に切符を見せて改札を通る。地下道を抜け奧の昇り階段からホーム
へ。ほとんどの人が乗車していた。

 243列車の2号車にて票を渡し、カードを1枚受け取り、14番を探すとまた天場(寝
台車最上階)だった。このブロックは全員男性だ。荷物を最上階へ。ここは少し体を横に
しないと腰がキツイ。なるべく荷物を天井のカーブに添って奧の方に置き、列車の天井中
心部に寄せて体を正座した状態にすると良さそうである。やがて列車は出発進行。前回来
たときと違い猛暑ではない。暫くそのまま横になっていると、昼食の弁当を売りに職員が
走り回る音がする。小生ははあまり空腹でもない。一通り弁当を配り終わった帰りの職員
を捕まえて売れ残った弁当を一つ買う。私の向かいの同じ天井席の乗客の男性に、「お隣
同士宜しく」と筆談で示すと、ニコニコと笑って応えた。その後彼は少し考えてから、万
年筆を取り出して手元の紙に筆談して来た。「你、貴方は何國人か」。
私が漢字で「日本国、東京人」と答えると次ぎに「何処から来て、何処へ去るのか」とま
た聞いてくる。
「日本国、東京、成田→香港→広州→鄭州→南陽→鄭州→広州→香港→東京、成田」と書
くと、彼は「遠い旅…ミンバイ…」と云った。私が「キャン ユー スピーク イングリ
ッシュ」と問うと、
「ブース。…ハァー」(できません)。
「ミンバイ、じゃあこれでやろう」と、ボールペンを持って彼に示すと、彼は頭をコック
リさせ納得した。
 この最上階から下の通路を見下ろしながら、一団の男連れを見ている。この連中は猛烈
な体格で、首が胴体にのめり込んでいて、山のような大男達だ。顔は丸くてつやつや、そ
してでかい。胴周り2㍍もあろうか。焦げ茶の上衣に乗馬ズボン、かなり高級なブーツ、
頭髪は少々、白い羊の皮製の茶碗の様な小さな帽子を載せている。肌の色は彼が持ってい
る鞄色(薄茶)だ。其の中の対面で話し合っている二人は兄弟の様である。その脇に立つ
若者は髪は栗色の金髪。目は青く顔は細面の面長だ。西域の少数民族であろうが、大きな
体格の男達の方は「人目」で寧夏回族(ネイカカイゾク)とわかった。見蕩れていると、先ほどの
上階仲間のコックリ氏が筆談で私にこう教えてくれた。「彼等は羊の乳を飲み、肉は食べ
ない少数民族である」と云う。私が「寧夏回族」と書くと彼は「テテ、テラー」と小さく
云った。
                  寧夏回族を描いた中国切手
         


小生、スケッチブックを持って下の通路に降りる。彼の大男の近くの補助席に座りスケッ
チをしていると、この男が私のスケッチブックを掴み取り、1枚1枚開いて見始めた。其
の内、彼の弟らしい男を立たせて私にその席を勧めてくれた。彼が正面からの自分を描い
てくれと希望しているように見えたので、別の大きなブックに彼を描いた。もう一人の立
たされた弟と思われる男の似顔絵も描く。二枚の絵を渡すと、小さなバナナを房ごと手づ
かみでくれたが、鄭重にお断りした。
 再び自席に戻り横になると、コックリ氏が自分のリュックサックの物入れから小瓶の薬
の様なものを差し出して「貴方は風邪をひいている。この薬を飲みなさい」と云う。小瓶
のラベルを見ると「漢法風邪藥」と記されている。1回4粒、1日3回とあった。早速水
筒の水を含み4粒のむ。小生名刺を出し「感謝」と書いて彼に渡す。すると彼がまたリュ
ックから紺地表紙の免許証の様な証明書と辞令の様な書類を示し、筆談で書いてくれた。
彼は中医共の医者で北京の大学医師であったが、命令で広東省韶関(ショウカン)に赴任すると
ころの様である。私はそれは慶賀祝慶喜なことだと喜んだ。「国家発展、頑張宿願祈」と
書く。朋友、中日、朋友、平和友好と彼の方から握手を求めてきた。共に固い握手をした。
その後彼は赴任先の住所を記してくれた。
 薬が効いてきたのか、眠けを感じ横になって休む。数時間寝ただろうか、車内食販売の
声が聞こえてきたが小生は食べなかった。午後から車窓からの景色をスケッチする。その
後、もう見納めとなる景色のスナップ撮影をする。湖北省から湖南省にかけての運河の流
れにゆっくりと浸ることが出来て楽しい。
夕方になり、夕食の予約を取りに廻ってきた。小生が迷って居る間に次の車輌に行ってし
まった。やがて箱車に予約をもらった乗客の弁当を詰めて配達を開始。再び戻ってきたと
きに残っている弁当を購入し、補助席にて済ませた。

 連江口の夕陽は実に心にしみる風景である。窓を開けて風景に浸っていると益々風邪が
悪くなる。ここらで切り上げて、天場の寝室にて藥を飲みやすむ。中医共の若い青年医師
も横になってやすむ。もう車内放送の音楽も消えた。コトン コトン、コトン コトン.…
やがてこのレールの音も聞こえなくなった。……

  つづく

       
             T101次 車内販売
           

   *画像 万理久利

56

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記14(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 6月11日(木)16時58分30秒
返信・引用
  中国縦断4300粁単独自由旅行記14(T.Goto著)

 第15日目  ―  鄭州 ―



9月24日(晴 夜一時雨)気温27℃

 昨夜は鼻が詰まり二度程起きてうがいをした。風邪ぎみだったのが更に悪くなり喉が痛
む。6:00起床。歯磨き、洗面、髭剃り後、洗濯したアロハを着てスケッチブックと色鉛筆
を持ってホテル玄関先に出る。時々パラパラと時雨。二七賓館玄関周辺を数枚スケッチし
彩色。二七記念塔は複雑な形をした建物だ。
スケッチを終えるとホテルの食堂に行った。油で揚げた湯葉の様な物、野菜と豆が入った
煮物、万頭2個、粥一杯を食べて部屋に戻る。部屋掃除をしていた客室係り男女職員をス
ケッチ。この後、ホテル内散歩をしているときに別棟で見つけた美人スタッフをスケッチ
する。彼女を見て直ぐに「スケッチさせてください」と云うと了解してくれた。彼女がポ
ーズを取り始める。「普段の姿勢で肩の力を抜いて」とジェスチャーで伝える。手の位置
や方の高さ等、手直しをして素描、色彩。彼女に一枚角度を変えて描いて渡す。記名して
もらう。
 部屋に戻り荷物を整理して、スケッチブック(小)一冊と地図、パスポート、日本札4
千円を入れたビニール袋を持って二七賓館を出る。二七記念塔を一周して、この中央を走
る二七路を直進する。約5百m程歩くと、日本の古い城の内堀に相等する内堀河に架かる
石橋があった。ここで一枚スケッチ。スナップ一枚撮る。この辺りのポプラ並木は幹の太
さ30㎝はある。我々の兵士時代は5㎝直径程度であった。珪素(ケイソ)土壌の大陸の黄土で
は植物は育ちが悪いと云われているが、42年の歳月は其の昔を偲ぶことが出来る。幅50m
もあろう立派な道路は真っ直ぐ伸びている。さらに直進すること6百m、左側に大きい公
園が現れた。兌換銀行を探しながら写眞を撮り、さらに直進すると文化路となり、鄭州大
学、河南大学正門前から、再び散歩しながら同じ路を戻った。雨量が少ないのか、それと
も日照りが多かったためかはわからないが、歩道はパカパカである。5,6人程度が組に
なって歩道の掃き掃除をしているが、通りの向かい側は砂塵で見通しが悪い。ハンカチを
鼻に当て、急ぎ足で通過する。駅前近くの裏通りを見ながらこの日最後のスケッチをして
ホテルに戻った。7:30夕食を食べにまた外に出る。帰宿後入浴、歯磨きをして休む。

  つづく



     二七記念塔                    河南大学正門
  

*画像 α編集部

56

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記13(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 5月10日(日)09時57分49秒
返信・引用
 
 第14日目  ―  南陽 ―




9月23日(晴)気温28℃
        
            南陽を去る朝 ホテル前で  (by Goto)


 朝6:00起床。洗面、歯磨き。7:00食堂へ。朝食はトマト、青豆、赤カブ、落花生と唐辛
子と鶏肉の炒め物、卵焼きの様な物、粥、万頭2。万頭1個を持ち帰る。鞄を整理し詰め
替え、住所録をスケッチブックに貼り付けた後、電話でフロントに精算を依頼。 7:30頃
昨日お世話になった柳さんがお見えになった。昨日の約束通り日本円4千円と中国元百元
と交換。もう一度フロントに精算の催促。やっと計算書が来た。一泊百元とのことで二日
分計二百元支払う。横にいた柳さんが汽車駅(バス停)まで自転車で同行してくれると云
う。息子さんが仕事で今出られないので柳さんがホテルから駅までついてきてくれること
になったようだ。お世話になったホテルの人達にお別れの挨拶をし、柳さんと一緒に自転
車で出発した。

 南陽火車站を過ぎ、約1㎞程進んで左側の直快汽車発車站に到着。大勢の客が待合室に
居た。やがて女性車掌が現れた。そこで柳さんの息子さんが一足早く駅に来て、汽車の切
符まで買ってくれていたことを知る。席は窓のすぐ脇の座席を選んでくれていた。私の鞄
を持ち「運転手や車掌には、道中宜しくと頼んでありあます。何かあったら彼等に云って
ください」と云った。そして女車掌を紹介した。鄭州のホテルまで送るようにも伝えてあ
るという。いよいよバスの出発時間だ。柳親子は私の座席の窓の外で最後まで手を振って
くれた。

 バスは一路?州に向かって出発。はじめ南陽市街地を大回りで半周し、西橋を渡り白河
を後に進む。初めに泊めて貰ったおばさんの宿を通過、一路南陽路を北上し博望方向に右
折し方城へ。安保、葉県、蜿蜓、と続くこの国道はポプラ並木の立派な道路で、今頃複線
工事の真っ最中である。所によっては、沢山の車を止めて平気で工事をしているところな
んぞは中国ならではである。走行が遅れた分、車は追い越しごっこをする。この辺りは河
南随一の農業地帯である。幹線道路に沢山の収穫穀物が散置してある。この穀物の上を次
々と走る車がタイヤで轢いていく。そして夕方太陽が西に落ちる頃、大きな熊手でかき集
め、馬車や牛車に積み込み一度自分のところに持ち帰るのだ。街道筋の農家は近くの納屋
や自宅前の路上に山積みするようである。1週間程ほど同じ作業を繰り返した後、風のあ
る日に大きな篩で実と小枝を分けたり、トウモロコシの様なものは枯れ木と芯を抜いて実
だけにして袋詰めする様である。
 金色の河南の田園は地平線の遙か彼方まで秋色を帯び始めた。西に遠く横たわる臥牛連
山の山並みは遠く彼方に消えていく。遠方の樹木に囲まれた部落につながる一本の小径は
脇の用水路と並行し、ひたすらその部落へと続く。そして時には交差する道をつなぐ様に
小さな石橋が一つ二つと行儀良く並んで過ぎていく。希望を架ける未来、今移りゆく景色
の現在と、去り行く過去。短い時間に一つの歴史が作られて行く。過ぎし42年前と今見る
この景色、戦勝国となった彼等の思いが、いったい今何を本質的に求めているのか、そん
な事や今まで出会った中国人民の人となりや人情、風土と暮らしぶりを考える。心地良い
バスの振動と旅の緊張で時折襲ってくる睡魔。
 ふと気が付くと、葉県から襄城(ジョウジョウ)県あたりに来たらしい。そしてバスは家々の
屋根が接近して立ち並ぶ細い街道に入った。バスが進めなくなる程の混雑である。ここで
バスは一旦休憩し扉を開く。乗客が次々と下車。細長い町並みは身動きできなく乗客は一
時休憩となる。この町並みは許昌市襄城県襄城とある。私も下車し路道のスケッチと写真
を撮る。パウーパ、パ、お客さん乗車だよと云うクラクションが鳴った。客全員が乗車し
出発。
再び汽車は快速で追い抜き追い越しである。もう陽も西に大分傾いた。撮影の日照限界で
ある。バスの脇を驢馬の一群が夕方の混雑時に自動車と一体となって走って行く。スナッ
プを撮り許昌から新郷に入る。西平を抜け鄭州市内に入る隴海線(ロウカイセン)の交叉橋をくぐ
り、二七街を左折して火車站広場に到着した。
 ここ鄭州終点で全員下車。小生も一緒に降りようとしたら車掌と運転手が「もう少々満
々デー。そう云って私を乗せたままバスを走らせ、さらに」五百米西方の二七賓館前まで
運んでくれた。公共のバスが一人の日本人を乗せてホテル前まで連れてきてくれたのであ
る。運転手と車掌に厚く御礼を述べ握手をし別れた。下車してバスを見送ると二人手を振
ってくれた。

 正面玄関から入りF2フロントで宿泊手続きをする。もう顔を忘れたのか、先般の領収書
を提示する。OK、今度は二階である。75元、ツインである。
早速入室し、荷物を置いて食堂に入る。先般来の顔ぶれはもう朋友である。鶏の骨付き野
菜炒め、万頭、御飯を食べ、お茶を部屋で飲んでいるとノックの音がする。王衛華さんが
友人を一人連れてきた。
「お元気で再来。私とてもうれしい。日語研究の友人紹介する」と云って二人は椅子に腰
掛けた。スケッチの旅の話や南陽の風景等を報告がてら聞かせる。
「私とてもいそがしい。貴方にお力になれなくてとても残念」と云って帰っていった。多
分通訳が十分果たせなくて、という意味であろう。私は彼女に「住所。ファッチャー ネ
ーム アンド アドレス?」と云って国際飯店の便箋を出した。王さんは記入して私によ
こした。
「私、夫と共に仕事しています」
「そうですか。御主人は先生ですか?―― そうですか、日本語アナウンサーをしている
んですか。…中日友好の為頑張ってくださいとお伝えください」
こんな会話を約1時間程して彼女達は去った。
内からロックして、洗濯しながら入浴し旅行中の砂塵を洗い流した。ここは蚊取り線香は
不要である。この後夜遅くまでスケッチや日記の整理、鞄の整理をし歯を磨きやすむ。外
では雨が降っていた。


  つづく
              
              
         南陽→鄭州バス路線(by Goto>

48

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記12(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 5月10日(日)09時55分48秒
返信・引用
 
 一人訊ねてきたときに言っていたとおり、戦後中国に残ることを選んだという彼の父親
 (中国名:柳清泉)が朝早くG氏の部屋にやってきた。互いの戦争体験談を語り合った
 後、午後から柳氏が用意してくれた自転車で二人で戦友の慰霊に向かった。
 日本から持参した線香の香りの中、お米を川に播き、お酒を大地に染み込ませ、静かに
 並んでお経を唱える。戦争を体験しその後それぞれの時と場所で生きてきた二人の共通
 の思いが広い中国の中、ここ南陽の地に引き合わせてくれたのだろう。




 第13日目  ―  南陽 ―




9月22日(晴)気温30℃

 朝6:00起床。洗面、歯磨き。香港からホテル用に持参したゴムサンダルに、アロハ、
ブルーの半ズボンという姿で食堂へ。今日は珍しく牛乳らしきものが出ている。「牛」と
いう字があり、哺乳という漢字も入っているので、炊事係りの元気の良い青年に指で角の
恰好をして見せると「テイラ、テイラー」と返事をした。OK。牛乳と万頭、野菜炒めを
取る。正しく牛乳であるがお茶碗についである。やや甘みがあり、これはいけると思った。
野菜炒めはインゲン豆とナス、トマトを丸ごと炒めてある。終わりにドラム缶の半切り鍋
に満々と溢れていたお粥を頂き部屋に戻る。

 少しするとドアにノックの音。「どうぞ」と云うなり扉が開き「ようこそ中国においで
下さいました。昨夜は私の息子がお邪魔しました」とゆっくりした日本語で挨拶をしてき
た老人がいる。
「まあお掛け下さい」。老人は二の間付の部屋で腰を下ろして話し始めた。
「あなたの旅行先は? いやそんなことより…、私は42年前にこの南陽で終戦を迎えまし
てね」と老人。「私は12軍直轄の軍通信部隊でして、ここの臥龍崗(ガリュウコウ)から南西の
老河口作戦が最後でした。この南陽の脇を流れる白河の渡河架線(トカカセン)が大変でしたが、
水が綺麗で河の底まで石が見えて内地の渓流の様でした。いい眺めでした」と私が云うと、
「そうでしたか。私は東京の隣村、神奈川県相模原の農家でしてね。当時は兄弟が多い農
家は学校にも行けず食べることが大変でした。私は次男でしたので若い内に満州に来まし
た。そして満州で兵隊検査。不合格で生活できなかったので軍属に志願して偕行社に入り
ました。そして戦争が拡大する度に移動しました。中国に初めて来た所は山東省済南にも
居ました」
「そうですか、私達の隊は済南(サイナン)に居ましたよ」と私。
「電信十聯隊ですか、そう云えばその部隊へ将校服、鞄(図嚢)、肩章等を納めたことが
ありますよ」
「ヘーそうだったんですか。本当に懐かしいな…。本当に不思議な縁ですな」と私。
 老人は涙を落とした。内地を離れて50年。一度も帰って居ないという。
「3~4年程前にここに泊まった日本人に息子が会え会えと云うので会ってみましたが、
日本人ではない。帰ってから、あんな日本人はかつて一人も居なかったと息子に云ったこ
とがあります。礼儀も言葉も全部想像のつかぬ日本人でした。貴方に会えて良かった。良
く一人で旅をなさりおいででしたな…。ゆったりした貴方の日本語は正しく帝国軍人の言
葉であり、日本語です。そして鄭州で云われた様にここでも貴方の様な年配者の日本人で
紳士は、開館以来はじめてであると申している様ですよ」
「いやそうでなくて、ただ言葉の通じない日本人で知れ渡っているのでしょう」と私は答
えると、どうして彼が大陸に残ったのかと聞いた。彼の話は劇的で辛いものだった。

 彼は終戦当時過労と無理がたたり病気となった。病名が判明しない病で陸軍病院に入院
中であったが、軍人の傷病者が増加したため軍属は中国軍国民党の病院に移された。そし
てここも軍人の増加を理由に個人の医者に廻された。この民間中国人病院で不眠不休で護
ってくれた看護婦のお蔭で、九死に一生を得たと云う。そしてまもなく彼はその看護師と
結ばれた。直ぐに女の子が生まれる。この年、軍人軍属は先般の取り決めによって年末ま
でに帰国出来ることになった。考えた末、妻とも相談して仲人になってくれた彼女の親類
で、後に河南省第一戦区司令官となった[チン]さんに会うため二人で挨拶に行った。こ
のときチン氏には大変世話になったが、今回彼女と縁を切って離別して自分は日本に帰国
すると言ったそうだ。しばらくして、仲人であるそのチン氏に「日本人であることは結婚
時から判っている。日本が戦勝国のときに来て負けたらさっさと帰るのか。両国の架け橋
になろうとなぜしない。日本は大変だぞ、生きて行く自信はあるのか」と言われ、彼はこ
の言葉にまいった。夫婦で顔を見つめ合い涙に暮れたという。そして残留を決意してから
というもの、彼は中国の建国に努力をした。火力発電庁や汽車製造等で優秀な成績を納め、
人民の評価を得た。おかげで現在の年金は減額無しの100%給付を受けているという。当時
の偕行社の職員の30%が中国に残留した。だが戦争でその70%が死亡、あとは殆どが傷病者。
彼も同じく病気入院したが現在はいたって健康だと云う。親友の一人は半身不具で子供を
作れない体になりそのご妻と離婚、酒におぼれてアル中になり昨年自殺したとのことであ
る。

 話し終わった後、彼は私に頼みたいことがあると云う。どんなことですかと尋ねると、
「私は貴方が見た通り、今は何の心配もなく楽しく暮らしています。内地の相模原に私の
兄が生きて居ると思います。日本を出て来た時、彼が住んでいた住所もここに記入してあ
ります。私は何十年も日本語は使っていません。手紙も良く書けません。ですので日本に
お帰りになったら、貴方に様子を見に行っていただき私に便りを頂けませんでしょうか」
「いいですとも。必ずお約束しますよ」
 こういう遣り取りのあと、私は彼から住所と名前を記したメモを受け取った。
「もう12時を廻りましたから、お昼を食べた後、このあたりをご案内しましょう。貴方の
食事が終わる頃、私はホテルの入り口でお待ちしています」と云って彼は部屋を出た。私
は食堂に行き餃子と豚スープ、粥を食べると部屋にもどり、スケッチ道具の袋を持って外
に出た。

 かの老人はホテル従業員の自転車を用意して待っていてくれた。出発前に試乗しようと
したが、私の又下の長さが不足でクランクまで足が届かない。別の自転車を持って来てく
れたがこれはもっと届かない。老人は次ぎに女性用の赤いサドルカバーの付いた自転車を
持って来た。これなら何とかやっと足先だけは届くので、これをお借りした。老人が走り
だした。その後について私も出発しようとしたがすぐに転倒。老人が振り返り「自転車は
駄目なのですか?」と心配そうに尋ねるので「何、大丈夫ですよ」と云いながら体勢を整
えて一気に飛び出した。二人の乗った自転車は大通りへ。「右側通行ですから」と老人の
声に従って進む。路上を走る他の自転車が30㎝程の近くまで接近してくる。右からも左か
らも自動車が自転車の車輪と接触するぎりぎりまで寄ってくる。後ろからはトラックやバ
スが接近してくる。漕いでいて、気が気でない。それでも抜く所は思い切って抜き出した。
空間を見つけてはゆっくりその先の景色を眺めながら白河に向かう。

              

 西橋の中程に自転車を止め跨いだまま水面を見つめる。ドロンとした水面からは気泡が
出ている。老人は河の上流に製紙工場が出来てからは全く水が流れなくなり河は死んでし
まったと云う。河底には大量のヘドロが埋まっているのだろう。わずかに脇から別の流れ
が出来て、ここにだけは魚が来るという。我々二人は対岸の岸辺に降りた。そこで内地か
ら持参した白米、日本酒、線香を河辺の地面に手向け、河面に三度のお辞儀をし、読経を
はじめた。案内してくれた老人、柳清泉(日本名:清水竹治郎)さんも私の後方から同じ
様に頭を下げていた。
 私の心の儀式に使用したお米を見て、柳さんは鼻を押しつけ「ああこれは日本のお米で
すか」と目をつむって懐かしい日本を思っている。……「お酒も、日本からですね」目を
細めて香りを聞いている。一つまみの米のほんの数粒を散華の読経と共に播き、酒も一口
だけを大地に落として残り全部を柳さんの手に渡した。「お線香も内地のものですか。…
昔内地の相模原の家でこの香りは確かに聞きましたよ」と涙を落とした。この白河の河原
の、42年前とは似ても似つかぬ変貌ぶりは実に時の流れを物語っている。そして柳さんが
「人間、死期が近づくと生まれ故郷の土地に自然と戻りたくなるそうですね…」と私に云
う。私はすぐ満州の孤児を思った。柳さんの方を見ると涙が光っていた。……

 止めてある自転車のサドルの上に大きいスケッチブックを載せて、南陽の町側の対岸を
二枚程スケッチした。白河に架かる橋には東橋と西橋がある。ここは西橋だ。その橋の上
からは、立ち止まって私達を見つめる人々がたくさんいた。やがて河岸に大きなトラック
が降りてきた。目前を窺うように何度も往復し、運転席から何やら大声で話しかけてくる。
柳さんが答えている。彼に「何事か」と尋ねると何をしているのかと聞かれたと云う。
「それで」と聞くとスケッチをしている日本の客だと答えたら、絵を描いているのか…と
の反応だったらしい。本当かどうか確かめに来たようだ。あのトラックは軍隊のドラック
だそうで、通報で来たのだろうか。スケッチを終えて私達はパカパカに乾ききった黄土の
河川敷を自転車を押しながら道路に出た。柳さんはひらりと自転車に飛び乗り橋を渡りは
じめた。其の後を追って出ようとした所へ大型トラックが突っ込んできた。「パー、ペー
パッパ」、大きな警笛を出すこの車を見送り、其の後についた。自分のすぐ後に私がつい
ていると思っていた柳さんが心配して、橋を渡り終わった地点を過ぎたところの路側で私
を待っていてくれた。私は減速しながら「すみません」と大声で御礼を云う。柳さんはす
ぐに私の脇についてくれた。
「次ぎは何処にしますか」
「旧市街を見たいですね」
「そうですか」
今度は柳さんの後ろにぴったりついて走る。かなりスピードを上げて広い道路をいくつも
越えた。途中柳さんは時々止まって説明してくれる。
「ここは市内の殆どの食料品が集まる自由市場です」
「何という名称ですか」
「ここは、え…聯合だったかな…」

 騒がしい町並みは両側から露店が張りだしていて、自転車に乗ったままで通り抜けは出
来ない。二人で店を覗きながら自転車を押してゆっくりと通り抜けた。この道を直進した
先には煉瓦造りや土瓦屋根の建物がたくさん残っていた。ここで自転車を止めて家並みや
路地裏をスケッチする。柳さんを脇に写真を1枚撮る。ここの名称はやはり聯合とのこと。
再び柳さんと一緒に裏道を自転車を押しながら歩いて表通りまで出る。ここでもスケッチ。
プラタナスやポプラの木が植えられている。雨が少ないのか、大きな葉は黄ばんでいて秋
が近いことを示していた。
 本通りを上り市内の大通りをいくつも横断し宿舎の国際飯店に到着した。ここで柳さん
に礼を述べ明日南陽を立つことをお伝えした。ここ南陽では日本のお金が交換できないと
のことで明日柳さんが中国元で百元持って来てくれることになった。再度厚く御礼を述べ
別れた。別れる前に兄さんの住所氏名を正しくもう一度書いて貰った。

 7時一階の食堂にて夕食。焼き飯とスープ、万頭、粥を食べた。今夜は大変蚊が多く足
元に寄ってくる。経理掛の女性のデスクの下には蚊取り線香がついていた。部屋に戻り日
記とスケッチブックの整理、歯磨き、入浴、洗濯をし浴槽上に干してやすむ。戦友の供養
を終えたためか、一度に疲れが出た。風邪気味のせいか喉が痛い。何度も起きてうがいを
する。

  つづく

              
         南陽を流れる白河(ハクガ)

*絵・写眞:編集部

48

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記11(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 5月10日(日)09時53分29秒
返信・引用
 
 次の朝、突然の珍客を南陽の一民家の主が貴重な卵三個に砂糖まで加えたお粥
 で日本からの珍客をもてなしてくれた。市内をスケッチしながらその民家で教
 えてもらった南陽国際飯店にチェックイン。その後再びスケッチにでかけた。
 その夜今度は著者自身がホテルの部屋に珍客を迎えることになる。
 戦後、日本に帰らず中国に残ることを選んだ帝国陸軍兵士の息子であった。




 第12日目  ―  南陽 ―

9月21日(晴)気温29.5℃

 薄暮の頃、目が覚める。昨夜のうち「トイレ」用のバケツは戻してしまったので、仕方
なく階段を降りて中庭でバケツを探したが見当たらない。庭に面した部屋には既に起きて
居る人もいるので、やむなく建物にもどり部屋よりさらに上階のおどり場に肥料が盛られ
ている場所をみつけ、ここで放尿。これで一安心。部屋のお水で洗面と歯磨き。早速中庭
に向かってスケッチ。静かな中国人民の家庭の朝である。中庭の水道栓のある流し場に次
々と洗面に歯磨きに人が現れる。そして子供の遊ぶ姿と其の周囲を走り廻って餌をついば
む鶏やアヒル達。何とも心の中に安らぎを伝えてくる。この図柄、恐ろしい程昔の生活だ
が、懐かしくもまた楽しい環境である。
 一度部屋に戻り、出発準備をしていると隣室の青年が入って来てここの一泊料金は如何
ほどかと聞いてくる。小生2元だと云うと、「ここから少し先に国際飯店がある、その方
が良いではないか」と云う。謝々と御礼を述べた。次ぎにその姐姐が入って来た。姐姐を
その場でスケッチしていると、今度は子連れの軍人さんの若奥さんも入って来た。子供を
ベッドに座らせたので、直ぐに男の子のスケッチを開始、大人しい男の子である。次に其
の若奥さんをスケッチしてあげると云ったが、「ブシン」駄目だと云う。何度か勧めるも
「ブシン」。姐姐のスケッチを再開すると「こんな顔ではない。もっと美しい顔だ」と云
い始める。そして描いた顔を指でこすって消しにかかる。小生手早くブックを取り戻した
が大変気の強い女である。そうこうする内、おばさんが昨夜注文した通りお粥をたっぷり
大丼に満たして持って来てくれた。皆をベッドから降ろして笑顔で前に差し出した。鶏卵
を3個も入れた粥である。さあ美味そうだと、一口したら何と甘いのである。それも「ガ
ッチリ」甘い砂糖が入っている。目をつむって「突撃!」と云いながら一気に口に入れた。
食べながら色々なことを考えた。取って置きのお砂糖を外国のお客様は喜ぶと思って、三
つも卵を入れそして砂糖をたっぷり利かせたのを作ってくれたのだと思った。終わって器
を持っておばさんの部屋へ。窓の外ではお勤めの人達が自転車で出勤して行く。御礼を述
べ、「少しだが」と云って1元出したが、どうしても受け取らない。御礼を何度も云って
荷物を背負いおばさんと握手をして別れた。本通りまで見送ってくれた。こちらも手を上
げて応えた。

 約30分直進すると道が十字路となり、ここをさらに直進。前方に何やら一団の馬か?だ
んだん近づくと、驢馬達の隊商の様である。隊列の手前で背負った鞄からカメラとスケッ
チブックを取り出して驢馬をスケッチ。よく見ると地面に横になって寝ている人間もいる。
驢馬は寝ている人を見ている様に、おとなしく下向きのまま、時々尻尾を左右に振る。廻
りにたかる蝿を払っているのだろう。2~3枚スケッチしている内、連中の中で気付いた
者が居る様で一人二人とスケッチしている前からのぞき込む。あまり人盛りが出来たので
中止。さらに前進する。秋口に入ったばかりの午前10時頃の気温は夏と余り違わない。汗
が噴き出し、たまに通るトラックが猛烈な砂塵を舞い上げて行く。ハンカチを鼻に当てて、
さらに前進する。大きな道路をいくつか通り抜け繁華街に入っていくと、後方から1台の
三輪タクが乗らないかと云って近づいてきた。小生はここでこの男に国際ホテルの場所を
聞いた。私の中国語で何度聞いても相手に通じない。紙に漢字で書いて渡す。何度も書き
直す。彼も筆談で来る。すると別の人が間に入り、その者が又漢字を書く。それを覗く人
がさらに集まる。みるみる人の山となる。自動車のクラクションがパーアーパーアーピャ
ーピャーと話し声も聞こえない。顔を上げて周囲を見れば大きなバスやトラックが連結し
て止まっている。私はこの男を三輪タクごと歩道に上げてもらい、筆談を続けたあげくや
っと結論が出た。御礼にその三輪車に乗ることになった。
早速この三輪車にて大通りをゆっくり見物しながら国際飯店に着いた。受付にて宿泊手続
きを済ませて部屋に鞄を納めると三輪タクにて市内見物に出発した。

              

 出発前に輪タクさんと話し合い先ず諸葛孔明の墓のある廟に向かった。この国際飯店の
門からポプラ並木の大通りを右に出た。直射光が強いので扇を開き頭上からの直射光をよ
けた。鉄板貼りの箱の中央に腰掛けが一つ、薄い座布団が1枚、足元にスケッチ袋を置い
て薄緑色のアロハ姿の自分を想像すると何とも恥ずかしい限りである。若しかしたら運転
している中国人は年配者ではなかろうか? 済まないとと思う気持ちを、私は外国の客で
あると云い聞かせる。静かな広々とした南陽の市街地をそよ風に吹かれながら、室内が見
えるお店や商店街の家並みを見て臥龍崗(ガリュウコウ)に到着した。

 強烈な日差しである。やってきた大通路が急に左へ曲がり廟を右にしながらさらに南西
に伸びている。道標には老河口と書いてある。廟の前は広場になっていて、右端に露店も
出ていた。お茶売り場で2つ買った。金額は二つで1分。彼にここでお茶をあげ休んでも
らい、小生だけ入場料五分を支払って奥に入る。孔明の人形が祭られてあり、中国人民が
お詣りに来ていた。やはりお賽銭はあげていた。お墓と云っても「碑」。
 この南陽市の地図は全然無いのに、ここの売店にのみあった。一部買う。一巡して外へ。
再び彼の車で今度は博物館へ。そして隣の物産展も。ここでは南陽玉、翡翠は「硬玉」と
のこと。この材料で加工された天馬、飛天は中々立派な手仕事で特に飛天は良い出来であ
った。価格も良い値である。

       
               臥龍崗の主役・諸葛亮

疲れて眠くなった彼にホテルに戻る様云うと快速に走ってくれ到着した。

 この南陽国際飯店では英語は「ブシン」(駄目)である。輪タクの彼にハウマッチ?と
云うと、彼は指を出して示した。7元と云う。小生6元にしろと云ったものの、この熱い
中をと思い、「サンキュー」「有難う」と彼の云う金額を支払った。彼はホテルの係りに
良かったなと云っている。ホテル側にすれば彼がお客を連れて来たのである。小生、側面
の入り口から入り二階の部屋に入った。お茶を飲み浴槽にお湯を入れ砂塵と汗を流し着衣
を洗濯し浴室に干す。ここの二階も工事中で、係りの女性も客室を専用に使っている。フ
ロントには何時も人が居ない。何度も部屋を探しやっと見つけた。夕食時間を聞くと7時
から7時半と云う。場所は一階の食堂だ。まもなく7時、早速ドアに鍵をしてF1に降りる。
天井の高い講堂のような造り、数十本の天井吊り下げ型扇風機がゆっくり廻っている。こ
こでも食券売り場は人盛り。小生は奧の白いクロスを掛けたテーブルの並んでいる所に腰
掛けた。そのまま待っていると、やがてお皿が置かれ大きな鍋から次々と料理を入れる。
そばから食券と交換する。小生、負けずにこれはと思う料理を何個か取り、最後に食券を
買わなかった万頭を手づかみした。袋から適当に紙幣を取り出し渡すと、お釣りをテーブ
ルにちゃんと載せてくれる。お米は 非常に悪く、ボロボロである。鶏は肉が少ししかつ
いていないが骨付きで味は良い。夕食をゆっくり頂く。食券や料理代金を受け取る中年女
性は静かな物云いの人で筆談でも親切に何度でも書いてくれる。他の客が全部いなくなっ
ても、じっと待っててくれて食事が終わるとお茶を入れてくれる。入り口の扉が閉められ
ると、私を案内して食堂調理室や機械室を案内してくれる。これがどういう意味か判らな
いが、次の日もそうであった。向こうの都合で料理を出すのが遅くなった時、サンキュー
と云って握手する為なのか? 香港で聞いた話では中国人は余程信用しないと調理場には
他人を入れないと云う。

 先ほど一浴したときはお湯がぬるかったので、帰室後再び入浴した。頭に石鹸をなでつ
けて洗い始めるとドアのノックの音、やむなくザットタオルで拭いて急いで扉を開くと、
ホテルの男性である。こちらの姿を見て「失礼」と云った様子で立ち去った。全身を洗っ
て流していると、又ドアにノック。再び急いで出ると先ほどの人である。部屋違いではな
さそうだ。「後でフロントに行く」といって風呂場に戻る。すっかり湯上がりし、新しい
下着をつけランニング姿で階下に行きフロント嬢に尋ねると前もってわかっていたかのよ
うに、早速電話をしていた。部屋に戻りしばらくすると、先ほどの男性がやってきた。彼
は自分の身分証明書を提示して「私の父は日本人である」と云う。筆談で「ミンバイ、そ
う云えば貴方は日本的だ」と筆談で返した。彼は笑っている。「ニイ(あなた)明天(明
日)の予定は? 出来たら父親と会ってくれるか?」とのことである。心良く了解。彼は
明天8時にここに来ると云って去った。私はお茶を頂き南陽でのTV放送を見たが面白く
ないので切った。
 何時の間にかホテルの計らいで蚊取り線香が点いていた風呂場に、小生が持参の蚊取り
線香を焚いた。やはり日本から持参したものの方が殺虫効果は良い。中国製は、蚊が平気
で飛び回っている。
歯を磨きやすむ。騒音だけのクーラーの音もすぐに聞こえなくなった。

つづく

*写眞:編集部

48

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記10(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 4月19日(日)15時01分37秒
返信・引用
 

   いよいよ著者にとって慰霊の地南陽にやってきました。テレビで流行の
   突撃宿泊を、やらせではなく、打合せも無く、南陽片田舎の民家で実行
   します。住民は日本からの客を興味津々かつ暖かく迎え入れてくれたよ
   うです。戦争を忘れて人と人とを繋げる「一宿一飯の恩義」の物語。



 第11日目  ― 鄭州→ 南陽 ―

9月20日(晴)気温29℃

              


 朝7:00起床。洗面、歯磨き。室内に干した洗濯物、下着が今少し乾ききっていない。
7:30の朝食前にこの二七賓館の玄関前のスケッチをする。食堂に行く。炊事の係りの若者
とはもう顔見知りとなった。「これとそれ」と指さ差しするだけで、直ぐに必要な分の料
理を取ってくれる。その場で少額の紙幣を手づかみのまま差し出すと、ちゃんと選んで手
のひらから取り、釣り銭の紙幣をのせてくれる。要するに、信用して任せられる事に意義
を感じる様に思った。つまりそれだけ信じられない者が多いのであろう。朝食時に大きな
万頭を二つ買って一つだけ食べてあとの一つを持参し綺麗なポリ袋に入れてバッグに詰め
た。荷物を整理し、持ち物袋に必要なものを入れ、世話になった係りの人とさようなら。
又帰路に宿泊を約束してホテルを出発する。

 南陽行直快汽車站(中国の汽車はバスを示す)に向かう。そしてあの小さな窓口から南
陽までの乗車券を求めた。27元支払い書いてくれた出発時間を見ると、12:06発である。
まだ時間があるので、あちこち市街地を見て歩く。ニコニコしたおばあさんが鉄道の本を
持って買ってくれと云っている。一冊もらう。6元もした。香港で中国交通時間票という
本を読んだとき、このおばあさんの事が書いてあった。おばあさんに其の話をすると、白
い髪のニコニコ顔。「元気で暮らしなさいよ」と云って別れた。11:30頃站待合所で並ん
で待つ。いよいよ乗車。窓脇の一つ内側の席である。
 定刻にバスは出発。隴海線(ロウカイセン)の架橋をくぐり西南に向かう。南陽路は国道だ。
新?を過ぎ許昌、ここから一部省道そして県道と南下する。先ず襄城(ジョウジョウ)、ここは
かつて我々の河南作戦の第一橋頭堡(キョウトウホ)の最前線であった。…バスは襄城市街を通り、
叶?(葉県)に入る。快速自動車は秋の収穫時期の幹線道路を調子良く突っ走る。そして
同じ様な快速車を追い抜く為猛烈な追い越しごっこがはじまる。そしてやたらピャーピャ
ーピピピャーと甲高い音色を発しながら追いつき追い越すのである。私からすれば警笛の
音はかなり彼等の言葉のアクセントに似ている。もう私には目が風景に取りつき砂塵など
も気にならない。やがて又村落らしい所を通過の際発見した看板からここは「保安」「保
安鎮」、次は「コーデンワン」、弯?いったい何を意味しているのかさっぱりかわからな
い。40分程走った地点で大きな河が見えてきた。これが白河である。もう日は西に落ちか
けている。橋を渡り日が落ちた頃、南陽市内に入って最初の地点で終点となり、ここで車
を降りた。あたりは真っ暗である。近くの灯を求めて行きここで寝るまねをして、寝る家
を求めているというパントマイムを演じると、直ぐ前の赤煉瓦の建物を教えてくれた。

 脇道から中庭に廻り込んで灯がもれている扉をノックした。何回かノックした後、扉を
開いて室内に入る。筆談で一泊したいと、「日本国東京から来た者、名前××」と書いた
紙とパスポートを見せた。了解してくれた。湯浴無し、トイレ無しと云う。お湯を洗面器
に一杯もらいたいと云うと了解してくれ、この建物の三階の部屋に案内してくれた。そし
て驚く程昔のアンペラの寝台、しかも四方に竹棒を立て、天蓋の様に白布地の蚊帳が吊っ
てある。アンペラになるとはと、この若いおばさんに云うと、少しして敷き布団と掛け布
団を持って来てくれ、また大きな薬缶と洗面器にお水をたっぷり持って来てくれた。12~
13才の男の子もマホービンにお湯を持って来てくれた。
 夕食は用意できないと云うので、やむなく硬くなったビスケットを食べて済ませた。私
が画家で、写生旅行に来たと云って泊めてもらったので、スケッチブックを開いて見せる。
この若い太ったおばさんは隣室の男性にさかんに説明している。この男性は気工广に勤務
の職員とか。そして同じ部屋から女性がやってくる。奥さんかもしれぬ。筆談で「細君か」
と聞くと「姐姐」と云う。姉さんであった。時ならぬ珍客に騒然となってきた。宿の太っ
ちょおばさんの甲高い珍客到来の宣伝で、子供を連れて部屋に入って来る。隣室の青年、
その姉さんも。其の内おばさんは大きな声を一段と大きく張り上げて皆を部屋から追い出
した。そして私に何か早口で云うので聞き返すと、私のボールペンをサット手に取り近く
の紙袋を手に取り書いた。「あなたは長旅をしているのだから、早く休め」と云う意味の
中国語を書いた。「ミンバイ、ミンバイ」私は有難うと云ってこのおばさんに握手を差し
出す。おばさんは顔を赤くして答えて帰った。

 ここは鄭州から約4百㎞程南である。まだまだ夏である。鞄から蚊取り線香と18#針金を
出して、寝台と寝台の四隅の竹棒を針金でくくり、洗濯物をつり下げる準備をした。タオ
ルで体の汗と砂塵を洗い落としサッパリしてからアロハ(ナイロン製)と肌着を日本から
持参した粉石鹸を少量投入して洗えばたちまち綺麗になる。やれやれ一息ついた、と云う
間もなく停電。真っ暗闇。しばらくしてもまだ闇。やむなく階段を降り、おばさんを訪ね
たが室内は空。又自分の部屋に戻ると、今度は風で扉が内側から閉まった時に錠が自然に
かかったのか、中に入れない。部屋から締め出しをくってしまった。下におりて外の暗闇
で呆然としているとローソクの灯が風に揺れながら階段を昇っていくのが見えた。その後
を追いかけてくと、どうやら私のところまで灯を持っていくところだったようだ。そして
おばさんは錠を開いてくれた。風の入る窓を閉めれば大丈夫だと云う。其の通りである。
そうして息子さんが熱いお湯をまた持って来てくれた。お茶を入れゆっくりやすむ。

つづく

          

40

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記9(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 4月12日(日)15時20分37秒
返信・引用
 
 第10日目   鄭州→ 開封


9月19日(早朝雨後曇り後晴)気温朝20℃昼30℃

         

 早朝の雨はやみ、朝霧が立ち込めていた3階のこの窓からは鄭州站方向から隴海線側ま
で展望が利く。7:00頃浴室内の洗面所で洗面、歯磨き、髭剃り。荷物を整理したり昨夜の
洗濯物を取り込む。ドアのノックで扉を開く。係りの女性が入って来て、お湯のマホービ
ンに熱湯を入れて行く。なぜか少し水の入ったバケツが置いてあったが、係員はそこにお
茶や冷えた湯を捨て、持ち出し別のバケツと取り替えて行く。彼女達に朝食の事を聞くと、
階下だと云う。一階の売店で地図を買うついでに食堂の場所を聞いた。
 入り口にはヒラヒラと赤い紐テープが沢山吊り下がっている。この暖簾をくぐり中に入
ると、講堂のような広大な食堂。食券売り場がありそこに一人の女が座して小箱を置き群
がる客に1枚1枚料金と交換している。客は、この食券を持ってテーブル上に並べてある
料理皿と交換している。私は料理の名称がわからないので、現物の前でこれとこれ、と指
さし そしてそこで現金を手渡す。これでもOKなのだ。多分外国人だからなのかも知れ
ない。何とこの大きな食堂の白い壁面には大きく、本日の料理長とそれぞれの料理人の名
前と階級のようなものが書かれている。そして現金を扱う者も偉い人の様である。客の態
度が悪いと食券を不買にする。省直属の役名も書いてある。
 昨夜このホテルに到着したとき、英語で私から質問された受付係の女達の一人といっし
ょに「助人を連れてきた」と云って部屋の係りの女性が来た。大きなキンキンした声で
「私、王衛華と云います。私日語研修学びました。日本語でお聞かせしてよいです」
「ああそう。それは助かった。まあ皆さんが皆さん達の中国語、漢字で紙に書いてくれれ
ば、それなりに判断出来るのであまり困りませんが、貴方達の方が困るのでしょう」。
私が日本語で極普通に云ったことが彼女にはまったくわからないのであった。大きな声が
一際小さくなり笑い声で繕うのが精一杯の様である。
こちらに来て必ず聞かれるのは、いずこから来たのかそして何の為に、何をしに、いつ帰
るかだ。本来なら旅行客に聞くことは失礼に当たる質問である。しかしこれが現実の中国
である。その意味を彼女達に書いて説明してやる。彼女達は一つ一つを聞くと納得する。
「若しあんたが旅でそう云われたらどう思うか?」皆理解する。続けて「私は若い青年の
頃、戦争で召集されて、この地にきた。これから行く先は皆かつての戦場である」。
すると王さん「私達忘れません。…でも今は友好中日」と云う。
「その通り。私だって忘れてはいけない所、国だ。いや忘れられないからこそ遠い日本か
ら自費で訪問してきたのだ。悪い事は何時になっても悪いので中国に来たことそのものは
悪いことに違いない。しかしながら私達の大部分は命令によって動員された者で、好きで
やって来た者ではない事と、我々の幹部は皆紳士で、中国の鉄道、通信、道路等の建設も
皆当時の兵士達が基礎を残して行った。終戦後も私達は一番先に帰国したかった。だが私
達は当時の政府から依頼されて丸一年残り通信網を中国政府に渡してから帰国したのであ
る。こうした歴史的な事実を貴方達は正しく知っておかねばならない」…
すると彼女達は「貴方は兵隊デス。でも良い人…日本人兵隊少し悪い人。でも貴方は良い
人」。
こうして何と部屋中に10人ほど女達が集まってしまったのである。
明日まで聯隊本部跡と開封の兵舎を探しにいくことにしてある。彼女達が職場に戻った
後、小生は支度をし、お昼を食堂で済ませ、水筒を持って写生バッグのみ持って市街に出
た。

 駅前広場を直進し8km程歩く。旧建物はほとんど壊され、写生の対象にはならない。
わずかに裏通りにかかる街道脇道を入ると古い赤煉瓦の三階建ての建物、曲がった所には
分厚い土塀、見たことのある風景を何度も往復する内に、不信に思われ二人の男に検問さ
れた。公安官の様な濃緑の制服に赤の襟章である。旧日本軍人、昔の司令部の跡を探しな
がらここに着たことを筆談で答えると、二人は「少し休んで行ってくれ」と云う。 角の
建物の二階で、私のパスポートを見て鄭重に握手を求めてきた。有り難くお茶を頂き地図
を見せてもらい説明を聞いた。二七賓館にも連絡を入れたようである。彼の説明では旧建
物はほとんど三年以内に取り壊し高層化するとのこと。区画整理もしているので、旧日本
軍当時の図面がないとわからないと云う。二人の内の一人の夏さんの話だと、今は大きい
建物を建築中とのこと。

 再び駅前に来た。省営汽車は1時間半に一本、やむなく個人車で鄭州と開封を往復する
しかないと云う。車がさかんに客呼びをしている。これに乗る往復運賃は60元、了解。別
の二人も同乗させて直ちに突っ走った。立派な幹線道路が出来て、両脇にはポプラ並木が
立ち並び、昔とはまったく変わった風景だ。農村は落花生、トウモロコシ、大豆、といっ
た実りの秋に入ったところで、金色の農地には家族連れの作業風景。道路に敷き詰めたト
ウモロコシの実を車という車が轢いて通る。
 約1時間程で開封に到着。約束した通り別の
客といっしょに下車したあと、南側2km近くを旧兵舎を探して歩いたが、まったくわから
ない。時間が過ぎるのみ。それでも30分は探した。帰路を決して開封を後にしたが、城内
の様子も、皆鄭州に右へならいという状況である。窓を開けて飛ばす車内は砂塵でシート
も砂でパカパカである。頭から浴びた砂でのどは痛み、痰が出て仕方ない。西に落ちる夕
陽は農家のある丘陵を茜色に染めて夕食の煙の様なもやが棚引いている。中国製のトラッ
クはクッションが悪く尻が痛い。運転している男も痰つばばかり窓から吐き飛ばす。
鄭州站前に到着。先に代金を払ってあるので、そのまま下車。途中で考えたが、明日は南
陽に行こうと決心した。省営汽車站にて調べた所、かつての戦場を走る長距離汽車(バス)
を発見、ここで参考に金額を尋ねる。安い。写眞を撮っておく。

 二七賓館に帰宿する。夕食はインゲン豆、骨付き鶏肉、炒、万頭、粥。部屋にて今日駅
近くの輸出品見本市で買ったビール1缶とヨーグルト1本を飲む。砂塵を流しに入浴。洗
濯して全部干す。歯を磨き、スケッチ作品に彩色。ここの女性に世話をかけたので2枚ほ
ど描いた裏に御礼の言葉を書いた。明日の予定を考えてやすむ。ここに来てから一度も静
かな日が無い。近くに遠距離バスのターミナルがあるためか、警笛の音が深夜でも響いて
くる。

つづく

黄河とともに栄え、洪水と兵火に翻弄された中国で最も古い都市「開封」

 

38

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記8(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 4月 7日(火)12時01分38秒
返信・引用
 
 第9日目 - 鄭州-



9月18日(晴)気温30℃

 薄暮の頃一度目が覚めたが、又寝入った。朝日の昇る頃、列車の中を声をあげて係り員
が通る。そして各階に寝ている席からは手を出して金を出している。朝食の予約だろうか。
8時近くに停車した駅で皆ホームに出て体操をしている。そして弁当を買っている者もが
大勢いる。群がって食物を買うのは彼等の生活の常識なのだろうか。そして、ジュースや
リンゴ、ナシ等も。私は一切生ものは口にせず弁当だけを買って食した。御飯に野菜と鶏
肉を炒めたものをかけただけだ。ポリスチロールのお弁当箱はまだ温かい。何と御飯たる
やボロボロ。一粒一粒になって食べにくい。これが中国人達の食物である。これから先何
処に行ってもこれより悪い事となる。食後、例の「キンチャン」にお湯を持って来てもら
い中国茶を入れてもらった。上から蓋をして時間をおくと茶葉が沈み上を飲む。軽いジャ
スミンの香りで日本の番茶の様でもある。
 しばらくすると、最も悪玉の親分とも思われる様相の中国青年と云うか、30代の体格の
がっしりした肌の色は黒光りで目付きのするどい口ひげの男、しきりと痰つばを吐く男が
筆談に乗ってきた。何と彼は西北、山西省、太原電視広播台勤務、こちらで云うTV局の
職員だと云う。そして名前と住所を書いて私にくれた。
 終着駅?州に到着。このTV職員は私に「こちらから地下道行くと左に出口有ります」
と云って握手をしてきた。「?州は治安が悪い、十分気を付けて旅の終了を祈る」と云い
残し男らしく別れた。彼はこれから乗り次ぎのため隣のホームへ移動だ。

 もうホームは暗くなり、駅前の人垣を分け近くの「商店聯合」と書かれたマーケットに
入った。そこの若い女性のいる靴店の人に「この近くにホテル有りますか。メイユー」と
聞くと彼女は二十七番街に有りますと云う。略図を書いてもらおうと紙とボールペンを出
すと概略を書いてくれた。ここを出てすぐ右へ、
  また戻り大きい道を右折、5百メートルほど進んで、暗い灯の町並みを懸命に走り抜け
た。やがて「二七賓館」と書かれたホテルに入る。工事中で入り口附近は資材が置かれた
ままになっている。ホテル周囲は鉄柵で囲まれている。
  二階に受け付けがあるというので取り敢えず二階の受付で二泊を申し込んだ。ここでも
筆談が早かったが、「部屋はありません」との断りばかりを云ってくる、最後に百元の部
屋ならあると云ってきた。確かに?州ではホテルはここだけである。

   百元でOKした。先方も了解。手続きが済むと部屋に案内された。2部屋付、風呂場
付だが古い部屋で、近く壊すようである。お湯は真っ赤な錆が出る湯で、それも1時間の
給湯で終わるという。大変な所だ。夕食も今日は終了とか。 やむなく部屋の女性に外で
「炒X」(*不明)を買って来てもらった。
  何と甘いのである。食べていたら気分が悪くなりお茶を飲んで風呂に入り洗濯して室内
に干した。もうこうなったら利用するだけ利用しようと考えて実行。窓からは吹奏楽団の
ラッパの音。まるで兵舎の様。

              
        鄭州駅

つづく

38

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記7(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 3月26日(木)21時44分11秒
返信・引用
   第8日目 広州→ 鄭州  車中泊  



9月17日(晴)気温31℃

          

 朝7:00起床。洗面、歯磨き。直ちにF1飯店にてオムレツの様なもの、粥、鶏肉炒を食
して売店にて地図を求め、其の足で駅正面の道を河に向かって直進。約4㎞ほど先は工事
中で先に行けない。休憩したさに展覧会場に入る。何と共産党のレーニンが亡命中に使用
していた食器とかピストル、日記等、当時の中国人民で親しかった人物との写眞が展示し
てあった。入場料2元。暑いので少しして又別の並木道を歩く。大汗と砂塵でもう見られ
た様相ではない。スケッチしたり撮影したりした。PM1:15?州(チヨンチヨウ)行きの列
車に間に合う様に再びホテル食堂にて焼飯を食べフロントにてチェックアウト。急ぎ足で
駅へ向かう。右側の方向が入り口だと聞いて行ってみたがそれらしきものが無い。再び中
央にいる係員に聞くと、この奥だと云う。そして「快走」と聞こえた。改札を抜け地下道
を進み止まっている列車を見ると、もう発車時刻である。「?州(チヨンチヨウ)」(鄭州)
行きとも書いてない。火車係りに聞いて、後ろ側の列車272号列車13号車に搭乗。

 もう満席であった。「15組」と小さな札のついた三段ベッド、つまり硬座(普通寝台)
である。ここの一番上だった。猛烈な暑さで特に最上階はひどい。扇風機がブンブン廻る。
こんな地獄列車に乗る彼等は立派なものだ。沢山の荷物が山の様に積み重ねられ座席の下
にもギューギュー押し込んである。唖然としていてもしかたがない。気をとりなおして最
上階へ鞄と袋の荷物、水筒を上げた。
 この我々の1ブロックの階下の連中は親類の様に親しいが、わけが良く分からない。…
其の中の二人の女は実に活発で、戦後すぐの闇屋の女親分という感じである。彼等は皆多
量のバナナを荷物に持っている所から、運び屋であったのかも知れない。だがこの女達は
実に旅慣れていた。私に「下に降りてきたら」と奇声を上げて呼ぶのである。お茶を飲め
とか、バナナはどうかといった具合だ。取り敢えず船に乗ればもろともと、荷物は最上階
だから心配ない、スケッチブックとカメラを持って通路の補助椅子に掛け外の風景を眺め
る。其の内彼女達もいろいろ私に話しかけてくるが、英語は「プツン(不通)」。中国語
もこちらの発音が悪いので通じない。やむなく漢字で[日本国 東京人]と書き、「リー
ベン、トンジン」「シュン」というと「ミンバイ(明白)、ミンバイ」と云いながら其の
内彼女達も文字で書いてくる。次から次へそこいらじゅうの紙をひっぱりだしては思って
いることを書き納得する。自分の名前や住所まで書いてくれた。

 この列車で、中段に席を取っていた元気の良い女性が私に風通しの良い中段に休みなさ
いと勧めてくれる。一番上階は暑いからと云う。その行為に「感謝」と書いて彼女に渡す
と「メーカンシー」(どうぞどうぞ、私にかまわずにという意味)と云って席を替わって
くれた。彼女は最上階ですやすや休んでいる。この人どこかで見たように思ったら、日本
のTVに良く昔出ていた「キンチャン」という芸人にどこか似ているのである。この「キ
ンチャン」は女性、もう一人の中段は細面のごく普通のおばさんタイプ。二人とも良くし
ゃべり良く食べる。男の乗客は皆静かでどちらかと云うと女には一目置いている様に見え
た。下の階の一人の男と筆談して[中国の男性は、心静]と書くと笑っている。これに対
し女は強いという意味で[心根強靭]と書くと「テーテー」「ミンバイ」と繰り返し、其
の通りだと云う。さらに[心根 愛性細心]と書くと、其の通りだ、貴方はどうして中国
のことを知っているのだと云う。私が戦争当時の事を書くと「これからは戦争はない」と
云う。仲良くなる為、遠い日本から一人でやって来た意味を書いて示した。

 うるさい車内音楽放送も終わり、消灯時間となった。私も何時の間にか寝込んでいた。
すると、大きな声で何か調べている。制服の者が網棚の荷物を調べている。懐中電灯で一
人一人照らしている。どうやら私の休んでいる中段と、本来の私の席である三階が入れ代
わっていると云っているのである。警乗警備官らしい。入れ替わりが男と女だけに厳しい。
周囲の者達がしきりに説明している。当の心優しい「キンチャン」は自分から交換してあ
げたのだと証言している。やがて、警備官は納得したのか、その場を立ち去った。中々風
紀も厳しい中国の半面を見た。つまり外国人への接近は極力目を光らせているというい実
感である。連日の暑さと水分の補給が少ないからか、トイレには一度も行っていない。
夕食は食べなかった。

       
       中国鉄道三段式開放寝台「硬臥車」

  つづく

36

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記6(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 3月21日(土)16時50分22秒
返信・引用
 
 第6日・7日目  香港→広州  



9月15日(晴)気温27℃ 第6日目 ― 香港 ―

九広線の調査をベッドの上でする。鉄道時刻表等。8:30起床。洗面、歯磨き。女性達は
午前便で北京へ出発した。朝食は粥と味噌汁、野菜と肉炒め。食後、九広線、九龍站(駅)
まで徒歩行軍。途中国際電報局に寄る。チャタムロード経由でグランドホテルを過ぎ、キ
ャメロンロードを左折し帰宿。いよいよ明日出発なので、久保木君と北京料理を食べに行
く。夕刻久保木君が中国入国ビザ、パスポート、そして帰路航空券を旅行社に取りに行っ
てくれた。帰路の航空チケットは、タイ航空で、香港←→成田往復である。それなのに、
東京→香港片道チケットより安いのである。誠に不思議である。彼もストレートで種々利
益を考えずに手早く仕事を済ませてくれるので、本当に御礼心で北京料理代金は私が支払
わせてもらった。
夕食後ピールを飲みながら「後藤さん、いよいよ明日からしばしお別れですね……。何だ
か淋しくなりますよ。多分後藤さんなら大丈夫ですよ。むしろ、中国は後藤さんの方が詳
しいし、年配者は何と云っても強身ですよ。でも気を付けてくださいね、気を許さず。…
そして云いたいことを云って下さいよ。彼らもきっと理解しますよ…」。シャワーを浴び
て髪に油をつけ、やすむ。




9月16日(晴)気温28℃ 第7日目 ― 香港(英国)→ 広州(中国) ―

        

AM7:00起床。昨夜中に必要最小限の荷物に直して1個の鞄に詰め替え、透明袋に地図、
スケッチブック、カメラ1台、色鉛筆等を入れ、朝食。パンと牛乳で軽く済ませ、使わな
くなった別の鞄を久保木さんに預かってもらい出発した。水筒を持ち徒歩で九龍站(駅)
へ。一度来て下見をしているので、スムーズに到着することができた。途中国際電報局に
寄って東京宛の航空便を出す。九龍站窓口にて羅湖(ローウー)まで乗車券を買って改札を通
ったが、何番ホームの電車かわからない。快直(普通急行)に乗ればいずれにしろ国境に
近づくであろうと気軽に乗った。綺麗な電車である。赤い座席の空席に座して、青年会社
員風の男性と向き合って座った。彼が英語で話しかけてきたが、早口で良く聞き取れない。
其の内、袋の中身を指さして中国語混じりで…「オーイエス、ジャパニーズ ペインティ
ング。どちらへ」と聞かれ、「私は広州へ行きます」と答える。彼は切符を見せろと云う。
何やら考え込んでいる様子。さかんに時計を気にしている。其の内次の停車駅で一緒に降
りようと云い出した。素直に従って私も下車。降りると彼はこの駅の駅長をつかまえ何や
ら話していた。「15分後の列車に乗って下さい」と云って手を振りながら次の電車に乗り
手を振って去った。
 駅長に私の名刺を渡し、彼のサインをしてもらう。
15分がたちいよいよ列車がホームに到着。ここでこの人の良い駅長と別れた。遠い異国の
知らない駅の駅長、私にとってはさほど心配していない乗り違いのハプニング。こんな事
は東京にいても良くあることで、ただ目的地より手前の駅にて終点になるだけの話である
が、それに気付いて、目的地の駅まで運んでくれる列車を途中下車までして駅長に頼んで
次の電車で去っていった青年、やはり、国際人的親切心が身に着いていると云えよう。
 乗り換えた列車は超満員であったが、終着駅羅湖では三分の一程度。それでも、これだ
けの人々が中国側へ渡るのである。前2回の訪中は、香港空港から直接桂林や北京に入っ
たので入国書類さえ見せれば簡単なものであった。今回は個人として入るのである。長い
行列の果て、香港出国申請書を書き込み、パスポートと一緒に提出。荷物検査OK、長い
廊下を通り中国入国申請書に書き込む。わからない箇所のところで考えあぐねていると、
50代程の女性官吏が「ここは“日本”だけでミンバイ(明白)」。云われたとおり「日本」
と書き、自筆署名しパスポートと共に出す。…深緑色の制服に赤い襟章。中国官憲の最た
る姿である。無表情のまま書類を返してくれた。ここでは焦茶の表紙のパスポート所持者
と顔写眞の貼った定期券の様なものを持った中国人は、別のゲートからとなっている。こ
の中国人連中は山ほどの荷物を持って押し合いへし合いして行列が流れて行く。ここでも
赤地に金の紋章は誠に鄭重である。私は無検査で通過。

 ここは中国特別区深圳である。出た所で先ず日本円一万を換金した。香港ではドル、今
度は元にかえた。そして、「広州行き乗り場」と文字で書くと彼らは直ぐ反応することも
わかった。彼らの文章から地廊を通り接客所へと読み取れた。つまり地下道の下の待合所
で待期せよと云うのである。気が付くと大部分の中国客は切符を持っている。私は無い。
そこで、この広場で広州までの普通席を買うことになった。「深圳→広州」とある窓口で
行列。廻りは用のない人間達の山でごったがえしている。窓口では直径15㎝程の穴から
手首だけ出して金と切符のやりとりをしている。私は紙切れに[深圳→広州、乗車券、金
票?]と書いて穴から渡すと、どんなに混雑してようが、まったく「メーカンシー」(丁寧)
に金額を書いてまたその穴から出してくれる。其れを見て10元紙幣を差し込み「イーガ」
(1枚)と云うとお釣りと1枚の切符を出してくれるのである。今までの旅では考えられな
かった眞の中国人民の生活に触れることが出来たし、又彼等も、彼等の生活の中に海外か
ら直接個人が来ているのだという満足感の様なものがチラリと見えてくる。切符を求めた
後直ちに電車に乗れるのかなと思って待合所に行くと、ザット数千人の人の山。いや海の
様にも感じた。たいていならこれを見ただけで引き返してしまうであろう。この沢山の人
の海から先ず駅務員を見付け出すことが先決だ。職員の大部分が女性。ホーム入り口近く
は警備兵、保安警察の男と駅務員。切符を見せて出発時刻を聞くと、一番奥の方を指差し
「ミンバイ」と云う。とんでもない所に列車番号と時刻が書いてある。先ず表示が悪い。
出発時刻を見るとあと50分もある。一度外に出て駅前道路を歩いた。写眞を撮る。
定刻、普通席に座して一路広州に向かう。外の景色はガラリと変わり、殺伐たる田園風景
が展開する。

 夕刻6:00広州に到着した。その武骨なプラットホームは大陸の玄関口に相応しい。茜
色に染まった夕陽が、刻一刻と明るさを減らしていく。予備知識の通り、鉄の檻から流れ
出る砂利の様に沢山の人間が、埋めつくされた黒山の人垣の中に戻されていく。自分も其
の中の1人である。これでは少々の事があっても何も見えてこないのが常識と云えよう。
取り敢えず大きな群れを避けて右側に一気に飛び出した。沢山の手を振り抜いて廻り込む
と、幅広い歩道はしゃがみ込む人や立ったままの男でいっぱいだ。私は鞄を肩にして車道
というか、大型車やバスの走り込む空間を風の様な早さで駅舎の対面方向に直進した。大
きな字で書かれている文字を読みながら推定して、「飯店」(ホテル)と記された比較的
大きい建物を見定めて正面玄関から入る。
 夕方で受付はごった返している。連中の混雑を避け、脇のカウンターで少し様子を見て
いると受付係の女性がこちらを見たので手招きした。そして一泊したいと話すと用紙を出
してきた。それに書き込み提出するとパスポートを見せてくれと云う。差し出すと90元の
部屋しかないと云う。OKと云うと直ちに案内してくれた。尚、先のことを考えここでさ
らに一万円を元と交換する。
 立派なホテルだ。大きなベッド二つと浴槽、カラーTV付。F1(香港と異なり、日本と
同じくF1は一階のこと)にある飯店で夕食。豚菜スープ、炒飯を食べ中国入国の第一夜を
広州の流花(リュウファ)賓館に泊まった。1日の長かったこと。浴槽で着ていたアロハを洗
濯し、下着も洗って浴場で干し、歯を磨き休む。後程わかってくるが、何と云っても中国
の玄関口であり、ホテルも先ず国際旅行客の宿泊を体験した者達の経営であることも推測
出来る。


 
   広州火車站                 広州流花賓館

つづく

35

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記5(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 3月16日(月)05時54分55秒
返信・引用
 
 第5日目 ―香港島へ渡る ―  



9月14日(晴)気温27℃

 朝7:00起床。洗面、歯磨き、髭剃り、調髪後、このビルの隣の店から出来たての蒸し
パンを2個買って宿舎の冷蔵庫内のジュース1缶とで朝食を済ませ、昨夜調べたAIUに
連絡した。すると昨夜の調査通りだった。AIUビルF-11左側、YJK古賀由子さんと
云う人が担当とのこと。早めの昼食を久保木君と済ませた後、用事があるという久保木君
といっしょに外に出た。細い繁華街からいくつかの大通りを渡り、地下鉄の駅「尖沙咀
(チムサツチヨイ)」へ地下道を通り入る。自動券売機に2ドル硬貨を入れ購入。
「香港島行きに乗り次の駅で乗り換えて次の湾仔(ワンチヤイ)で下車し地上に出る。
荘子道を登山道に沿って一番目の左カーブを過ぎ右カーブに差し掛かった右上に大きなビ
ルがあって高いところに揚がっている星条旗が目印だ」と説明を受けている。
 香港に来て初めて単独で地下鉄に乗った。英国式の立派な電車だが、「香港島行き」と
は書いていない。次の「金鐘(ガムチヨン)」(英:アドミラルティ)という字の前に別の
文字がある。つまり行き先という意味の字が頭に書いてあるがちんぷんかんぷんだ。
ええい、ままよ。ホームに入ってきた列車に乗る。次の金鐘で下車し別のホームへ地下道
を通り出て「柴湾」行きの電車に乗り次の駅「湾仔」で降りる。ここまでは無事たどりつ
いたわけだ。

 地図で見た時の方向を頭に描き、電車進行方向と対応して地下道を進む。
一番表通りに近いと思われる出口を探し、階段を登って下界に出る。まったく想像もつか
ない程の難民街である。
人間のみ多く、不気味である。出口の周辺は小さな町の公園の様になっている。脇道を抜
けると一挙に大通りに出た。ここは二階建ての路面電車やバスが通る幹線道路である。地
図を思い出しながら左へ200m程歩いたが、何とも黒山の人盛りと、急警車が何台か停止し
て、通行制限している。又元の場所に引き返しタクシーをつかまえようと手を上げたが、
何度「ダギシー!」と叫んでも停止しない。其の内渋滞でタクシーも停止しだした。ここ
ぞとばかりに急いで車道に飛び出して、タクシーの扉を叩いて開かせた。乗り込むと同時
に「AIUビルディング GO」、「OK」と云って運転手は発車した。例の右カーブま
でかなり距離がある。荘子頓道は高架道で徒歩では当然いけなかったわけだ。タクシーで
正解だった。料金を10ドル紙幣で払い5ドル硬貨の釣り銭を受け取った後、白亜の殿堂の
ようにそびえ立つAIUビルの中に入る。

 エレベーターでF-11、そして古賀由子さんなる女性担当者と面会し旅行期日延長で保険
を延長したいことを説明した。彼女は私を見るなり「御年配で…私の父と同じくらいかしら。
…もっと若い方かと思ってました。写生をしに香港においでですか」と云った。
「いや実は中国大陸へ昔通信兵で来てましてね。戦友達が命を落としたかつての激戦地へ
供養のつもりで来たんです」
「私の父も戦時中に中国にいっていたんです。もう旅は無理なので、父から聞いてた戦争
中に過ごした中国の地を父の代わりに訪問したいと思ってるんです。貴方の様な方が見え
られ、香港に来て以来こんな嬉しいことはありません」そう言って彼女は延長手続きを済
ませると「一寸用事で町に出ますから御一緒しましょう」と、私を途中まで見送ってくれ
ることになった。
 AIUビルの周辺は公園の様に草花の手入れが良く、緑も一段と美しく映えていた。
彼女と談笑しながら歩いて、高速道路(高架道)つけ根のバス停で待った。
2ドル硬貨を入れて、二階建てバスに乗った。二階に上り一番先頭の見晴らしの良い席に
ついた。2つ目で下車。「中心」(セントラル)と云う名称どおり、ここは官庁街、金融
街だと彼女は説明してくれた。立派な公園内を通り抜け、噴水の所で彼女を撮影し、廻り
の建物の案内をされながらフェリーボート埠頭に来た。ここで彼女と別れた。

      
       HK AIU No.1 Stubbs Road

 埠頭には二艇が留まっている。しかも同時に出発のようだ。どちらに搭乗するかわから
ず迷ったが、左側に留まっていたフェリーに飛び乗った。正解であった。右側の船は浜に
添って反対方向に行ってしまった。私が乗船した船は湾を直線に横断し、尖沙咀(チムサ
ッチヨイ)方向に進んだ。廻りの見物より行き先の方が心配であったが、違わず到着した。
しかしこの船を利用したことがないので到着したものの自分が居る位置が覚束ない。昨日
桟橋まで来た時とは違う桟橋の様である。ビーチロード手前の案内所で尋ねてみた。互い
の英語の発音が悪く、ピンキングロードとビーチロードの区別がつかない。これでいいか
と進路図を書いて示すと「OK、OK、知っているではないか」と云う。「サンクス」と
云って出発。
 30℃以上あると思われる町を歩いて宿舎に着いた。久保木君が心配してくれていた。夕
食はおいしいものを色々と作ってくれた。夕食はKO女学生2人を含めて皆で食した。シ
ャワーを浴び、ゆっくりやすむ。

つづく

    
   香港島側スターフェリー(左側が九龍)            九龍側スターフェリー

33

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記4(T.Goto著)

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 3月 8日(日)11時00分10秒
返信・引用
  .
 第3・第4日目 ― 香港 ―  



9月12日(晴後曇り)気温26℃~28℃ 第3日目

朝7:00起床。洗面、歯磨きの後、近くを散歩。町中でセブンイレブンを発見し、ここで
葡萄パンと牛乳パックを購入。ハウスに持ち帰り朝食とする。
AM10:00、再度地近くの町並みを歩き撮影とスケッチ。PM2:00帰宿。ベッドにて休養。同
宿の桑原誠さんと一緒に通りの食堂に出掛ける。中国系の店か、客は中国人のみ。名称が
わからないので、メニューを見せてもらう。「湯」という文字が入ってあればスープもの。
「炒」という文字があれば焼きもの。肉なり魚類なりを判断して注文した。私は炒めもの、
内地の焼きそばに似ている。彼は牛肉入りラーメンといったところだ。彼のはスープばか
りでそばが少ない。私の山ほどある焼きそばを彼のスープに半分ほど入れ食べてもらう。
夕食は久保木さんに和食を作ってもらう。和食は皆美味しかった。外の食事のまずさを思
い出す。夕食後シャワーを浴び歯を磨き休む。朝食のときにも気が付いたのだが、洗面所
で外から聞こえてくるピヤピヤピヤは鳥の啼声。

   朝になると街中の鳥籠から囀りが聞こえてくる



9月13日(晴)気温28℃ 第4日目

 朝7:00起床。洗面、歯磨き。今朝もピヤピヤピヤ。南方の小鳥であろう。ここダイヤ
・ハウスの正しい番地名は「九龍尖沙咀寳勒3A F3(ここ香港では階数を表す数字は日本
でいう階数マイナス1。従ってF3とは4階のこと)である。今朝も香港製カステラと牛乳
を近くで買って来た。早大生桑山さんは本日帰国とか。小生のカメラでもう一人のサーフ
ァーと並ばせ撮影した。2人組ポートレートだ。桑山さんは朝の内に出発し、サーファー
の彼も11時出発して行った。
 近くでアルミの水筒を1個買う。18ドル。よく洗って湯冷ましを入れスケッチに出掛け
る。地図持参で海岸に向かう。埠頭の海岸道路を2km、桟橋に着いて又2.5km。そこから空
港対岸の九龍鉄路站終点まで歩く。徒歩とスケッチの旅をした。時々鉛色の曇り空になり、
パラパラと雨が降る。
 夕刻少し前に帰宿。香港出発日が繰り延べになったため、海外旅行傷害保険の延長をし
なければならない。保険証控えと契約時の書類を調べAIU日本の香港出張所と日本人の
案内窓口にいる担当者の氏名と電話番号を見つけ出した。久保木さんと地図を調べて行き
方を書きとめた。夕食後、空港から2人の日本人女学生から電話が入り、彼女達の宿泊が
決まった。
             つづく

         
                  九龍側埠頭から鉄路/ホンハム駅まで続く海沿いのプロムナード(万理)

33

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記3

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 3月 1日(日)09時10分55秒
返信・引用
  .
 第2日目 ― 香港 ―  


9月11日(晴)気温26℃

 昨夜は遅くまで久保木君と話がはずんだ。シャワーを浴びて横になると訳もなく深い眠
りに入った。第一夜、窓に面した二段ベッドの下にやすんだが、良くやすめた。
 窓辺の外の風景は、コンクリート肌のむき出し壁と看板だらけの繁華街である。東京で
云えば新宿歌舞伎町といった街並である。窓には直径15㎜ほどもある太さの鉄棒が、間隔
70㎜の格子状に組み立てられている。まるで鉄格子の牢屋から外を眺めているような気分
である。よく見ると、廻りの建物も全て同じように鉄格子の窓なのである。屋上から地上
まですっぽりと鉄格子の檻に包まれている。外の景色を見ているうちにだんだんと明るく
なり、やがて建物が朝日の光を浴びる頃から、少しずつクーラーの騒音が大きくなってそ
こいら中に反響するようになった。無造作に取り付けられたウインド型クーラーは、窓と
いう窓にこれでもか、これでもかと云う程取り付けられている。そしてこれらのクーラー
から垂れてくる水滴が繁華街の歩道の上に雨のように落ちいるという無神経さである。ど
この街並も皆同じような水浸しの景色である。

    
         エアコン オンパレード(万理)

 久保木君のこのハウスは、風の便りで、口から口へ伝わり、日本からたくさんの宿泊客
がやってくる。
今日も、女性が1名、男性は私をいれて3名宿泊している。その内の1人は早稲田大3年
生、三日程前にネパールの首都カトマンズから空路香港に着いた。ヒンズークシ山脈越え
が出来ずに終わり、引き返して来たとのこと。コースが山崩れで不通になったとか。もう
1人は元サーファー。2日後にタイに向かうそうだ。
 朝食後、久保木君と同行して旅行会社へ。中国ビザ取得依頼と銀行で兌換券と交換する
ための2万円を香港ドルにする。しめて千ドル26セント。京広線直快列車予約に中国火
車公司に出掛ける。団体旅行者が多数予約席を取っている様である。今日11日から15
日まで全て満席でだめ。やむなく次の16日を直ちに予約、そして中国旅行予定期間丸8
日を見て、次の9日目の25日の帰路の予約切符を入手した。中国に出発する16日まで
の間は香港写生旅行にあてることとする。手配を早めに済ませたので、帰宿後、同宿若者
達と旅行談議と明日からの予定の調査の後、夕食。味噌汁、御飯、いかの煮込み野菜、オ
ムレツ、キムチ。食事の後シャワーを浴び洗濯。
             つづく

24

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記2

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 2月21日(土)08時01分5秒
返信・引用
 
 第1日目 ( 成田 → 香港)  


9月10日(晴れ)気温26℃ 第1日目

 愈々出発日。2つの鞄と透明ビニール袋を持ってE電にて上野駅へ。京成上野駅から空
港行き特急にて成田空港へ。空港入港時にパスポート及び手荷物の検査。そして空港ラウ
ンジにてユナイテッド航空(株)831便の搭乗手続きをする。空港使用料2千円を支払
い35番ゲート進入指示に従って進む。ここで再びカード申請。搭乗機の到着が遅れてい
る為、出発時刻が来たがまだ搭乗出来ない。そして到着便の整備もそこそこにやっと搭乗
開始した。受付近くに居た小生を後廻しに身障者、次に子供連れと老人、次にビジネスク
ラス旅行者、最後に観光客、私は一番おしまいに搭乗。座席ベルトをつけ、説明の終わる
間もなく機は発進、飛行した。一路香港に向かって直行する。私の左隣は、子連れのメキ
シコ系米国婦人。右隣は日本人男性だ。

 成田出発後、約1時間程して香港入国申請書用紙が配布された。乗り継ぎの為、香港で
寄泊する乗客のみ書き込めとの事である。書類に書き込んでいると、右側の男性が私にビ
ジネスですか?と訊ねてきた。「いや、自由旅行です。写生で。貴方はビジネスですか?」
と答えると、ハイと云ってこの若者は名刺をくれた。清水建設(株)海外建設部何々と記
されてあった。
「いや私もお宅の会社に建物を発注したことがありました」
「ご自宅ですか?」
「いや私の務めていた会社、昭和電工(株)技術本部でのことで…」
「昭電ですか。……工場の建設?」
「まあそれもあるが、プラント建設でね。貴方は東京本社からの出張ですか?」
「私は入社8年目ですが、配属されてからずっとサイパンで建設をしていました。本社か
ら急に帰国を命ぜられ、又すぐ香港に出向命令です。何しろ香港に居る人の顔も人数もわ
からないんです」
「大変ですな…」
こんな話をしている内に機内食が次から次へと運ばれてきた。ビフテキ、サラダ、寿司、
スープ、ジュース、コーヒー、ワイン、ウィスキー水割り等。
頂けば当然出る。トイレは行列をなして待つ乗客でつかえている。時間的に云うと離陸か
ら3時間を過ぎている。少し待ち、客の減少を見て、清水建設氏に続いて小生も用を足し
た。ウィスキー水割り1パイで驚く程廻る。後で聞いた事だが、上空では3~4倍効きが
良いとのことであった。
 トイレの帰り、機体が降下している状態にあると感じたが、直ぐに着陸態勢前のベルト
着用のアナウンスがあった。矢張り降下中であった。着席後ベルトを締め少しするとエン
ジン音が高くなった。失速状態の中、加速し且つ翼圧力制御して徐々に減速降下する作業
が全身に伝わってくる。益々エンジン音が強くなり、機体は少しゆっくりローリングし着
陸近きを知った。やがて細かい振動とエンジン音が一段と大きくなると、スーッと気が抜
けたような静かな滑りとゴロゴロという振動があって、地上に降り立った機体が静かに誘
導路を進む。着地成功。到着したこの空港(啓徳空港)は日本ではない。
順次タラップを降りながら前方を見ると、香港百万ドルの夜景が展開していた。

 ゲートを通り税関そして入国検査。赤地に金の菊模様のパスポートは検査無用であった。
これを出ると兌換所があった。取り敢えず日本円で3千程を香港ドルに換金した。この脇
にあった電話で久保木君のホテルに連絡を取った。電話に出た彼に到着の報告をすると、
リムジンバスの①番乗り場のバスに乗りグランドホテル前で降りて下さいとのことであっ
た。料金は5ドルと云っていた。換金した硬貨の数字が暗くてよく見えない。香港ドルは
英国ドルと同じだと云うが、何しろ今まで使ったことがない。
回転扉の外は中国系の浮浪者でびっしり人垣が出来ていて、旅行客の荷物を取りっこする
始末である。これにはまったく驚く。こうした人垣を振り切って外に出た。気のせいでも
ないが、喉がむせる程埃っぽい。①番に着いた汽車(バス)に乗り運転手に「ハウマッチ」
と訊ねながら、20ドル紙幣や10ドル紙幣を出すと、換金して来いと云う(後から分か
った)。さらに運転手は早口の中国語で顔色を変えて乗車拒否に出た。そこで私はバスの
乗車券を買ってこいと言われたものと早合点。インフォメーションでも会話にならず、英
語の通じそうな空港警備警官をつかまえて聞いた。これが又中国語(広東語)だけ。彼は
身振りでこの電話に出ろと云う。受話器の先から日本語で「貴方は何をなくしましたか?」
と聞こえて来た。「そういう事件ではない」と答えると、又この意味が相手に伝わらない。
ゆっくりと「空港站(駅)の汽車(バス)、代金は?、切符売り場は?」と云うと又「切
符」の意味が通じない。相手が探りを入れて答えた。「金格は5ドルあるネ」。これで全
部了解、合点がいった。紙幣ではなく硬貨なのだ。「了解。有難う。サンキュー」と云っ
て電話を置いた。そこで、この脇にある兌換所で紙幣を硬貨にしてもらい又①番のバス停
に戻った。ところが又渡した10ドル硬貨を指して「替えてこい」と運転手が云う。そん
なやりとりをしている所に印度風の男が入って来た。彼も同じ様に換金して来いと云われ
ているようだ。その内、運転手がやにわに私の10ドル硬貨を取ったと思ったら、彼の印
度風の男から1ドル硬貨を5枚むしり取り私によこした。こうして二人やっとバスに乗る
ことができた。誠に変な話である。

 バス搭乗後しばらくして「グランドホテルだ」と云うので不安ながらそこで下車。久保
木君が待ち焦がれていた。二人で遅い夕食を頂き、久し振りに夜通し語った。香港と日本
は1時間の時差があるから、ここより先に、東京は11日になっていた。
            つづく

        
           香港カイタック(啓徳)空港
                  * 1998年7月5日に閉港、中国返還を受けランタオ島に移転

18

 

中国縦断4300粁単独自由旅行記1

 投稿者:同人α編集部  投稿日:2015年 2月15日(日)06時53分18秒
返信・引用
  出発前  


はじめに

 この旅行の切っ掛けとなった直接の要因は、1983年の或る日、「二中隊の松井です
が」と掛かってきた電話にある。この電話の主は、四十二年前の、かつての中隊長殿であ
った。「後藤さん、お元気ですか。貴方も御存じと思うが、毎年4月第一週目の、日曜日
に九段の靖国神社参詣をやっていますが、昭和19年次の集まりが悪くてね……。何とか
御協力して貰えませんか。それに、別に、一つお願いがあるんですがね……。今手分けし
て、中隊名簿作成中なんですが、貴方に当時の思い出になるような絵を描いてもらいたい
んですが、引き受けてくれませんか」と云う電話だった。そして絵の制作に当たっては、
中隊長殿からお手持ちの写眞等の資料を貸して頂くことになり、約3ヶ月の期間で数点の
作品を仕上げ、お渡しした。
 この名簿に使われた絵画の制作については、今までに一度も体験したこともない異常な
感動を知った。先ず資料の一つとして第二中隊兵員名簿の原本控を戴き、これを開いたと
きの感動である。各年次ごとの名前と住所を讀んでいるうちに、手は震え、全身に汗が流
れ、髙熱を発した状態となった。これはどうしたことであろうと。……
ふと我に返り、早速この名簿を仏壇に捧げ、灯明を点し、焼香し、そして読経を重ねた。
少しずつ心の落ち着きを得て、再度拝読した記憶を今も覚えている。
 復員後は忙去することのみを一心に願って生きてきた。私にとっては誠に恥ずかしい限
りであった。
今日こうして生きて居られる事の本質は澤山の戦友達のお蔭であることを悟ったのであ
る。
其の後、建築、土木学会員等の見学同行に依る中国見学の機会を得、益々亡き戦友達の墓
参への思いを強くした。又一方日本国内の政治・経済・教育の面で何か欠けているものが
あるのではないか、日本人の生活そのものを見直す意味も含めて、海外から見て考えたい
と言う気持ちが強まってきた。
こうした事から下調査を十分行った上で、中国旅行を実施することにした。
 計画は、私の元部下であった久保木と彼の使用人の若者と私の計3名であったが、日本
出発後、第一寄港地の香港でこの計画は全てご破算となる。そして、この旅は私の単独旅
行となった。



出発準備

 今回は何もかも、すべて自分の力で推進したいと考えていたので、旅券申請から航空券
購入、現地調査資料及び鉄道事情資料を調べて廻った。特に航空券購入については、其の
複雑な仕組みが少しずつ理解出来た事と、「旅行通」と云われる人々や学生達の知識も同
じ様に、一つ一つの体験を積み重ねたものであることも理解出来た。
 もう一つの装備は、自分の目的に添ったものが必要である。私の場合は目的地が中国内
陸の奥地である為、必要最小限の物を準備した。
(1)被服
着衣以外に各1着……ズボン
 同   各2枚……肌着上下
靴下・ハンカチ………各3枚
ジャンパー……………1着
着衣 …アロハ………1着

(2)洗面具
歯磨、歯刷子、タオル、髭剃り、石鹸、各1

(3)雨具
折り畳み傘……………1本

(4)書類
旅行計画書、地図、到着地宿泊ホテル電話番号等
旅行日程表、旅券(パスポート)、行き先のカタログ等

(5)現金
現金又はトラベラーチェック、カード

(6)薬品
胃腸薬、下痢止め薬、口内消毒剤、バンドエイド10枚、消毒綿等少量、目薬、メンターム

(7)雑品
蚊取線香10巻、針金26♯~18♯ 30㎝x2本 包み紐、ポリエチ紐2~3㍍1本、虫眼鏡、ボールペン数本、
メモ用紙、色マジックペン7本、鉛筆4B HB数本、小さな定規1枚、紙切り夾み1丁

(8)画材
画帳、ドーサ引き和紙、色紙・和画仙紙10枚 鳥の子紙(とりのこがみ)10枚、スケッチブック小3部
ハガキサイズ2部、水彩絵具2セット・墨

(9)鞄
レザーもの1、化学合成製1

(10)カメラ

以上(1)~(10)の各項目を鞄2個に詰めた。スケッチブック、鉛筆、カメラ、ボールペン、行先図面、
パスポート、航空券は透明ビニール袋に納めて出発準備を完了する。



出発体勢

現地中国の状況について、第一寄港地香港から情報を受け、天候と観光客の予測を見て、
航空券の手配をする。学生一般の夏期休暇期間を避け、残存旅客の減少を予測して代理店
に交渉した。9月に入ると、予測通りダブリが出始めた。旅行者の縁起から、佳日旅立ち
と云うのが通例である。小生も気にしながら縁起の悪い日を避ける日程を組んでいた。安
さにたがわず最悪の日だけに空席があった。一番悪い日を選ぶのも又意味のあるしるしと、
即座にこの日9月10日を予約し、支払いも済ませた。この際*万能保険も同。
(*海外旅行傷害保険)
            
              mari

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